第四百三話 妻の助言②
せっかくうまくいくと思ったのに、まさかこんなオチがつくとは……。そんなことを考えながら俺は今、呆然と立ち尽くしていた。世の中というのは、上手くいかないものだ……。
絶望する俺の目の前では、ミーク姫が不思議そうな表情を浮かべながら俺を眺めている。お前、何をヘコんでいるんだ? 彼女はきっとそう思っているに違いない。この少女が、わずか数秒前に、たった一言で俺を絶望の淵に叩き落したのだが、彼女にはその意識は全くないようだ。
昨夜、リコからミーク姫に手紙を書かせることを提案された俺は、早速、彼女に手紙を書くよう促してみた。だが、彼女から返ってきた答えは、衝撃のものだった。
「手紙? なんじゃそれは?」
「紙に字を書いて自分の思いを伝えるんだ」
「字? 字とは何じゃ?」
まさか、文字を知らないとは思ってもみなかった。そりゃ、手紙なんざ書けないよな……。俺は思考停止になりそうになりながら、必死で考える。字が書けない人に、どうやって「私はエルフ、エルフ王の娘のミークです」という情報を伝えればいいのだろうか。というより、エルフはどうやってコミュニケーションを取っているのだろうか。まあ、喋ればいいじゃんとは思うが、連絡事項などはどうしているのだろう? 全部記憶できてしまうのだろうか……。
そんなことを思いながら、一方で俺は、これからのことを考える。そのとき、俺の背後に気配を感じた。
「どうされました?」
振り返るとそこにはソレイユがいた。彼女はセイサムを抱っこしながら、柔和な笑みを湛えている。俺はミークが字を書けないこと、そもそも文字を知らないことなどを手短に話した。
「う~ん。それでしたら、魔力で伝えるというのはどうでしょうか?」
「魔力?」
「はい。我々サイリュースには、『ティペットの裁き』と呼ばれるアイテムを作り出すことができます。それを応用すればいいのではないですか?」
「ティペットの裁き?」
「あれ? お忘れですか? リノス様にも一度、お使いいただいたのですよ?」
そう言ってソレイユは艶めかしく笑う。ここ最近思うことだが、ソレイユは子供を産んでからさらに色気が増した気がする。リコたちにも聞いてみたが、彼女たちはそんなことはないと言う。むしろ、以前まであった必死さ……頑張って色気を出そうとする姿勢が無くなったために、落ち着きが出てきたとさえ言うのだ。男子と女子では、見るポイントが違うのか、ここまで評価が分かれるのも珍しい。
「うふふ、お忘れですか? 初めてお会いしたときです」
「初めてソレイユに会ったとき?」
俺はそう言いながら、記憶を辿る。確か、ソレイユが腹を空かせて道端でぶっ倒れていたのが、一番最初の記憶だ。……どうやら違うらしい。ソレイユの目が怖い。それは言わない約束でしょと言わんばかりの顔をしている。……そうだ、確か、この屋敷の応接室で会ったんだ。そのとき確か、紙を渡されたんだ。
「ああ、あのときの紙か」
「そうです。人の邪心を映し出すあの紙こそが、ティペットの裁きです。あれを応用すればいいと思いますよ。少し待っていてください」
そう言ってソレイユは子供を俺に預けて、外に出ていってしまった。幸い、セイサムはぐっすりと眠っていたために全く手はかからないが、一体何をしようとしているのか、俺には皆目見当がつかなかった。それから十分ほどした頃だろうか。彼女は一枚の白い紙を持って再び俺たちの許に現れた。
「ミークさん、すみませんが、この紙に、両手を押し付けてください」
「ふ~ん。面倒くさいのう」
そう言いながらミークは渋々立ち上がって、テーブルの上に置かれた紙の上に両手を載せる。
「……これでよいのか?」
「ええ、結構です」
そう言ってソレイユはにこやかに笑う。
「ソレイユ……。その紙は一体何だ?」
「これはリノス様としたことが……。お分かりになりませんか? 一度、魔力探知を発動させてみてください」
彼女に勧められるままに俺は、魔力探知を発動させる。すると、紙の上に、ミークの魔力が感じ取られた。
「あ、微量ではあるけれど、ミークの魔力を感じるな。これは一体……」
「その紙は、触れた者の魔力を少しだけ吸い取る効果を付与しています。私はまだ神龍様を呼びだせませんので、アステスに頼んで作ってもらいました。彼女が契約している森精霊の力をこの紙に写したのです」
聞けば、アステス自身もそれなりの高位の精霊と契約しているそうだが、彼女をして、この紙に微量の魔力を吸い取る力しか、その効果が付与できないのだ。ちなみに、俺が使ったティペットの裁きは、何と族長のヴィヴァルが作ったのだそうだ。どうやら族長様は、俺にサイリュースの里を救ってほしいと願う一方で、ソレイユに俺を篭絡させる腹もあったようだ。まあ、今の状況を考えれば、族長様の思惑通りにコトが運んだと言えるだろう。ただ、ソレイユが神龍様を呼びだすことができるようになり、彼女がティペットの裁きを作ったとしたら、どんなモノが出来上がるのだろう。……何だか、恐ろしいのでそれは考えないことにする。
「ただ……。こんな微弱な魔力を果たしてエルフが感じてくれるだろうか」
「大丈夫ですよ。腐ってもエルフです。このくらいの魔力であれば、十分です。きっと、この魔力を通じてミークさんの、里に帰りたいと言う思いも伝わると思いますよ」
「……スゲェなエルフは」
俺はゆっくりと顔を振りながらため息をついた。別に調子に乗るわけではないが、俺のスキルはかなり高いものだと自負していた。だが、エルフのスキルはヘタをすると俺のはるか上をいくかもしれない……。そんなことを考えながら俺は、ちょっと自分の気を引き締め、両手で顔をパンパンと叩く。
「よし、わかった。ありがとうソレイユ。このティペットの裁きをフィルコン山脈の麓において来よう。念のために俺の手紙も添えておこうか。あと……ラトギスの杖も置いておこう」
俺の言葉に、ソレイユはにこやかに笑いながら、頭を下げた。
その後、俺はエルフ王宛の手紙を認めた。リコに見せると、赤ペン先生も真っ青になるほどにチェックを入れられ、その後、メイが添削し、さらに、シディーの案も盛り込んだことで、原形を全くとどめてはいないのだが、これは秘密だ。お蔭で、なかなか素晴らしい出来栄えのものになった。
俺はその手紙を持って、前回シディーたちと一緒に来たときに転移結界を張った場所に赴いた。そこにティペットの裁きと手紙を同封した封筒を置き、その隣にはラトギスの杖を置いた。ただ、杖の方はエルフ王秘蔵のアイテムと聞いていたので、敢えてそこには結界を張ることにした。俺の許可がある者以外は結界に入ることができない効果を付与して、誰にも盗られないように万全の態勢を整えた。こんな前人未到の地までエルフ以外の生き物が来るとは思えないが、シディーがどうしても結界を張れと言っていたので、念には念を入れる意味でもそうすることにしたのだ。あとでなくなりました、とならないようにしなければならない……。
俺は天に向かってそびえ立つ山を見上げながら、小さな声でお願いしますと呟いて、再び転移結界に乗り、帝都の屋敷に帰った。手紙には、三日後にもう一度ミーク姫を伴ってここに来る。何かあれば、そのときに何らかのコンタクトを取って欲しいと書いておいた。
そしてその三日後。俺はシディーとミーク姫を連れてフィルコン山脈の麓に転移した。そこには、ラトギスの杖がそのままの形で置かれていたが、ふとその隣を見ると、置いていた手紙が無くなっていた。そこには、薄い紫色の拳大の石が置かれていた。俺は訝りながらも、その石に近づいた……。