第七百十三話 ファイヤーボール
しばらくすると、周囲では兵士たちの動きが慌ただしくなっていった。どうやらカーザ城から、兵士たちが引き上げてきているようだった。聞けば、一気に撤退すると、敵が攻撃に移る可能性があるから、とのことだった。まあ、兵士たちの安全を考えると、当を得た作戦と言えるだろう。
兵士たちは、十名単位の小集団で引き上げてきていた。皆、ボロボロだ。先に負傷者を救助するべきじゃないかと思うが、どうやら、そうした人たちは、先発隊が到着したときにすでに救出しているのだそうだ。
引き上げてきた兵士たちには、炊き出しが配られていて、ここにもいい匂いが漂ってきていた。俺たちは先ほど、ビーフシチューを食べたので、特に空腹感は覚えなかったが、兵士たちはやはり、腹が減っているのだろう。我先に炊き出しに向かって移動していった。
「誰か、火を起こしてくれ~」
どこからともなく男の声が聞こえる。見ると、兵士の一人がウロウロしながら、火を起こしてくれと周囲に訴えている。彼の傍には、薪が組まれていて、すぐ隣には、鍋のような物が置かれていた。察するところ、あの鍋で食事を拵えようとしているのか、単に湯を沸かそうとしているのかのどちらかだろう。俺は立ち上がると、その男の傍に近づいた。
「ここに火を起こすのかな?」
「え……ええ」
俺を見て彼は目を白黒させている。異様な風体の男が突然現れたので、驚いているのだろう。俺はそんな彼に目を細めながら、人差し指に小さなファイヤーボールを灯した。
「そらっ」
人差し指をクイッと動かして、小さな火の玉を薪の中に放り込む。程なくして、そこからちょっとした火柱が上がった。
「おお、こんなに早く火が起こるとは……。ありがとうございます!」
彼は体を深く折って一礼した。俺は礼には及ばないと言って、その場を後にしようとした。
「ちょっとあなた!」
女性の大声が聞こえて、思わず体が震える。目の前には、ローブを羽織った小柄な女性が仁王立ちしていた。彼女は厳しい顔つきで俺を睨んでいる。
「あなた、何をしているのよ!」
何だこの女性は。俺は善意で火を起こしただけなのだが、何が不味かったのだろうか。そんなに声を荒げることはないだろうに。
彼女は顔をゆっくり上下させている。ジロジロと俺を見ている。一体何なのだろうか。
「見ない顔ね。どこの部隊なの? どうして顔を隠しているの?」
「ええと、あの……」
「やめないか、ジュリア」
男の声がした。その方向に視線を向けると、そこにはサーマがいた。
「何よ、邪魔しないでよ」
「よせと言っているんだ。こちらは、アガルタから来られた方だ。失礼なことを言うんじゃない」
「アガルタぁ!?」
女性がのけぞるようにして驚いている。そんなに驚くことなのだろうか。
「あなた、アガルタから来たの? ほんとにアガルタから来たの?」
……ち、近ぇな。そんなに目をキラキラさせて、一体どうしたんだ!?
「こちらの方は、アガルタ王からの命を受けて来られたケンシン殿だ。戦いには直接参加されないが、色々と助言いただくために来ていただいている。くれぐれも粗相のないようにしてくれ」
サーマが呆れたような表情を浮かべている。ジュリアと呼ばれた女性は、サーマと俺を交互に見比べながら口を開く。
「どうしてアガルタの方がここにいるのよ」
「陛下がヒーデータとアガルタに援軍要請を出されたのだ。それを受けて、アガルタ王様が我らにケンシン殿をお遣わし下されたのだ。今回の作戦も、このケンシン殿のお知恵なのだ」
「カーザ城からの撤退がこの人の作戦なの? バカじゃないの?」
……このジュリアという女性は、遠慮というものが全くないのか、かなりズケズケとモノを言う。まあ、悪い人ではなさそうだが、俺はちょっと苦手だ。本人を目の前にしてバカって、地味にヘコむ。だが、彼女はそんな俺に構うことなく、さらに言葉を続ける。
「あなた、私たちがどんな思いであの城を守っていたのか、わかっているの? どれだけ苦労して守ったと思っているのよ! それをむざむざ敵に渡すなんて……信じられないわ」
「だから何度も説明しただろう。敵をあの城に引き入れて、水の手を断って日干しにする。それが一番犠牲を出さずに済む作戦なのだ」
「……」
女性はキュッと唇を噛んで俯く。よく見れば、彼女のローブも結構汚れている。紺色だからあまり汚れは目立たないが、所々擦り切れている部分もあって、彼女自身も戦闘に加わっていたのがよくわかる。
「あとは、我々に任せておいてくれ。さ、下がって休んでくれ」
サーマはそう言って、彼女を下がるように促し、俺に向けて苦笑いを浮かべた。
「大変失礼しました。彼女は……ジュリアは、カーザ城に詰めていた魔術師の一人でして、この城がここまで持ちこたえられたのは、彼女らの働きのお蔭でもあるのです」
「そうですか。それならば、魔力も枯渇していることでしょう。どうぞ、ゆっくりとお休みください」
そう言って俺は会釈を返す。そのとき、ジュリアは何かを思い出したのか、ピクリと体を震わせたかと思うと、大股で俺の所までやって来て、顔を近づけた。
「あなたの魔法、あれは一体何なの?」
「何……と言われますと?」
「指先に炎を出していたわよね? それをそのまま薪に放って火をつけたわよね? あれは魔力を凝縮したんでしょ? そんな高等技術、私の先生くらいしかできないわ。にもかかわらず、そんなに長く詠唱しているようには見えなかった。一体どうやったのよ?」
……そんなに難しいか、これ? これはファルコ師匠に最初に習った魔法なんだけれどもな。
「いいかリノス。指先に魔力を集中させろ。炎が浮かび上がるのをイメージするんだ。体中の熱を指先に集めるようにイメージしてみろ。……そうら、炎が出ただろう。それでいい。今度はそれを指先を離れて放り投げるようにイメージしながら、指を動かしてみろ。……何で儂に向けて放つのだ!」
……懐かしい。そうだ、師匠はそのとき、手から火柱を出して俺のファイヤーボールを消したのだ。しかもその炎が思いっきり俺の所まで届いて、あやうく大やけどを負いそうになったのだ。反射的に結界を張ったので、全身軽いやけどを負うくらいで済んだのだが。
ただ、俺の服が燃えてしまってボロボロになってしまい、後で師匠はワラサさんに思いっきりシバかれていた。師匠、悶絶していたよな……。懐かしい思い出だ。
……ああ、いかん。現実逃避してしまった。目の前のことに集中しなくては。ジュリアは俺を睨んだままだ。
「いや、単なるファイヤーボールなので、そんなに難しいものではないですよ?」
「ファイヤーボール? あれが? ファイヤーボールって、掌の上で起こすものでしょ?」
「そうなのですか? 私は、指先に作るように教えられたのですが……」
「いつ習ったの?」
「六歳か七歳くらいだったかと」
「ああ、それでなのね」
女性は腕を組みながらコクコクと頷いている。何か、得心したらしい。
「火メイジになるための最初の訓練ね。それで納得がいったわ。指先に炎が出るイメージをするってやつね。普通はそこから、掌の上に炎を出す訓練を受けるのだけれど……。あなた、その訓練はしなかったの? ……ない? じゃあ、それだけ習ってこれまでやってきたの? へ~え~」
女性は腕を組みながらクイッと顎を上げた。
「じゃあ、あなた、火メイジとしてセンスがあるわね。小さいとはいえ、ファイヤーボールを投げることができているわ。我流でそこまでできたら大したものよ。いいわ、時間があるときに、私が魔法を教えてあげるわ。火メイジとして、基礎を叩き込んであげるわ」
……何か、また、厄介ごとの予感がしてきたな。