第四百七十話 攻防
エルサックはアガルタ軍の中に起こったどよめきと、鉄の鎧が擦れる不気味な音を聞いて馬を進めるのを止めた。退却しつつあったマトカル率いるアガルタ軍が反撃に出たのだ。そればかりではなく、チャンとワーカが率いるワーロフ帝国軍の一隊が背後に廻りこんで、エルサックの退路を断とうとしていた。
エルサックは思わず馬の轡を掴んでいるデンザの顔を見た。ドルガを出てはいけないという進言を聞き入れなかったために、いま眼の前に重大な事態が起こったのだ。だが、エルサックはそれを危機だとも危急だとも思わなかった。ロイスがかけた精神魔法の効果で、気分が異常に高揚していた。たかがアガルタ軍の千や二千、バーリアル王国軍が蹴散らしてくれるわと強気な姿勢を見せたものの、腹背に敵を受けたいま、どのような手を打つべきかに迷っていた。
「総司令官殿、モローズ殿の隊に合流されるのが、唯一の策かと存じます」
デンザが進言するモローズ隊は、エルサックの周辺を警備している隊だった。彼らは左後方で正門に通じる橋をちょうど渡ったところまで押し出してきていた。周囲を敵に囲まれぬうちに取る処置とすれば、左に向かって後退し、モローズ隊に合流して、そのまま橋を渡って正門に引き上げるしかなかった。今となってはそれもかなり難しいことだったが、それが被害を最も少なくする手段であることは、誰の目から見ても明らかだった。
「なに、モローズ隊に合流しろ、モローズに助けを求めろと言うのか! ……ここな、無礼者めっ!」
エルサックは鞭を上げて、デンザの頬を打った。デンザはドルガの正門の守備を任されている司令官だ。これまでの数度の総攻撃を見事に防いできた有能な指揮官だ。彼の一族は有能な軍人を輩出する家系であった。デンザは打たれた頬に反射的に手をやったまま、馬上のエルサックを睨んでいた。
……あまりにも無慈悲ななされようだ。現状がわからんのか。これを、兄である国王陛下が聞かれれば、何と思われることだろう。
デンザの眼は、そう言っていた。
デンザは国王であるロウサックが信任している軍人の一人だ。そのデンザのきつい眼にあうと、エルサックは、第二の鞭を振るうことはできなかった。デンザはエルサックがひるんだ隙に、馬の轡を取って、モローズ隊へ向かって走り出した。
「ひけっ! モローズ隊に合流しろ!」
デンザはそう叫んでいた。エルサックが言うべきことを、デンザが言ってしまっていた。これは明らかに越権行為だったが、周囲にいた兵士たちには、それは少しも越権行為には見えなかった。そんな命令を下さなくても、この場合はそれより外に手段はなかったのだ。
エルサックの馬首がモローズ隊の方向に向くと、エルサック隊全隊は、そこに活路を見出したかのように退き始めた。
だが、チャンとワーカが指揮するワーロフ帝国軍の騎馬隊が、モローズ隊とエルサック隊の間に割り込んできた。まるで、彼らがこう動ぐことを予想していたかのような、見事な連携だった。エルサック隊は、完全包囲に陥った。
「今だ! 今が勝機だ! 全軍攻撃せよ!」
マトカルは馬上で叫んだ。
デンザはただひとえにエルサックを救出しようと焦っていた。彼が討たれれば、この戦いは負けてしまうのだ。そのためにデンザは、自ら敵の中に身を晒して、敵の注意を引き付けようとした。
一万近い、しかも統制の取れていない軍勢が我先にドルガの正門を目指しているために、エルサックの部隊は大混乱に陥っていた。その兵士たちの間に、わずかな退路が生じた。デンザはそこにエルサックの馬を引き入れた。デンザはそこで、馬の轡をエルサックの近習の一人に渡していった。
「あとは私が引き受ける。お退きなさい」
デンザはそのとき、死ぬ覚悟をしていた。エルサックの鞭に打たれた頬のあたりに残っているかすかな痛みが、彼にいまなすべきことを教えたようだった。デンザは馬上で槍を構えて、寄せてくるアガルタ軍を待っていた。退いていく中でただひとり、突っ立っているデンザの姿はやや異様だった。
「私は、ドルガ正門部隊の指揮官であるデンザと言う者だ! マトカル殿、私と勝負せよ!」
彼はあわよくば、敵の大将であるマトカルの首を獲ろうと考えた。彼女の首を獲ることができれば、少なからず敵に動揺が走るだろう。その隙に乗じて、エルサック以下、バーリアル王国軍の兵士たちをドルガに退かせようと考えたのだ。
だが、その声はマトカルには聞こえなかった。彼はアガルタ軍の兵士たちの槍を一度に受けねばならなかった。デンザはその槍を相手に、阿修羅のように暴れ回った。その様子は、マトカルの目に留まった。
「敵の大将を狙うのだ。他の者には目を向けるな!」
マトカルはそう命令を下したが、鼻先で槍を振り回すデンザを放っておくわけにはいかなかった。アガルタ軍の動きが止まった。
エルサックの目の前では、ドルガに入ろうとする軍勢と、それを阻止しようとするチャンとワーカのワーロフ軍との間で、大乱戦となっていた。モローズ隊は動くに動けない状態にあった。下手に動けば、ドルガの正門を敵に突破される恐れがあるのと同時に、彼らも、ワーロフ軍の攻撃に手を焼いていて、エルサックの軍勢を救援するだけの余力はなかった。
エルサックはチラリと視線を後方に向ける。デンザはおよそ二十人の味方と共に、アガルタ軍の渦の中に取り込まれていた。
「生きようと思うな、死ね。俺と共に死んでくれ!」
デンザは絶叫しながら戦っていた。死ぬ覚悟で暴れ回っているために、さすがのアガルタ軍の兵士たちも手を焼いた。彼らはリノスの結界石を装備しているために、実質的な被害はなかったが、それでも、死に物狂いで暴れ回るデンザになかなか槍をつけられずにいた。
視線を正面に戻そうとしたそのとき、エルサックの頭に閃くものがあった。
彼は包囲している部隊の中で、右翼に展開している部隊が最も手薄と見た。そこは、チャンが指揮する部隊であったが、彼らは、エルサックの軍勢を攻撃しながら、同時に、モローズの部隊にも攻撃を仕掛けていた。その上、隙あらばモローズの部隊を打ち破って、ドルガに突入しようとしていたため、陣形がやや延びているように見えたのだ。
エルサックは周囲の兵士たちを連れて、チャンの部隊に攻撃を仕掛けた。エルサックとチャンの部隊は絡まり合ったまま廻り出した。そのまま廻り続ければ、エルサックの部隊の一部は、チャンの部隊の横をすり抜け、危機を脱せられるはずだった。しかし、マトカルは冷静にその様子を見ていた。彼女はそうやすやすと、エルサックの策には乗らなかった。
「皆の者、続け!」
彼女はそう叫ぶと、暴れ廻るデンザを兵士たちに任せて、自らは部隊を引き連れてエルサックの部隊の横腹をついた。そのあまりの素早さに、エルサックはその攻撃に対して、気付くのが遅れ、部隊は大混乱に陥った。
◆ ◆ ◆
「……申し上げます!」
リノスの許に伝令が息を切らせながら控えた。彼はゆっくりと頷いて、兵士に報告を促す。
「マトカル様、敵の総司令官であるエルサック将軍を討ち取りました。併せて、デンザという敵の司令官も討ち取りました。お味方は引き続き、ドルガに向けて攻撃を継続中です」
「ご苦労だった」
リノスは顔色を変えず、ただ、淡々とした様子で、兵士にねぎらいの言葉をかけた。
「全軍に総攻撃をかけよと触れて廻りなさい」
声の主は、シーワだった。彼女は顎をしゃくり、傍に控えていたギギとトーイッツに促す。
「では、私はこれで」
「待て」
その場を去ろうとするシーワが怪訝そうな表情を浮かべる。彼女らを止めた覆面姿の男は、腕を組み、あらぬ方向に視線を向けている。その態度は、シーワの癪に障るものだった。
「我々は忙しい……」
「死にたくなければ、動くな」
まるで、死にたければ勝手にしろと言わんばかりの態度だった。その彼の視線の先に、二人の騎兵が向かって来ているのが見えた……。