第七百四十五話 一体どこを?
ノマサが帰還して一週間後、ノーノ王国から使いがやって来た。使者に立ったのは、王弟であるカボンだった。彼は取るものも取り敢えずといった雰囲気を醸し出しながら、ノマサの前に立った。
「殿下の無事のご帰還……お祝い申し上げます」
カボンはそう言って腰を折った。誰も、何も口を開かなかった。不気味な沈黙が謁見の間を支配していた。
「いや、宰相……王弟殿の直々のお越し、ご苦労様でございます」
やっと口を開いたのは、エスルモ王国の宰相であるオクマだった。王弟自ら来ているのだ。本来ならば国王自ら言葉をかけるのが通例だった。よしんば、王が口を開かなくても、その息子たる王太子・ノマサが、何らかの挨拶を返すのが礼儀だった。
宰相ツーレは、カボンの心中を察していた。ノーノ王国とて、先の戦いで多くの兵士を失っている。漏れ聞くところでは、カーザ城を攻めた五千の兵はほぼ、全滅したという。五千と言えば、ノーノとしては動員できる全兵力のおよそ半分だ。おそらく、カーザに派遣した兵士は、その中でも最精鋭の者を選りすぐっていたはずだ。今やノーノは、半分死んだような状態にあると言えた。
ただ、この国にはツキがある。グレイ・サハラが発生したことは驚嘆するべき事実だが、そのお陰で、ノーノはセーファンド帝国から侵攻される可能性がなくなった。さすがに、グレイ・サハラが発生した場所を通ってノーノに侵攻する勇気は、いかにセーファンドとはいえ、ないだろうと考えていた。
グレイ・サハラが発生場所は、何年にもわたってドラゴンたちの巣窟になると言われている。事実、その昔に発生した場所では今でも、多くのドラゴンが住み、住処に近づいた者たちを手当たり次第に襲い掛かっている。おそらくは、カーザ城付近もそうした状況になることが容易に想像できた。そんな場所に兵を進めるとなると、ノーノに辿り着く前に、大半の兵士が食いつくされてしまうだろう。そんなリスクを負ってまで侵攻する価値は、ノーノにあるとは思えなかった。
ツーレの目の前に控えている王弟・カボンには、近日中に王女・キルムが嫁ぐことになっている。言わば、両国は婚姻関係となる。この婚約がなければ、エルスモはもしかしたら、ノーノに侵攻していた可能性があった。宰相・オクマはそれには反対の立場だが、軍の関係者は声高にそれを主張していただろう。皇帝とノマサ殿下がそれを承認すれば、いかに宰相が反対を唱えても、エルスモは軍事行動を起こすことになる。だが、さすがに、すでに婚約が成立している国に対して手の平を返すというのは外聞が悪いし、とりわけ、軍事同盟を結んでいる隣国のカルートレン帝国がよい顔をしないことは、誰もが知っていることだった。
カルートレン帝国……。ちょうど、エスルモ帝国の東隣に位置する国であり、その国土はエスルモの五倍を有する。ただ、この国は山国であり、金や鉱石などは豊富に取れるが、小麦などの食料の収穫高はそれほど高くなかった。そのため、小麦などが豊富に取れるエルスモは、折に触れてカルートレン帝国を支援し続けてきた。そうした信頼関係は数百年に及び、この両国は、互いの欠点を補い合う無二の友好国として良好な関係を築いてきた。
ただ、軍事力だけで言うと、エスルモはカルートレンの足元にも及ばない。この帝国が本気でエルスモに侵攻すれば、一週間も持ちこたえることができないと分析されていた。
とはいえ、それをすると、カルートレンはたちまち飢えることになる。侵攻の可能性は極めて低かったが、その軍事力を盾にエスルモの内政に干渉してくることがままあり、エスルモにとってはこの帝国は目の上のたん瘤の存在と言えた。
現皇帝であるトーゴは、まだ若年ながら穏やかで知的な人物だった。敬虔なクリミアーナ教の信者であったが一方で、それは時として狂信的とも言える側面を見せることがあった。
先年、教都・アフロディーテで反乱が起こった際、彼はその反乱に同調する者たち全員を粛清した。それのみならず、周辺国からカルートレンを通過してアフロディーテに向かい、反乱に加担しようとしたものを片っ端から捕まえ、殺害するということさえやってのけた。これはあまり表には出ていない情報ではあるが、ヴィエイユが反乱を鎮圧し、教皇の返り咲くことができたのは、こうした彼の助力も間接的に影響していたのだった。
皇帝トーゴは何より、信義を重んじる人物だった。その信義に反する行為にはあからさまに不満の声を上げる人物だった。もし、ここでエルスモがノーノに侵攻するとなれば、カルートレン帝国から圧力がかかるのは目に見えていた。
宰相オクマは、皇帝とその隣に控えているノマサに視線を向け、言葉をかけるように促す。そのとき、ノマサの眼がカッと開かれた。
「ノーノ王国には、責任を取ってもらわねばならない!」
彼の父である皇帝・カーキは、目を丸くして驚いている。
「……王子、何も今ここで、そのようなことを申さずとも」
父の言葉に、ノマサはチラリと視線を向けたが、すぐに目の前に控えるカボンに向き直る。
「父上は……皇帝陛下はあのように言っておいでだが、私は違う。私は、ノーノ王国を滅ぼしたいと考えている」
「お……お待ち、下さい」
カボンは必死の形相で言葉を絞り出す。そんな彼を睨みつけながら、ノマサはさらに言葉を続ける。
「ノーノは我々エルスモの者を多く死なせた。せっかく生き残った者たちを、治療もせずに死なせた。その口惜しさは、筆舌に尽くしがたい」
「お待ちください。その件につきましては、深く、深く、お詫び申し上げます。それは、我らの医師の数に対して、負傷者の数が多すぎたためでございます」
ノーノを滅ぼす……。まさかの言葉に、宰相オクマ以下、主だった者は、固唾を飲んでノマサの言葉を待った。彼は相変わらず、カボンを睨みつけている。
「……とはいえ、貴殿は、我が妹婿。ここで、ノーノを滅ぼせば、妹も悲しむだろうな」
「は……ははっ……」
カボンは、その話は断ったはずだと言いたかったが、それはできないことだった。
「私とて、妹を悲しませたくはない。だが、ノーノを許したわけではない。今後、貴国には、それなりの責任を取ってもらう。さしあたっては……。我らが出陣する際は、必ず、全兵力をもって参陣してもらう。いいな?」
「ぜ……全兵力、と……」
「当然だ。ノーノは今、セーファンドから侵攻される可能性はなくなったのだ。全兵力を動員しても、問題ないだろう。違うか?」
「う……ははっ」
カボンはそう言って恭しく頭を下げた。宰相オクマは、ノマサの手腕を見事だと思ったが、一方で、こんなことを心の中で呟いていた。
……これでノーノは我が国に従属したも同然となった。しかし、殿下は一体どこを攻めるおつもりなのだろうか。この周辺国には、戦いの火種となるようなものは見当たらない。とすれば、どこかの国に遠征なさるのか? そうなれば、隣国のカルートレン帝国に伺いを立てねばなるまいな。
「宰相」
突然、ノマサが口を開いた。ツーレは予想外のことであったため動揺したが、それを表に出さないように、ゆっくりと彼に向き直った。
「はっ」
「カルートレン帝国に使いを出せ」
「ははっ」
……やはりな。とオクマは心の中で呟く。一体どこを攻めると言い出すつもりだろうか。事と次第によっては、諫言申し上げねばならない。
そのとき、ノマサが再び口を開いた。
「併せて、セーファンド帝国にも使者を使わせ」
「「はあっ?」」
宰相オクマとカボンが同時に顔を上げた……。