第四百五十六話 味方
マトカルの様子がおかしいと最初に気付いたのは、エリルだった。彼女は、マトカルが帰ってくるなり、その様子がいつもと違うことを敏感に感じ取っていた。そして、それから片時も彼女から離れようとはしなかった。
特に何をするわけではない。ただ、マトカルの着替えを手伝い、マトカルの隣に座って食事をする……。ただそれだけのことだが、二人ともほとんど言葉を交わさないにもかかわらず、ずっと寄り添うようにしているのは、誰の目から見ても奇異に映った。
「マトちゃん、お風呂、入ろ?」
「ああ……」
そう言って二人は、弟のファルコを伴って風呂に消えていった。普段ならば、アリリアや他の弟や妹たちも、一緒に入ると言って後を追うのだが、この日の二人の雰囲気は、それすらも遠慮させるほど、異質なものだった。
「マトに……何かありまして?」
ソレイユやシディーが子供たちの相手をする中、リコが話しかけてきた。俺は再びダイニングの椅子に腰かけながら、その日あった出来事を語って聞かせた。
「まあ、お行儀の悪いことですこと」
リコが呆れるような表情を浮かべる。俺はゆっくりと頷きながら、マトカルを糾弾する内容が書かれた手紙を差し出す。彼女はそれをじっと見ていたが、やがてそれをテーブルの上に置き、ゆっくりと息を吐き出した。
「自分の思い通りにならなかったから、その怒りをこんな形でぶつけているのですね……。この、シーワと言う御方……。とても頭のいい御方だとは思いますが、何とも言えぬお行儀の悪さが、この文章の端々に見えますわ。なるほど、マトが落ち込むのがわかる気がしますわ。見る者を不快にする文章……。それが自分に向けられているとなると、余計ですわね。しかし……このシーワと言う御方、勿体ないですわね……」
「勿体ない……か。意外な答えだな。俺はてっきり、こんなものは相手にするなと言うと思ったんだが」
「相手にしないに越したことはありませんわ。このお方の眼鏡に叶わなければ、これからも、かなり不快な思いをすることになるでしょうから……」
「それは、俺も思う」
「リノス」
「何だい、リコ?」
「マトを……守ってやってくださいませね」
「そりゃ、守るさ」
「いいえ、リノスの考えていることと、私がお願いしたいこととはきっと、違いますわ」
「どういうことだい?」
「リノスは、マトを批判から守る……そう考えておいでですわね? 言わなくても分かりますわ。でも、それではマトの気持ちは汲んでいることになりませんわ」
「ほう、詳しく」
「本来のマトは、アガルタ軍の教育担当ですわ。今はその本来の仕事を投げ打って、ワーロフに赴いているのです。彼女は屋敷に帰って来てからも、報告書に目を通すなどして、自分の仕事をきちんとこなしていますわ」
「え? マジで?」
「マトはアガルタのため、リノスのため、自分のためにもなると考えて、今回の戦いに赴くことを選んだのですわ。そして、ワーロフにとって力を尽くそうと考えていたのですわ。それが、こんな形で踏みにじられているのです。その気持ち、わかりまして?」
「……ヤル気は削がれるよね」
「でも、マトはそれを絶対に口に出しませんわ。そんな後ろ向きの自分を必死で鼓舞して立ち向かおうとしているのです。そんな彼女にしてやれることと言えば……」
「ちゃんと、マトにも味方がいる。気持ちを汲んでやる者がいると思わせてやること……」
「その通りですわ」
リコはにっこりと微笑む。そして、俺の耳元に顔を近づけてきた。
「今夜は、マトと一緒にいてあげてくださいませ」
「わ、わかった」
◆ ◆ ◆
「ふぅ~やっと寝たか……」
俺はスヤスヤと寝息を立てているエリルの顔を、優しく撫でる。生まれた頃はリコに似ていると思っていたが、最近ではあの、エリルお嬢様に面立ちが似てきたようにも思える。成長すれば、あんな感じになるのかと思うと、楽しみのような、そうでもないような、なんとも複雑な気持ちになる。
そんなことを考えながら俺は、メイに念話を飛ばす。彼女はすぐに寝室に入ってきて、エリルを優しく抱きかかえた。もう、ベビーベッドには入らないくらいに大きくなった。その成長が俺には素直にうれしく思える。
メイはスッと頭を下げると、エリルを抱えたまま寝室を後にしていった。
「……リノス様」
「どうした、マト?」
「今夜はその……一人で寝かせてもらえないだろうか」
「そうだな。今夜はゆっくりと休むといい」
「すまない……」
そう言ってマトカルはベッドから降りようとする。俺は思わずその手を掴む。背中を向けたままの彼女の体が、ピクンと震えた。
「マト、大丈夫だからな。絶対に、大丈夫だ」
「……」
「お前は、本当に頑張っている。俺たちのこと、アガルタのこと、兵士たちのこと……子供たちのこと。いつも気にかけてくれているのを俺は知っているつもりだ。お前はお前なりに精いっぱいやってくれている。ワーロフのことも、お前なりに力になろう……そう考えてくれていることも、俺はわかっているつもりだ。だからマト、大丈夫だ」
「……ありがとう」
「ただ、あのシーワという司令官……惜しいな。ここは一つ、彼女に教えてやらなければならないな」
「教える? 何をだ?」
「世の中は自分の思い通りにはいかないってことをさ。そして、思い通りにいかないからこそ、面白いんだってことをさ」
「……すまない、よく、わからない」
「まあ、任せておけ。俺に考えがある」
俺の言葉に、彼女はゆっくりと視線をこちらに向ける。
「……リノス様、意地悪な顔をしている」
「そうか? いい男だろう?」
「……やっぱり、一緒に、寝ても、いいか?」
「もちろんだ」
彼女はゆっくりと俺の許に戻ってきた。そして、俺の胸に顔をうずめた。
この日のマトカルは、珍しく目をつぶったまま俺の愛を受け続けた。いつもは、彼女の目を見ていると、その瞳の奥に炎が燃えているのを感じる。それがマトカルの反応そのものなのだが、この日はそれを見ることができなくて、少し戸惑った。
だが、目を閉じたままでも彼女の表情でそのときの心境は十分に察することができた。彼女はいつもとは違って俺に抱きついたまま離れようとはしなかった。シーワの仕打ちが、相当にショックで、悔しかったのだということは、肌を合わせていると、十分に伝わってきた。俺は何度も彼女の耳元で、大丈夫だと繰り返した。その度に彼女は、ありがとうと呟き、俺を抱きしめてきた。
どちらかと言えば受け身だったマトカルが、いつもとは違う反応を見せたこの日の夜は、時間が経つにつれて、俺自身も燃え上がらせた。そんな濃厚な夜は、俺とマトカルの心を深く通わせたのだった。
◆ ◆ ◆
「……!?」
目が覚めると、すでに朝になっていた。部屋がとても暖かい。ここは……。
「おはようございます、エリルちゃん」
不意に声が聞こえてきた。ゆっくりと顔を上げると、そこには、お母さん――メイの優しい顔があった。エリルは慌てて体を起こす。
「マトちゃんは?」
「朝早くに、出かけましたよ。お父様も一緒にお出かけになるから、エリルちゃんが一人になるからって、ここに連れてきました」
ゆっくりと見廻すと、そこは見慣れた部屋であった。少し鼻を突く古い紙と薬品の臭い……。だが、それは決してイヤな臭いではなく、何かを学ぼうと思わせる不思議な臭いだ。
ふと横を見ると、妹のアリリアが大の字になって眠っている。いつもの朝がそこにあった。
「大丈夫です。マトちゃんは、あなたのお父様が守って下さいます。今日は、いつものマトちゃんに戻って帰って来ます。……昨日はずっとマトちゃんと一緒にいてくれて、ありがとうね。とっても、助かりました」
母の優しい笑みが、エリルの心を癒していく。彼女は大きく頷いたかと思うと、母に向かってゆっくりと口を開いた。
「今日の夕食は、私もお手伝いするね」
「ええ、是非、そうしてください。私も、今日は早く帰って来て、ペーリスちゃんを手伝います。二人で、とびっきりのご馳走を作って、マトちゃんを迎えてあげましょう」
「うん」
とびっきりの笑顔で返事を返すエリル。その表情を、メイは優しい笑顔で眺め続けた。




