第七百二十七話 一大事
エスカリーナがキョロキョロと周囲を見回している。彼女も、俺と同じものを感じたようだ。
「獣のニオイがする……」
「獣?」
「……獣。臭い」
そんな臭気は感じないが、エスカリーナには感じるらしい。シディーに視線を向けてみるが、彼女も感じないらしい。首を傾げている。
取り敢えずマップを展開させてみる。何と、俺たちの周囲には人間しかいなかった。山の中にすんでいるであろう獣たちの反応が全くなかった。
これはよくある現象だ。数万単位の軍勢が睨み合うと、獣たちは姿を消してしまうことがある。巻き添えを食わないようにと考えるのだろう。だが、高ランクの魔物が襲いに来ることもあるといえばある。先ほどのイヤな感じも、そのためだろうかと思ったのだが、どうもそれは違うようだ。
「早くこの戦いを終わらせた方がいいです。この戦いが長引けば長引くほど、多くの犠牲が出る……。そんな予感がします」
シディーが誰に言うともなく呟く。もちろん俺もそのつもりだ。そのために来ているのだ。
とはいえ、カーザ城に籠っている部隊の運命は最早、風前の灯火だ。敵は玉砕覚悟でセーファンド帝国軍に突撃するか、降伏するか、さもなくば、城内で乾き死にするしかない。その選択肢でいくと、余程気が狂れていない限り、降伏という選択肢が可能性をとるしかないのだ。
「さあ、取り敢えず、屋敷に帰ろうか」
そう言って俺は、俺たちの姿を消す結界を張って、転移結界のある場所に向かって歩き出した。
きっと、また、ジュリアは俺たちがいないことに気が付いて、あちこちと探し回るだろうが、まあ、見つかったときはシディーの体調が悪かったとか何とか言えばいい。そんなことを考えながら、山の中に入ると、突然目の前にサダキチが現れた。
『な、え? どうした、サダキチ』
『一大事です』
『どうした?』
『マルバーンが集まっています』
『どういうことだ?』
『ここから南にある山の頂上に、マルバーンが集まっています。その数、二百です』
『それがなぜ、一大事なんだ?』
サダキチの説明によると、マルバーンというドラゴンは通常、数匹単位で集まって暮らしているらしい。それぞれの縄張り意識が強く、他者の縄張りを侵さない代わり、自分の縄張りも侵させない。普段はのんびりとした性格なのだが、ひとたび自分の縄張りが侵されると、死に物狂いで襲い掛かってくるのだそうだ。
そのマルバーンが集結している。これは、かなり珍しい現象なのだそうだ。サダキチはさらに言葉を続ける。
『おそらく、この戦いにおいて、マルバーンの縄張りを荒らしたのかもしれません。彼らはここを襲いに来るようです』
『ええと、ちょっと待て。襲いに来るっているのは……? もしかして、ヤバイのか?』
『中型とはいえドラゴンです。ヤツらは知能は高くありませんが、空も飛べますし、ブレスも吐くことができます。それが二百匹で襲ってくるとなると、ここにいる人間は全滅する可能性すらあります』
『ご苦労だったサダキチ。お前からも、そのマルバーンに、俺たちは縄張りを侵す気持ちはないと伝えてくれないか?』
『そうしたいところですが、それは無理です。我々が近づくと、凄まじい形相で威嚇してきます。話を聞く余裕はないかと思われます』
『わかった。ご苦労だった。引き続き、マルバーンの様子を見張ってくれ』
『承知しました』
サダキチはそう言って姿を消した。
マップを展開して、その範囲を広げてみる。なるほど、端っこの方に赤く染まった部分が見える。どうやらこれがマルバーンらしい。
「逃げた方がいいです」
シディーの声が真剣みを増している。彼女は振り向きざま、空に視線を向けた。
「マルバーンの狙いは私たちです。このままだと、ここに居る者たちに甚大な被害が出ます。リノス様が結界を張って攻撃を躱すよりは、セーファンド軍、ノーノ・エルスモ両軍が逃げた方が、被害は最小限に住むような気がします。リノス様、戻りましょう。戻って、皆に逃げるように伝えましょう」
「わかった。でも、戻るのは俺だけだ。シディーとエスカリーナは一旦帰ってくれ」
「ええっ……でも……」
「帰るんだ」
「いや、私たちもいた方が、いいと思います」
「エスカリーナもか?」
「はい。そんな予感が……」
「わかった。でも、危険だと判断したそのときは、転移結界を張って帝都に帰らせるからな。いいな?」
シディーはコクリと頷いた。エスカリーナは無反応だったが、承知したと解釈した。
俺は踵を返して、足早に山を降りた。
「おお! ケンシン殿!」
山から出ると、ホルムの一行に出会った。彼は笑顔で俺に手を振る。
「どうされたのです、こんなところで。敵の様子が気になりましたか? 大丈夫です。我々の降伏勧告は概ね受け入れられました。穴を掘ることも承知させました。人質を出すことは難色を示されましたが、作業が終わればすぐに撤退するとのことですので、司令官殿も納得されると思います」
そのホルムの許に俺は全速力で走っていき、サダキチから聞いた情報を伝える。その瞬間、彼の顔色が変わった。
「本当ですか?」
「ええ。情報の出どころは明かせませんが、確かな情報です」
「グレイ・サハラが……」
「グレイ・サハラ?」
「同じようなことが百年ほど前にあったのです。マルバーンが大挙して押し寄せてきて、人間たちを皆殺しにしたのです。そのときは数十頭と聞いていますが、今回は規模が大きすぎる……」
「すぐに逃げる準備を」
「おい!」
ホルムが周囲に控えていた者たちに向かって頷く。彼らは指示も聞かないうちに、散り散りに散っていった。
「私は、本陣にこのことを伝えます。さ、ケンシン殿も」
「俺とあなたでは足の速さが違うでしょう。先に行っていてください。大丈夫です、すぐに俺たちも追いかけますから」
「……わかりました。私の部下がカーザ城に先ほどのことを伝えています。追っ付け彼もこちらに戻って来ることでしょう。その彼を捕まえて、警備してもらってください。名前は、システといいます」
「システさんですね。わかりました。さ、早く」
俺の言葉に促される形で、ホルムは本陣に向かって走っていった。鎧を装備しているにもかかわらず、まるでなにも装備していないかの如く軽快な動きをしている。足も速い。足場の悪い道で、あれだけの俊敏さで動ければ大したものだ。
彼が高い身体能力を持っているのは、会った瞬間にわかった。歩き方からして違うのだ。
皆、重い鎧を身に付けているためか、その足取りは重々しい。だが、彼は、そんな鎧の重みを感じさせない歩き方をしていた。相当鍛錬しただろうし、幕僚たちからの扱いを見ると、一兵卒からの叩き上げだろう。
そんな彼とその部下たちだ。きっと、上手く兵士たちをまとめて逃がしてくれるだろう。
最大の懸念は、カーザ城に籠った兵士たちのことだ。おそらく、乾きが限界に来ている頃だろう。そんな中、撤退していくのは相当の負担だと言える。せめて、水のいっぱいでも飲ませてやりたいが、そんなことをしていては、マルバーンの襲撃の巻き添えを食ってしまう。
「エスカリーナ、カーザ城に雨を降らせることはできないか?」
「……できる。けれど、そんなにたくさんは、無理」
「そうなのか……」
そのとき、山の頂上付近に、夥しい数の鳥たちが、西の方向に向かって飛んでいくのが見えた。まるで、危険を告げるかのような鳴き声を上げていて、実に不気味だ。マルバーンが動き出したのかもしれない。
俺は再びマップを展開させた……。