第四百九十二話 現状確認
アガルタに転移した直後、俺は、呆気にとられてしまって、しばらく動くことができなかった。それほどアガルタの都は、予想外の光景だった。
結論から先に言ってしまうと、アガルタは普段と何も変わっていなかった。ヒーデータの帝都とは別世界かと思ってしまう程の平穏さだった。
完全に拍子抜けしてしまい、ポカンと口を開けながら執務室の窓から都を眺めていると、いつものように、俺の到着を待ちかねていた兵士たちが、決済をいただきたいと言って、机の上に書類を置いていく。
「あと、昨日の夜、ラマロン皇国のカリエス将軍から書簡が届きました」
そう言って兵士の一人が、分厚い書簡を差し出す。そこには、年が明けたら、アガルタ軍とラマロン軍の共同軍事演習を行いたいと書かれてあった。俺はその書簡を丁寧に畳み、兵士に差し出す。
「これは、マトのところに持って行ってくれ。よく相談して、実施してくれと伝えてくれ」
「承知しました。それともう一点。使者の申しますには、来年早々に、カリエス将軍が元帥となられ、アーモンド司令官が総司令官に就任されるそうです。どうやらカリエス将軍は、現役を退かれるようです」
「そうか。新総司令官就任のお披露目も兼ねている……か。それなら、俺も行かなければならないかな。せっかくだ。ラファイエンス将軍も連れて行こうか。将軍にその旨も伝えてもらえないかな」
「承知しました」
「リノス様、あと、フラディメ国のリボーン大上王様より書簡が届きました」
差し出されたものを見ると、厳重な封蝋が施されていた。あのジイさんが送ってくる書簡は、いつもこんな感じで、大仰なのだ。一見すると、何かとてつもない重要な内容が書かれているように見えるのだが、中身はさしたることのないことが多い。今回もそんな感じだろうと思いつつ、封を切る。
中には、太くて立派な字で、フラディメ国における学会の日程を決めたい、と書かれてあった。普通のペンで書いているはずなのだが、どうしてこうもゴシック体のような太い文字が書けるのだろうか。
そんなことを思いながら、この書簡も丁寧に畳み、兵士に差し出す。
「これは、メイのところに持って行ってくれ」
「承知しました。あとは……」
「すまない。今日の予定でキャンセルできるところは、できるだけキャンセルしてほしいんだ」
「は?」
「ヒーデータ帝国で大雪が降っているんだ。フェリスやルアラから聞いていないかな?」
「はい、ヒーデータから内々に勅使が来たことは伺いましたが、大雪というのは……」
「ああそうか。帝都ではとんでもない雪が降っていてな。ちょっとえらいことになっているんだ。俺はその対策に当たらねばならないんだ。もし、緊急のことがあれば、フェリスかルアラ……。もし、二人の機嫌が悪いようなら、メイかマトに言ってくれて構わない」
「し……承知しました」
兵士たちが退室すると、俺は執務室の窓を開けて、フェアリードラゴンのサダキチを呼び出す。
『……というわけなんだ。アガルタとその周辺の国を見廻って、天候と状況を調べてもらえないかな』
『承知しました』
そう言って、サダキチは姿を消した。そして、わずか一分ほどで戻ってきた。
『ヒーデータ帝国の帝都に入ることができませんでした』
『うん? どういうことだ?』
『帝都の近くまで行くと、何かに押し戻されてしまって進むことができませんでした。おそらくあれは、結界のようなものが張られていると思われます』
『そうか。そんな雰囲気は感じ……いや、空に魔力が覆っていたのを感じた。それかな? で、アガルタとその周辺の国々はどうだった?』
『全く問題はありません。雪は降っていませんでした』
『そうか、ご苦労だった』
そう言って俺は、サダキチに干し肉を与えて下がらせた。
……結界と大雪。シャリオの兄たち黒龍が動いているのは確かだろう。てっきり直接何らかの攻撃を加えて来るかと思っていたが、どうもそうではないらしい。それよりも何か、とんでもない計画が実行されようとしている。そんな予感がするのだ。
そのとき、執務室のドアがノックされた。入室を促すと、入ってきたのは何と、リコとソレイユだった。
「な……一体どうしたんだ?」
「リノス、申し訳ないのですけれど、すぐに帝都の屋敷に戻ってきてほしいのですわ」
「どういうことだい、リコ?」
「シディーが倒れたのですわ」
「何だって?」
「突然体を震わせて……。何か邪悪なものが近づいていると言って蹲ってしまったのです。それで、今はベッドに寝かせて様子を見ているのですが、シディーは一刻も早く、リノスを屋敷に呼び戻して欲しいと、呪文のようにつぶやき続けているのです。それで……」
「そうか。わかった。そんな緊急のことなら、念話で伝えてくれればよかったのに」
「やっぱり、伝わっていなかったのですわね」
「え? どういうことだ?」
「私もソレイユも、リノスに何度も念話を送ったのです。しかし、リノスからは何の返事もなかったので、心配して見に来たのですわ」
「念話が通じない……。いや、でも転移結界は発動しているんだな? ということは……」
「リノス、考えているところ申し訳ないのですが、一刻も早く、帝都の屋敷に戻ってほしいのですわ」
「わかった。でも、ソレイユまで来ることはないだろうに。子供たちのこともあるだろう」
「そうなのです。私は屋敷にいようと思ったのですが、シディーがどうしても二人で行けと言いまして……。一人では危険だから、と」
「そうなのか? まあ、シディーがそう言うのならば、仕方がないな」
「安心してくださいな。子供たちの面倒はペーリスとシャリオが見てくれています。それに、エリルとアリリアも手伝ってくれていますわ」
「そうか。あの二人も、もう立派なお姉ちゃんになったな」
俺は少し、胸に寂しさを覚える。もう、あの二人を抱っこしてやることもなくなるのだろうな……。
そんなことを考えていると、ふと、リコとソレイユの視線に気づく。いかんいかん。まずは帝都の屋敷に戻らねば。
「じゃあ、屋敷に戻ろうか。あ、そのまえに、ヒーデータの陛下にアガルタの様子を報告してくるよ」
「わかりましたわ。早く戻ってきてくださいませね」
そう言ってリコとソレイユは部屋を出ていこうとする。
「ああ待て、リコ」
リコは不思議そうな表情を浮かべながら振り返る。
「結界を張っておこう」
「結界? 今、張っているのではないのですか?」
「いや、新たに張りなおす」
「はあ……」
「シディーの言っていることが気になるんだ。邪悪なるものに、リコやソレイユが傷つけられては堪らないからな。屋敷に帰ったら、シディーの結界も張りなおそう。メイやマトのもやりたいが……。二人にはすまないが、屋敷に帰ってきてからやり直そうか」
「わかりましたわ。そうしてくださいませ」
俺は二人の結界を解除して、新たに結界を張りなおす。今回は丁寧にイメージして結界を張る。ファルコ師匠の「魔法はイメージが大切」という言葉を思い出しながら……。
「ふう、終わったよ」
「ずいぶん時間がかかりましたわね」
「ああ。今回は特別に、丁寧に結界を張ったんだ。すまない、時間を取らせた。すぐに屋敷に帰ってやってくれ。俺もすぐに帰る」
リコとソレイユはとてもうれしそうな表情を浮かべながら、部屋を出ていった。
そのときの俺は、全く気付いていなかった。とんでもない間違いを犯していたことを。そして、このときのことを深く後悔することを……。
2019年最後の投稿となります。今年もお世話になりました。どうぞ皆さま、よいお年をお迎えください!