第四百七十二話 激突
ロイスは反射的に右腕で防御の態勢を取った。
気が付くと、その右腕が、ゆっくりと宙を泳いでいた。目の前には、剣を振り切った姿勢を取る覆面姿の男――アガルタ王リノスの姿があった。
自分の腕が斬られる……あり得ないことだった。黒龍の中でも、自分の鱗は最高硬度を誇っている自信があった。それだけではない。彼は魔力をその体に纏わせ、それを凝固させることで、「見えない鎧」を纏って、さらに防御力を高めていたのだ。たとえ龍王と言えど、自分に致命的なダメージなど与えられない――そう考えていたロイスにとって、目の前の状況は、すぐに信じることができるものではなかった。
「ガッ……」
右腕に衝撃が走る。見ると、リノスが剣の切っ先を天に向けていた。その瞬間、ロイスの右腕全体が空を飛んでいた。目を見開いて固まるロイス。リノスはその隙を逃さず、彼の脳天をめがけて剣を振り下ろした。
……だが、その瞬間に、ロイスの姿は消えていた。リノスは舌打ちをしながら手綱を操り、イリモを地上に向けた。
「ホッホッホッホぉ~。思った以上にやるのだな」
左腕に抱えていたギギをポンと地面に放り投げながら、ロイスは笑みを浮かべている。左手で失った右腕部分をポンポンと触りながら、コクコクと頷いている。妹のシャリオはその後ろで、何とも言えぬ表情を浮かべながら、ロイスに視線を向けている。
「やはり、ただの人間じゃないなおまえたち。まあ、あれだけのスキルを持っているんだ。人間なわけはないか。ということは、お前たちは、今、世間を騒がせている黒龍だな?」
イリモに跨りながら地上に降りてきたリノスが、剣を向けながら二人に話しかけるが、彼らは全く反応しようとしない。
「中の兄さま……」
「わかっている」
短い会話を交わしたかと思うと、ロイスの右腕がどんどん再生されていく。彼は右手をゆっくりと動かしてその動きを確かめながら、視線をリノスに向けた。その目には、憎悪が宿っていた。
「シャリオ、やるぞ」
ロイスの言葉に、シャリオは仕方がないという表情を浮かべながら頷く。
「動かん方がいいな」
不意にリノスの言葉が聞こえる。気が付くと彼らの周囲には、真っ黒い小さな球体がいくつも浮かんでいた。ロイスはその球の一つに手を触れる。
突然、鈍い爆発音と共に地面が揺れた。黒煙が立ち上る中、ロイスはニヤリと笑みを漏らしている。球を掴んだ彼の右手は、吹き飛んでいた。
彼は不敵な笑みを浮かべながら、一歩一歩、リノスに向けて歩を進める。その度に爆発が起こり、地面が揺れる。気が付けばロイスの体は両腕が吹き飛び、体中を穴だらけにした、凄惨な姿になっていた。だが、彼は相変わらず笑みを崩そうとせず、たどたどしくはあるものの、その歩みを止めようとはしなかった。
「フッ、フフフフフ」
不気味な笑い声が聞こえたかと思うと、ロイスの体がカッと光った。その瞬間、彼の体は元に戻っていた。
「死ね!」
気が付けば、ロイスの体はリノスの頭上に浮いていた。彼はこぶしを握り締め、リノスを殴りつけようとしているように見えた。
「ぬうん!」
咄嗟にリノスはマントを引きちぎり、それをロイスに投げつけた。マントがロイスの全身に巻き付く。それを見逃さず、リノスは剣でロイスの体を貫く。
「なっ?」
そこにロイスの姿はなかった。ふと背後に気配を感じる。そこに視線を向けると、何と、ロイスの姿があった。
「その程度か」
ロイスの指から鋭い爪が伸びて、リノスとイリモの体を貫く。何か硬いものを貫く感覚が手から伝わってくる。悪くはない、感覚だ。
「どうした、もう終わりか? フフフ、安心しろ。殺しはしない」
バリン
何かがはじける音がした。同時に、シャリオが目にもとまらぬ速さで、あらぬ方向に向けて走っていく姿がロイスの目に入った。
「うおっ!」
突然、男の声が聞こえる。視線を向けてみると、そこには、手刀を食らわせようとするシャリオと、それを右手で受け止めているリノスの姿があった。彼はいつの間にか馬から降りていた。ロイスは思わず目の前にいたはずのリノスに目を向ける。
……そこにあったのは、大きな岩だった。彼の爪は、その岩に深々と突き刺さっていた。
「兄さま、逃げろ! 逃げて!」
シャリオの絶叫にも似た声で我に返る。見ると、シャリオの体から黒い煙が出ているのが見えた。人化を解除しようとしているらしい。
「……サマニハ……ノゴキゲ……クニゾン……ツリマ」
シャリオの腕を掴んだリノスが小さな声で呟いている。シャリオの周囲が桃色の球体に覆われて、声が急速に遠ざかっていく。彼女は苦しそうに首を振っている。そのとき、リノスの左手がロイスに向けられた。彼の耳にパリパリと不気味な音が聞こえてくる。
ゴアァァァァァー!!
凄まじい咆哮が響き渡る。ロイスの体が黒い煙に包まれたかと思うと、そこには巨大な黒龍が姿を現した。禍々しい気配をまき散らしながら彼は、憎しみを込めた目でリノスを睨みつける。
「この俺を惑わせる幻覚を使うとは、貴様を見誤っていた。この礼は必ずさせてもらうぞ」
「バカ野郎、逃がすか!」
リノスの左手が紫色に光った。だが、ロイスは踵を返すと、どんどん空に向かって上昇を始めた。
「くっそ! 俺の結界を破りながら進んでいきやがる! やっぱり無詠唱じゃ無理か! ああ、詠唱が間に合わん!」
悔しそうなリノスの声。その彼をあざ笑うかのようにロイスの姿は空に消えた。
リノスは、ロイスが立ち去った方向を忌々しそうに眺めていたが、やがて、シャリオに視線を向けた。
「やはり黒龍だったか。お前には聞きたいことがある。心配するな。大人しくしていれば、危害を加えたりはしない」
シャリオは片膝をついた姿勢のまま、リノスに憎しみの視線を投げかけた。
「……リノス様」
不意に女性の声が聞こえた。ふと見ると、そこには、アガルタ軍の兵士数人を従えたマトカルの姿があった。
「何だったのだ? さっきのは。ドラゴンが……空に……」
「ああ、後で説明するよ。気にするな。終わったことだ」
「そうか……。私の方も、終わったぞ。ドルガの占領を完了した」
そう言って彼女は馬を降り、リノスの側に近づいて来る。その右手には、白い包み袋が握られていた。マトカルはリノスの傍まで来ると、片膝をついて包み袋を地面に置き、それをゆっくりとほどいた。
……現れたのは、男の生首だった。男は目を開いたままだった。虚ろな目で、男はリノスを見つめていた。
「バーリアル王国軍総司令官である、エルサック公爵だ。身に着けていた鎧や剣から、本人であることは間違いないと思うが、念のため、首実検をして欲しい」
「……わかった」
リノスはそう言うと、身に着けていた兜を脱ぎ、顔に巻いている布をほどき始めた。
「もう、顔を隠す必要もないだろう」
リノスはほどいた布を懐に仕舞うと、スッと後ろを振り返った。そこには、こわばった表情を浮かべながら固まるシーワと、ぐったりと倒れているギギ。その彼女の傍らで片膝をついて介抱しているトーイッツの姿があった。
「アガルタ国王、バーサーム・ダーケ・リノスだ。これからドルガに向かい、首実検を行う」
彼の言葉に誰も反応する者はいない。リノスは、シーワたちを一瞥すると踵を返して、地面に置かれている生首に手を合わせ、それを丁寧に包み直す。そしてそれを、近づいて来たクノゲンに渡した。
「クノゲン、ルファナちゃん、ドルガに向かおう」
リノスは二人にそう言うと、後ろに控えている兵士たちに向けて声をかける。
「すまないが君たち。この彼女を……運んでくれないか」
彼の視線の先には、相変わらず憎しみの表情を向けている、シャリオの姿があった。
「大丈夫だ。そんなに重くはない……はずだ。無理ならば、馬に乗せて運んできてくれ」
そう言うとリノスはマトカルの肩にスッと手を置いた。
「マト、よく生きて帰って来てくれた。よくやってくれた」
そう言って彼はマトカルを抱きしめた。彼女は驚いた表情を浮かべたが、やがてその顔を真っ赤にしながら、ゆっくりと目を閉じた。