第六百三話 睦言
「じゃあ、今夜はちょっと、頑張ろうかな」
マトカルの耳元で呟く。彼女の呼吸が荒くなっている。今夜は長い夜になりそうな予感がしていた。
俺は一旦マトカルから体を離すと、彼女を再びベッドに横たえた。相変わらず目を開けたままで、不思議そうな表情を浮かべている。いつも毅然とした姿勢を取っている女性が、俺だけにこんな表情を見せるのだ。なんだか嬉しさがこみあげてくる。
一方のマトカルは、いつもの俺とパターンが違うことで、これから何かが始まるのを察したらしい。ただ、何が始まるのかわからないために、少し不安らしい。俺のパジャマを掴んだまま離そうとしない。
「えっと……ここを、こうして、こうして……」
「ううう……」
「ここで……こうやって……ここを……よっと」
「くっ……くううう……」
「大丈夫か? やめようか?」
マトカルは顔を真っ赤にしながら、潤んだ瞳で俺を眺め続けている。どうやら大丈夫のようだ。
「あとは、ここを……」
「くはっ! うっ、ふっ、くっ」
「ゆっくりと……」
「うわっ、ちょっ、わっ、あっ、はっ、あああ……」
……マトカルが初めて声を上げた。いつもは歯を食いしばって耐えているのだが、初めての感覚に少し戸惑っているようにも見える。やがて、全身が小刻みに震えたかと思うと、彼女はゆっくりと起き上がり、俺のパジャマの胸ぐらを両手で強く掴んだ。
「マト……?」
マトカルは俯きながら肩で息を整えている。彼女の荒い息遣いが寝室に響いている。
そのとき突然、マトカルが両手に力を入れ、俺のパジャマを乱暴に脱がせた。パジャマのボタンが飛び散って、床に叩きつけられている音が耳に張った。
「……ッ」
気が付けば俺はマトカルに組み敷かれていた。彼女は荒々しく俺の上にのしかかってきた。その彼女の体を、俺は再び強く抱きしめた。
◆ ◆ ◆
「……大丈夫か?」
「……ああ」
マトカルは俺の体の上でその身を横たえたまま、小さな声で呟いた。先ほどまでの、まるで火のついたような振る舞いが嘘のように、まるで子犬のような大人しい姿になっていた。
「……さっきのは、どうだった?」
「……別に」
「もう、やらないでおいた方がいいかな?」
「……任せる」
「いいってことかな?」
「……たまになら」
俺はマトカルの髪の毛を優しく撫でながら言葉を続ける。
「アーモンドたちは、明日も来るかな?」
「そうだな……」
マトカルは、ゆっくりと、まるで噛んで含めるような口調で、ラマロン皇国が抱える問題を話していった。その内容をまとめると、こんな感じだ。
ラマロン皇国軍は、皇帝が統帥権を持ち、すべての決定は皇帝の許可が必要となっている。当然、人事権も皇帝にあるが、実際は、皇帝を取り巻く貴族たちによって決められることが多いのだという。
そのため、ラマロン皇国軍の上層部は、貴族の息のかかった者が就任することが多く、こうした者の大半は、あまり能力的にすぐれない者が多い。従って、その尻ぬぐいは下士官が担当することになる。
こうした体制は、平時であれば何とか機能させることができるのだが、いざ、有事になると、脆く崩れ去るものだ。ラマロンが俺たちに大敗したのも、それが大きな原因だった。確かに、カリエスを押しのけて総司令官の任に就いたケーニッヒはそこそこ優秀だったが、その取り巻きをイエスマンで固めたために、彼の暴走を止める者がいなかったのだ。
その体制を何とか変えようと試みているのが、元帥であるカリエスだった。彼はラマロン軍を能力制にして、有能な者を将官に引き上げるべく努力していた。だが、貴族たちの反発は強く、今のアーモンドが総司令官に就任することも、相当骨を折ったらしい。
そんな貴族たちが、次期皇帝に、現皇帝の二人の子息のどちらかを望むのは、当然と言える。二人とも貴族よりの考えの持ち主で、貴族たちとしては、自分たちの意見が通りやすくなるからだ。そこをカリエスとアーモンドは懸念している。
今は宰相のマドリンを巻き込みながら、カリエス、アーモンドの二人で軍を押さえてはいるが、三人のうちの誰かが欠けると、現在の体制維持は困難となる。そうなると、貴族たちの暴走を止めることが難しくなると言うのだ。
アガルタの属国となったとはいえ、それは表面上であり、内部は以前の旧体制が維持されたままだ。貴族たちは基本的に、自分の利益しか考えない者が多い。現在のこの状況下でさえ、アガルタの傘下から脱して独立し、アガルタもしくはヒーデータに攻め込むべきだと考えている者が多いのだ。一体どうやったら、そんな夢が見られるのかが不思議だが、残念なことにそれが現実なのだという。
マトカル曰く、宰相のマドリンは、ああ見えて先が見通せる政治家なのだそうだ。おそらく彼の頭の中には、百年先のラマロン皇国を考えている。
「ファルコを皇帝の座に就けることで、貴族たちの不満は爆破する。むしろ、マドリンやアーモンドはそれを狙っているのだ。貴族や軍にはびこる不満分子をあぶり出して、一気に膿を出し切ろうというのだろう」
「そして、新たなラマロン皇国を作ろう、ってか……。ただ、それをすることで、あの三人は命を狙われるな」
「それは元より覚悟の上だろう。三人……いや、特にアーモンドは、そうなったとしても、生き残る自信があるのだろうな」
「ほう、逞しいな」
「あの男は、総司令官に就任してから、自分の身辺を警備する親衛隊を組織していると聞く。その数は年を追うごとに増えている。軍の中でも見込みのあるものを取りこんでいるので、戦闘力と優秀さはなかなかのものだ」
「さすがはマトだな。そこまで把握していたとはな。でも、どうして俺に教えるのをためらったんだ?」
「話をしなくとも、わかるだろう」
「まあ、ね。ファルコをそんなところにやりたくはないと思っているから、か」
「リノス様も、イヤではないのか……」
「イヤだよ。誰が好き好んで自分の息子をそんな危険なところにやりたいと思う。ファルコは、俺の大切な師匠の名前を与えた子だ。もう少し、俺の手元に置いて成長を見守りたい」
「少し、落ち着きがないところがあるが、きっと、ひとかどの人物になるだろう。私が、育ててみせる」
「そうだな。落ち着きがない……か。俺はそうは思わないけれど、もしそうだとしたら、本当に師匠譲りの子だな」
俺はそんなことを言いながら、在りし日の師匠の姿を思い浮かべる。確かに、せっかちな師匠だった。あれは俺がまだ修行を始めたばかりの頃。エリルが帰ってくるよりも前のことだった。両手に炎を纏わせた師匠が俺に対して口を開いていた。
「リノス、これから訓練を始めるぞ」
師匠がその言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、両手から火球が俺に向けて放たれていた。当然、結界が間に合わず、俺は全身に大やけどを負って、その場に倒れ伏した。
「儂は両手からファイヤーボールを放つから、お前は全方向に結界を張ってそれを防ぐのだ。……結界を張るのが遅い! 何をやっているんだ、全く」
師匠がいようといまいが、二十四時間結界を張り続けようと決心をした瞬間だった。あのときの熱さは今でも鮮明に覚えている。俺は思わず笑みを漏らす。
ふと、抱きしめているマトカルの体が冷たく感じた。どうやら、汗のせいで、体が冷たくなっているようだ。
「マト、寒いだろう」
「いや、そんなことは……」
「あるだろう」
そう言いながら俺はマトカルを隣に寝かせ、体を毛布で覆う。左腕を彼女の首の下に潜り込ませ、右腕を腹の上に置く。
「少しは温かくなったかな?」
「十分だ」
マトカルは俺の手をギュッと握った……。




