第七百二話 とまどい
セーファンド帝国――南北に長く四方を急峻な山々に囲まれ標高差もあることから、北部は豪雪地帯である一方、南部は比較的温暖であるなど、気候は多様性に富んでいる。その領土は広大であり、肥沃な土地からは様々な作物が収穫することができていた。
この国のもう一つの特徴が、「水の国」とも言われる、豊富な水源を要していることだった。国内には大小多数の河川が見られ、それぞれの河川が山々を侵食した地形も多数見られる。帝国はこれらの自然の恵みを上手に活用しながら、順調に国力を伸ばしてきていた。
現皇帝、セーファンド・カイン・ロウド四世は、荒っぽくて妥協心が薄く、短気で喧嘩っ早い性格だった。いわゆる感情家で、理屈は筋を通すことを徹底している。排他的で、他人を傷つけることもお構いなしな部分があるが、感受性が強く、ものに対する粘りに欠ける点が見られるが、優秀な家来によって支えられていた。彼の父である、コラニド・カイン・セーファンドは、激しい癇癪を持つ彼に、理性的・科学的で、合理的である思考を持ち、責任感が強い者たちを選んで、その家来に付けたのだった。
◆ ◆ ◆
「ヒーデータからの返答はあったか!」
皇帝コラニドは、額に青筋を浮かべながら家来たちに向けて言葉を投げつけた。彼は苛立っていた。そんな彼に、側に控えていた家来の一人が、落ち着いた声で口を開く。
「ございません」
「……なければ、再度使者をたてよ!」
「お言葉ながら陛下。先だって送りました使者が、ようやくヒーデータに着いた頃かと存じます。我らはヒーデータだけでなく、かの国を通じてアガルタにも援軍を出していただくよう求めております。ヒーデータが援軍を送る、送らぬ、を決めるのに数日、さらに、アガルタに使者を立て、そのアガルタが援軍を出す、出さぬ、を決めるのに数日を要しましょう。と、なれば、返答を頂くのに、どう急いでもあと数週間はかかるかと存じます。それに、我が国とヒーデータ帝国は、先帝陛下の御代には婚姻関係がございましたが、現在はすでに手切れとなっております。その国に何度も催促をするべきではございません」
至極まっとうな意見だった。だが、その正論が、皇帝コラニドの神経を逆なでしていた。
「ヒーデータの皇帝とアガルタの皇后とは、余と同じ血が流れておる。言わば、同族じゃ。その余の言を無下にはできまい。あの国たちが動けば、この戦は一兵も損じることなく勝利できるのだ!」
彼の言葉に賛同する者は一人もいなかった。齢は四十を超えているが、色は白く、幼い頃の美少年の面影を残した、気品ある顔立ちだ。細身に仕立てた口元の髭が、その品性を高めている。家来たちは一様に勿体ないと思っていた。黙っていれば、大国の皇帝として十分な姿なのだ。
一方のコラニドは、頭の中で様々な数字が浮かんでは消え、浮かんでは消えしていた。
カーザ城を救援するのは簡単なことだった。すでに一万の軍勢を向かわせている。ノーノの軍勢は粘り強く、しつこい。だが、数の上では圧倒的にこちらが有利だ。被害は出るだろうが、制圧することはできるだろう。問題は、その後ろから迫っているエルスモの軍勢だ。その数は二万と言われている。全兵力で当たれば負けることはないだろうが、こちら側も相応の被害を覚悟しなければならない。
まさか、エルスモが動くとは誤算だった。ノーノごとき小国がエルスモを動かすとは考えられなかったが、現に二万を超える兵がカーザ城に向かっているのだ。うかうかしていると、カーザ城を抜かれ、このセーファンド帝国が戦場となってしまう。そんな事態になれば、臣民から暗愚な王であるとのレッテルを張られることになる。
彼は周囲の者から、有能ではない、むしろ、皇帝としては無能であると見られていることを知っていた。だが、その評価は彼のプライドが許さなかった。皇帝としてその地位にいるからには、名君と呼ばれたい。そんな思いをずっと持ち続けていた。今、起こっているカーザ城の攻防は、自らの優秀さを示す絶好の機会だった。単に戦いに勝つのではなく、一兵も損じずにこの戦いを納めることができれば、自分の名声は大いに高まる。
皇帝コラニドの頭の中には、一つの戦略があった。それは、クリミアーナ教国教皇、ヴィエイユが、教都アフロディーテを奪還した際の作戦だった。彼女は一兵も損じずに、反乱軍が占拠した教都を無血開城せしめた。それは、アガルタ、ヒーデータの威信がモノを言っている。幸いにして自分は両国と血のつながりがある。これを利用してカーザ城を無血開城することができれば、兵を無駄死にさせることもないし、無駄な金を使うこともない。まさしく一石二鳥の作戦だった。
しかし、家来たちは、両国が援軍を送って来ることについて懐疑的な見解を示した。もし、送ってくれたとしても小規模なものであり、戦いの役には立たない。とりわけアガルタが軍勢を送って来る可能性は、極端に低く見積もられていた。それは過去、アガルタの皇后であるリコレットとコラニドの息子、現在の王太子であるスラニドの縁談を断ったことがあり、リコレット本人におけるセーファンド帝国のイメージはよいものではないだろうと考えていたためだった。
むろん、このことはコラニド自身も十分に認識していた。だが、彼の考えは違った。過去は過去だ。リコレット本人はすでに、世界最強国であるアガルタの皇后としておさまっている。彼女の頭の中は、過去の遺恨ではなく、アガルタをどうこれから発展させていくことに注力しているはずだ。と、なれば、我が国と誼を通じることは、アガルタにとって損にはならないはずだ。皇帝自ら認めた書状は、必ず彼女の目に留まるはずだと考えていた。ここで両国から色よい返事をもらうことができれば、皇帝コラニドの卓越した外交力を示すことができる。彼は首を長くして使者の帰りを待ちわびていた。
とはいえ、兵の運用を間違えると、取り返しのつかない痛打を被ることになる。報告ではエルスモの軍勢の進軍速度は遅く、未だ、ノーノ王国の国境を越えたところだと言う。察するに、カーザ城の状況次第で動きを決めるのだろう。と、すれば、全兵力をもってカーザ城を囲む敵軍を蹴散らせば、この戦いはすぐに収束することは明らかだった。
……ヒーデータとアガルタが援軍を出す、という事実だけでも得られないか。
コラニドは心の中で呟いていた。両国が援軍を出すとしても、到着するまでには相当な時間がかかる。それは承知の上だ。だが、ここで両国が動いたという報があれば、味方の士気は大いに上がる。加えて、カーザ城を囲んでいるノーノの軍にも、エルスモの軍勢にも無言の圧力をかけることができる。そんなことを考えながら、側に控えている家来に視線を向けると、彼はコラニドの心などお見通しであるかのように、無表情のまま首を左右に振った。彼はさも不満、と言った表情を浮かべながら、小さく舌打ちをした。
そのとき、警備の兵士が一人、足早に彼の許に駆けよってきた。
「申し上げます」
「なんだ」
「城門に、このような書状が……」
兵士は戸惑った表情を浮かべながら、コラニドの側近に一通の書簡を手渡した。家来はそれを開いて読むと、同じように戸惑った表情を浮かべた。
「何だ、どうした?」
「いえ、その……」
「貸せ!」
まるでひったくるようにして、家来の手から書状を奪う。眉間に皺を寄せながら目を通したコラニドは、頓狂な声を上げた。
「……何だ、これは!?」