第七百五十話 意外な書簡
鳥の鳴き声がかすかに聞こえてくる。ここ最近は、これが目覚ましの合図だ。ゆっくりベッドからその身を起こす。すでに冬が近いためか、部屋の空気が澄んでいて、少し肌寒い。そんなことを感じながら、枕元に置いてある水差しを手に取り、ゆっくりと水を飲む。
ベッドから降りると、真っすぐにバスルームに向かう。
「おはよう」
「おはようございます……教皇聖下」
侍女に声をかけると、大きく体を震わせながら挨拶を返してくる。ヴィエイユはそうした反応が大好きだった。
バスルームの扉を開ける。すでに中は温かい。目覚めるのを察知した先ほどの侍女が、部屋を暖めてくれたのだろう。恐らく自分が起きる時間を予測して、部屋の温度を管理しているのだろう。実に優秀だと心の中で呟く。
服を脱いで一糸まとわぬ裸になる。隣の部屋には、バスタブが設えられてあり、中には湯が湛えられている。しかも、それは適温に温められていた。しかも、その中には彼女が好む香水が混ぜられているために、扉を開けると、実に良い香りが鼻をくすぐる。
ヴィエイユはゆっくりとバスタブに入り、その身を沈める。全身が温もりに包まれる。
毎回思うことだが、この入浴方法を考えたアガルタ王は素晴らしいと思う。教皇神殿を改築するとき、無理をしてこれを作ってよかったと、ヴィエイユは心からそう思っていた。一番の問題は、このバスタブの水をどこに排出するかだったが、栓を抜くと、石で作られた樋を通って、すぐ下の部屋に排出される仕組みになっている。そこには、大きな水槽が作られていて、浴槽とバスルームの湯は、すべてそこに集められる。
水槽に水が溜まると、すぐさま信者たちがそれを瓶に詰めていく。その水は、クリミアーナ教徒の間で、飲んでよし、付けてよしの万病に効く薬として、日本円にして一本十万円の値段で売られていく。これは薬としてだけでなく、家においておけば邪気を払う効果もあるとされているため、教徒の間で飛ぶように売れていく。しかもそれは、教都アフロディーテだけでなく、世界中のクリミアーナ教徒や、ヴィエイユに心酔する者たちが求めていく。今やこれは、クリミアーナ教国にとって重要な資金源となっていた。
湯に浸かりながらヴィエイユは何も考えず、ボーッとしている。こんな姿を教徒らに晒すわけにはいかないが、万に一つも、この部屋に誰かが入って来ることはない。ここはヴィエイユが唯一、人目を気にしないで己をさらけ出せる場所であった。
バスタブの湯で顔を洗う。この湯も瓶に詰められて売られていく……。そんなことを考えたとき、ふと、彼女の脳裏にある考えが浮かんだ。
……もし私がこの中で用を足してしまったとしても、皆はこれを買い求めるのかしら?
我ながらくだらないことを考えたものだと自嘲する。それをしたところで、誰もわからないだろうが、教皇が生気を込めた水として、これまでの十倍の値段で売っても面白いかもしれない。そんなことを考えていると、思わず笑いが込み上げてくる。
……そんなことをしてバレたら、また反乱が起こってしまうわね。
心の中でそう呟いて、彼女はバスタブから出て、すぐ隣に設えてある小さな水桶に手を入れる。……冷たい。だが、彼女はそれで顔を浸すようにして洗顔を始めた。そして最後に、その水を全身から浴びた。
脱衣所に戻って、そこに置いてある鏡に自分の姿を映す。体中が上気して肌がピンク色になっている。タオルを取り、丁寧に水分を拭いてゆく。我ながら美しい体だと思う。たまに侍女を呼ぶときがあるが、彼女らはヴィエイユの体を見て、必ず顔を真っ赤にして目を伏せる。ヴィエイユはその瞬間が大好きだった。
……この脱衣所をガラス張りにすれば、皆、どんな顔をするかしら。
そこまで考えて、彼女はくだらぬことだと自分に言い聞かせて、バスローブを身に纏い、部屋を後にした。
自室に戻ると、すでに朝食が準備されていて、侍女が給仕のために控えていた。ヴィエイユは無言で席に着くと、さっさと朝食を摂り始めた。
焼き立てのパンにサラダ、メインには、卵料理のときもあれば、ステーキの場合もある。この日はハムエッグだった。
バスローブのひもは緩く閉められているため、ヴィエイユの胸元はほとんど見えてしまっている。辛うじて乳首までは見えていないが、美しい乳房の大半は露わになっている。さらに彼女は足を組みながら食事を摂っているため、真っ白な太ももが見えてしまっている。侍女たちはその体を見まいと心がけているが、どうしてもその視線は胸と腰に行ってしまう。
朝食の最後は決まって、搾りたてのオレンジジュースだ。彼女はそれをグイッと一気に飲み干す。それが着替えの合図となっていて、侍女が下着と教皇服を持ってくる。ヴィエイユは立ち上がると、無造作にバスローブを脱ぎ、一糸まとわぬ裸になった。侍女たちから声にならない声が漏れる。
そんな視線は全く関係ないとばかりに、彼女は教皇服を手に取って、素早く身に付ける。下着は侍女の手にあるままだ。それを察して、彼女は優しげな表情を浮かべながら口を開く。
「今日は午前中だけ業務を行います。昼からはここで寛ぎます」
彼女の言葉に、侍女たちは一様に頭を下げた。
自室を出て、執務室に向かう。皆、最敬礼で彼女を迎える。それに右手を挙げて応えながら、椅子に腰かける。机には、盆にのせられた書簡が積まれていて、彼女はそれを片っ端から目を通していく。大体が、ご機嫌伺いの書簡だ。
「ん?」
一つの書簡に目が止まる。差出人は、カルートレン帝国の皇帝、トーゴからのものだった。
彼は敬虔なクリミアーナ教徒にして、ヴィエイユに心酔している男の一人だった。彼女としても、彼には大きな信頼を置いていた。その男からの書簡はてっきり、何かの貢物か、ご機嫌伺いかのいずれかと考えたが、そこに書かれていたのは、戦争の報告だった。
今、カルートレン帝国は、エルスモ、ノーノ、セーファンドと共に、ミトス王国を攻めているという。そこには、おそらくヒーデータ帝国とアガルタから援軍が来るであろうことが書かれてあった。そして、文末には、この戦いにおいて、必ずアガルタ王の首を討って御覧に入れますと書かれてあった。
ヴィエイユは書簡から目を離すと、スッと天に視線を泳がせた。
一体、何が起こっているのかがわからなかった。このような展開は、ヴィエイユすら予想もしていないことだった。一体何があったのか……。
加えて、この戦いでアガルタ王の首を獲るという。その可能性は極めて低いとヴィエイユは考えていたが、万に一つ、ということもある。そうなった場合、我がクリミアーナ教国は、昔日の勢いを取り戻せるのではないか……そんな期待感が胸に湧き上がる。
いや、たとえアガルタ王がこの世から消えたとしても、あの王に仕える者たちは極めて優秀だ。すぐに国が瓦解するとは思えない。王が亡くなったとしても、今の体制は維持されるだろう。
あの王が消えた後、誰がアガルタを動かすのか……。王子はいるが、どれも幼い。誰かが後見することになるだろう。そんなことを考えたとき、ヴィエイユの脳裏に一人の女性の顔が浮かび上がった。それは、リコレットだった。
きっと彼女が王の後を継いで、政治を動かすだろう。なかなか厄介な相手だが、彼女は精神的に脆い部分がある。もし、彼女が精神的に参って、おかしなことをやりだしたら……。クリミアーナの復活は、意外と早いかもしれない。
……いけない、いけない。
ヴィエイユはそう言って自重する。そんな可能性は極めて少ないだろう。そんなことに時間を費やすのは、それこそ時間の無駄というものだ。彼女は持っていた書簡を脇に置くと、また、新しい書簡に手を伸ばした。
早く書簡を読み終えて、部屋に戻りたい……。下着を身に付けていないので、何だか寒く感じる。やはりこの時期は、下着は付けた方がいいと心の中で呟きながら、彼女は書簡に目を通すのだった。




