第四百三十九話 絵に描いた餅
「中の……兄様」
シャリオは息を整えながら、目の前の黒龍を見上げる。中の兄……ロイスはニヤニヤと笑みを浮かべながら彼女を見ている。この笑みは何か、面白いことを思いついたときの顔だ。ただそれは、兄が面白いと思うことであって、必ずしも自分が面白いと思えるかどうかは限らない……。そんなことを思いながら彼女は、兄の顔をじっと見つめる。
「どうだった、アガルタは?」
「……」
「リノスという男は?」
「わからない」
「だろうな」
中の兄は、フフフとまるで、笑いをこらえられないかのように声を漏らす。彼はぐるりと首を廻すと、あらぬ方向に視線を泳がせた。
「手も足も出なかった……違うか?」
「……」
「だが、さすがは俺の妹だ。よくあの場から逃げおおせた。あのままあの男と戦っていれば、間違いなくお前は死んでいた」
「……」
「あのリノスという男は結界師だ」
「結界師?」
「ああ、それも神級レベルだ。まあ俺や兄者であれば問題はないだろうが、お前ではおそらく、太刀打ちできまい」
「そんなことは、ない」
「ほう」
「私はアガルタの都から脱出している」
「うん? どういうことだ?」
「中の兄様の話でようやく合点がいった。なるほど、結界が張られていたのか」
シャリオはゆっくりと体を起こす。
「都に入ろうとしたとき、体中に痛みを感じて入ることができなかった。そのときは人化していたのだ。人化を解いたら、体に痛みを感じることもなく、問題なく脱出できた。問題は、ない」
彼女はロイスに真っすぐな視線を向ける。その視線にロイスは応えず、フフフと笑みを漏らすと、視線を合わせないまま、まるで独り言のように、小さな声で呟いた。
「あのリノスという男、我らの僕にしようではないか」
「僕?」
「我らの手下とするのだ。お前には、あのアガルタの都をやろう。我ら二人であの男と都を手に入れようではないか」
「……」
「その顔は、どうやってやるのだという顔だな。お前の考えていることは手に取るようにわかる」
「……我ら二人で、戦うのか?」
「バカを言え。我々が戦えば、あの男も都も何もかもが無くなってしまう。それに、我らがこれ以上動くと龍王と戦わねばならないことにもなりかねん」
「確かに、アガルタに向かう途中でとんでもない気配を感じた。あれと戦うとなると、我ら全員で事に当たらねばならなくなる……」
「さすがはシャリオだ。そうならないために、俺にいい考えがある。どうだ、一緒にやってみないか?」
シャリオはグルル……と、少し悩んだような素振りを見せたが、やがて、その透き通るような瞳をロイスに向け、まるで、宣言するかのように毅然とした態度で口を開く。
「事がなった暁には、あの都とリノスという男は私が貰う」
「何?」
「あの都の食べ物は美味しかった。きっと他にも美味いものがあるに違いない。あそこの食べ物は全て私が食べる」
「それはよいが、なぜ、男までお前のものにするのだ?」
「面白そうだからだ」
「面白そう?」
「フフフ、何かあの男は、面白そうだ。私のモノにする」
「それは構わんが、あの男は、我らがためのものにするのだ。そのことを忘れるなよ」
「わかっています」
シャリオはそう言うと体を起こし、背中の羽を大きく広げた。その様子を見ていた兄のロイスは、大空に舞い上がる。そして、彼女を促すようにして、北に向かって飛んでいった。その後を追うように、シャリオも大空に舞い上がった……。
◆ ◆ ◆
「では、行ってきます!」
そう言ってフェリスはしゅたっ、と敬礼をしている。その様子を俺は唖然としながら見守り、妻たちや子供たち、ゴンたちもポカンとした表情を浮かべている。唯一例外はルアラだ。彼女は完全に顔が死んでいる。
それは突然のことだった。あの騒動があった日、屋敷に帰ってきたフェリスが、突然こんなことを言い出したのだ。
……今から、ジュカ山に帰ります。
一体何事かと思い、戸惑う俺たちをそのままに、彼女はすぐに自室に戻ってしまった。しばらくすると彼女は旅に出る出で立ちをして俺たちの前に現れ、そして、こう言い放った。
「両親の許に行って来ます。ですので、しばらく帰ることができません」
あまりの突然のことに、俺は混乱してしまう。その中でリコは冷静にフェリスに対処する。彼女は手短にその理由を聞いていく。すると、フェリスの口から発せられたのは、驚愕の一言だった。
「最悪の場合、我々クルルカンと黒龍と全面戦争になる可能性があります。そうなると、すぐには帰ってくることができません」
「ちょっと待て、一体どういうことだ?」
フェリス曰く、その昔、クルルカンと黒龍はジュカ山での縄張り争いから全面戦争になったことがあるらしい。その際はクルルカンが勝利し、黒龍側には自身の縄張りから出ないことを約束させたのだそうだ。
「今日、都で私を襲ったのは、間違いなく黒龍でした。で、あれば、ヤツらは約束を違えたことになります。私は一旦山に戻り、両親に報告をして、族長様の判断を仰ぎたいと思います。仕事のことが気になりますが……」
「わかりました。そういうことなら、フェリスの仕事は、私が代わりますわ」
「すみません、リコ姉さま……」
そう言って彼女は敬礼をして、屋敷を後にする。その様子を俺たちは茫然と見送るしかなかった。子供たちも唖然としていて、一体何が起こったのかがわからないようだ。その中で、エリルがフェリスの後を追いかけていった。その後をシディーが追いかけていく。
しばらくすると、シディーに肩を抱きかかえられながらエリルが戻ってきた。彼女は目を真っ赤に泣きはらしている。そんな彼女に、シディーは優しく声をかける。
「大丈夫、すぐに戻ってくるわよ」
「だって……」
「母さんの直感がそう言っているのよ。大丈夫。フェリスちゃんはすぐに帰ってくるわ。……母さんが、嘘をついたこと、ある?」
エリルは黙ったまま、首を振る。その様子を見たシディーはニッコリと微笑む。
「フェリスちゃんが戻ってきたら、ご馳走を作ろう。エリルちゃんも手伝ってね」
その言葉に、彼女は笑顔で頷いた。
◆ ◆ ◆
アガルタの都から遥か北に位置するライドアイランド。四国と同じ面積を持つこの島は、冬は雪に閉ざされる。
この大陸を支配しているのは、バーリアル王国だ。当代の王であるロウサックは一人、部屋にこもったまま一点を見つめている。視線の先には、巨大な世界地図が掲げられていた。
ロウサックはゆっくりと立ち上がり、世界地図に近づいていき、人差し指で自国であるライドアイランドを指さした。
彼は心の中で恨み節を繰り返していた。これだけ大きな国でありながら、貧しさのため、全く注目されていない。本来我が国は、もっと世界の一等国として賞賛されてよいものを……。
実際、この国の国土は肥沃な土地であった。作物の収穫高も、国民を養っていくには十分だった。だが、長年属していたクリミアーナ教国のお蔭で、その作物の三分の一を強制的に教国に寄付させられていた。それだけではない。この国の冬は厳しい。そのために、ありとあらゆるものが雪と氷に閉ざされる。最も頭を悩ませているのは、国中の港が凍りついてしまうことだ。そうなれば当然、船を出すこともできない。そうなると、ありとあらゆる物資が滞ることになる。それが、この国の成長を著しく阻んでいたのだった。
すでにクリミアーナ教国は滅んだ。教国を滅ぼした新・クリミアーナ教からは何も言っては来ていない。今が独立するチャンスであることは明白だった。だが、独立したところで、気候が変わるわけではない。この国を成長させるためには、冬でも凍らない港を確保することが必須だった。
「お前の望みを、叶えてやろうか?」
突然、男の声が響き渡る。驚いたロウサックが、声のした方に顔を向けると、一組の男女が立っていた……。




