第四百七十九話 私、待つわ
「ハッハッハ、前代未聞だの、それは」
機嫌の良さそうな笑みを浮かべているのは、ヒーデータ帝国の皇帝陛下。俺は取るものも取りあえず、宮城に転移した。サダキチに陛下の許に書簡を持たせたのだが、彼はすぐに返書を持って帰ってきた。そこには、すぐに会うので自室へ転移して来いと書かれてあった。……この陛下はヒマなのだろうか? と一瞬思ったが、返信が早い仕事のできる男なのだと思うことにする。
陛下の私室に転移すると、突然の訪問だったにもかかわらず、陛下のその隣には宰相閣下が控え、さらにはヴァイラス公爵、そして、その妻であるダイアナが控えていた。書簡のやり取りを始めてから三十分も経っていないのにこの速さ。この連携の良さは一体何なのだろうか。
そんなことを考える俺を尻目に、陛下は顎を手で撫でながら宰相閣下に視線を向ける。
「さて、どうするかの?」
「由々しき事態と考えます。一歩間違えば、我が帝国とワーロフ帝国は戦争になります」
「ライッセン以下、ワーロフにいる我が国の軍勢は?」
「はい。三日前に撤退を始めると連絡がございました。おそらく、ワーロフからは出ているものと推察します」
「まずは、我が軍の位置を確かめよ」
「ハハッ」
「陛下、恐れながら……」
「控えないか、ダイアナ」
口を出そうとしたダイアナに、ヴァイラス殿下が厳しい表情で窘めている。だが、彼女は一切表情を変えず、一呼吸おいて、ゆっくりと口を開いた。
「ワーロフ帝国の皇帝陛下に、親書を送られてはいかがでしょうか」
「親書、か」
陛下の言葉に、ダイアナはコクリと頷き、一瞬だけ俺に視線を向けた。
「アガルタ王様に無礼を働いたゲシカナとシーワの態度に怒って、司令官たちが反旗を翻していると聞いた。大変に心配している……と」
「なるほど。聞いた話ということで処理するか」
「ご明察に存じます。何か手助けできることがあれば言ってもらいたい……といった内容でよろしいかと存じます」
「フフフフ……。そうやって、遠回しに圧力をかける……か。相変わらず、面白いことを考えるの」
ダイアナは、一切表情を変えずに、さらに言葉を続ける。
「話を承りますと、あの二人はアガルタ王様に対して、数々の非礼を働いております。それに対して、ワーロフ帝国は何の謝罪を行ってはおりません。それどころか、ドルガ、ヒヤマを陥落させた恩賞についても、何の提案もございません。何より、チャンとワーカの二人の現役の司令官が、ゲシカナとシーワを見限って、アガルタ王様の許に参じたいと申しております。二人の総司令官としての資質のなさが、すでに露呈されております。ワーロフ帝国にとっても、軍を再編する、ちょうどよい機会になるかと存じます」
陛下はチラリと宰相閣下に視線を向ける。彼はしばらく考える素振りをしていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「ワーロフの宰相、サンマルコ・ローゼンハイムに書簡を送りましょう」
「え?」
思わず声が出てしまった。驚く俺に、宰相閣下はゆっくりと口を開く。
「あくまで内々の話として処理するのだ。おそらく宰相の許には、援軍に赴いた国々から直接的、間接的に苦情が寄せられているだろう。他国の援軍に壊滅的な被害を与えておいて、自国の兵力は温存しているのだからな。だが、ワーロフから見れば、自国の軍勢を失わずにドルガとヒヤマを奪還せしめた二人を重い罪に罰することはできぬ。しかし、アガルタ王とヴィエイユ教皇に直接無礼を働いたと言うのであれば話は別だ。ワーロフ内では、ゲシカナ将軍とシーワ副総司令官の責任を問う声があるはずだ。彼らを追い落とすいい口実になろう」
「そんなにうまくいきますか……」
「まあ、足を引っ張ろうとする連中は多くいる、ということだ」
宰相閣下は厳しい表情を浮かべたまま、口を真一文字に結んでいる。その様子は、これ以上彼に対して話しかけるのを躊躇わせるのに十分だった。
「ゲシカナとシーワは、すぐにでも解任するべきなのです」
ダイアナが毅然とした様子で口を開く。
「そもそも、部下から信頼されていない者が総司令官の任に就くなどは、軍としての体を成していませんわ。二人は軍事として必須のスキルである、人格と経験が欠落しております。だから、無意味な突撃作戦などを敢行するのです。やはり、軍の総司令官には、それにふさわしい人格と実績のある者が就くべきですわ」
「それは、余も頭が痛いの」
陛下が苦笑いを浮かべながら、頭を掻いている。そんなダイアナにヴァイラス公爵が近づいて、耳元で何かを囁いた。その雰囲気から察するに、かなり厳しい口調で小言を言っているようだ。
「……大変、ご無礼を致しました」
ダイアナはスッと俺たちに頭を下げる。その様子を陛下はニコニコと笑みを浮かべながら眺めている。
「よいよい。後のことは余に任せてくれ。決して悪いようにはせぬ」
ダイアナは陛下に一礼をすると、踵を返して部屋を出て行った。ヴァイラス公爵も、彼女を追いかけていく。
「それにしても、すごいお方ですね。ワーロフ帝国はあの方のご実家でしょうに……。それをまるで対岸の火事のように言われるとは……」
「最早、自分はヒーデータの人間であると我々に言いたいのかもしれぬの」
「はあ……」
「ああ見えてダイアナは、実に気の利く、優しい女性での。余もヴァイラスに良い嫁が来たと喜んでおるのだ」
「まあ、お二人の仲はよいようですし、公爵様が上手くダイアナ様を抑えているようですから、心配はしていませんが……」
「表向きはの」
「え? どういうことです?」
「夜は、ダイアナに見事に抑え込まれておるようだぞ?」
「……」
思わず口を開けて固まる俺を見て、陛下はカラカラと大声で笑い始めた。
◆ ◆ ◆
同じ頃、ゲシカナとシーワが率いるワーロフ帝国軍は、ドルガの前で立ち往生していた。何しろ、城門は固く閉ざされており、城壁からは弓矢を構えた兵士たちが、いつでも攻撃を仕掛けられる態勢を整えていた。ドルガの堅牢さは、先の攻撃で骨身にしみていた。さすがのゲシカナとシーワをして、自らの旗下の兵士たちにドルガに突撃せよという命令を下すことは躊躇われた。
「どうするのだ、シーワ!」
苛立ちを募らせながらゲシカナ将軍が声を荒げている。そんな彼にシーワは、冷たい視線を投げていたが、やがて周囲の幕僚たちに視線を向けた。
「元の陣地に引き上げましょう」
「引き上げてどうするのだ!」
「まずは、静観しましょう」
「何?」
怒りを込めた視線を向けて来るゲシカナ将軍を一瞥したシーワは、周囲の幕僚を促して、馬首を元の陣地の方向に向けた。
彼女には一つの勝算があった。ドルガの街には、妹のギギとトーイッツが残っているはずだ。トーイッツの知らせでは、ギギの体調はかなり回復してきているのだという。この二人ならば、おそらくドルガにいるであろうチャンやワーカを動かしながら、上手く事を治めるだろう。きっと、近いうちに、ドルガから何らかの知らせがあるはずだ。これからのことは、それを受けてから考えればいい。彼女の脳裏には、ドルガとヒヤマの奪還についての青写真が描かれつつあった。
「ちょっと」
「ハッ」
馬を走らせながらシーワは、近くに控えていた若い司令官に声をかける。
「ドルガに矢文を放ちなさい」
「矢文?」
「今、神妙にドルガを明け渡せば、命は助けると。そして……いや、待って」
……もしかしたら、ギギがすでに動いているかもしれない。そうなると、あの子の邪魔をしては、可哀想だ。少し待ってみるか。……三日、三日待とう。三日経って何も連絡がなかったら、そのときは別の方策を考えよう。ドルガさえ奪還できれば、ヒヤマなどは、落ちたも同然だわ。
彼女は馬を走らせながら、手をヒラヒラさせて、何でもないという素振りをして、傍に控えていた幕僚を下がらせた。
この、三日の猶予が、シーワたちの命取りになった。




