第四百一話 目くらまし
目の前には、黒い景色が広がっていた。一体、何のことだと思われるかもしれないが、俺の表現力ではただ、黒い景色としか言いようがないのだ。
ここに来るまでの行程は、とても快調なものだった。ジェネハの翼で大空高く舞い上がった俺たちは、易々とマスピス山脈を越えることができた。眼下には、太陽の光を受けて、まるで鏡のように輝く氷の山が広がり、それはそれは美しい景色だった。ジェネハの足に掴まりながら、俺もシディーも思わず嘆息を漏らしたほどだ。当然、彼女の背中に乗っているミーク姫も、その光景に大はしゃぎだったのだ。
だが、その山々の彼方には、天を覆うような巨大な山が見えてくる。それが徐々に近づいてくると、俺たちの口数は自然と少なくなっていった。
その山は、山頂付近は真っ白な雪のようなものに覆われていたが、麓を見ると、真っ黒な色をしていた。その形は、山というより、巨大なビルと表現した方が適当だろうか。まさしく断崖絶壁、切り立った山が垂直に天に向かって伸びていた。
さらに驚いたことには、麓に降り立つと、そこはまるで、巨大な屋根のようになっていたことだ。調べてみると、どうやらこの山はまるで逆三角錐のような形になっているらしい。山頂に向かって山が広がっている……そんなイメージをしてもらえると、わかりやすいだろうか。
「……何ちゅう山だ」
俺は思わず声を漏らす。そんな俺をよそに、シディーは真っ黒い山の斜面をペタペタと触っている。
「これは、人工的に削られていますね」
「え?」
「この山はかなり硬い岩盤でできています。そのために、この山が崩壊せずにいられるようですね。それにしても……これをここまで砕くのには、さぞ骨が折れたことでしょう……」
まるで感心するかのように、また、呆れるかのような表情を浮かべながら、シディーは首を振っている。聞けば、この麓の岩盤を削るに際しては、かなり細心の注意が払われているらしく、山が崩落しないよう、綿密な計算の許に行われているらしい。
そんな彼女の話を聞きながら、俺はミーク姫に視線を向ける。彼女はジェネハの背中に乗りながら、キョロキョロと辺りを見廻している。
「なあミーク、お前さんがエルフの里を出たときは、どうやって麓までたどり着いたんだ?」
「……覚えておらぬ」
「……」
聞けば、気が付いたらヘイズと一緒にいたのだそうで、別に吹雪の中を移動したわけでもなく、寒さに震えることもなかったらしい。幼い頃に育ったエルフの里の記憶は曖昧になっていて、一応、父親と母親の顔は覚えているらしいが、そうした頃の記憶はほとんどないのだという。覚えていることと言えば、ヘイズと一緒にいたところに突然何者かに踏み込まれ、気が付けば一室に監禁されていたことと、それからしばらくして、ヘイズが現れ、再び自分を連れ出したことなのだと言う。
「その連れ出されたときのことは、覚えていないのか?」
「気が付けば、ヘイズの部屋におったのじゃ」
「……なるほど。転移した、ということか。となれば、エルフの里では魔法は使えるということだな?」
俺は顎に手を当てながら考える。
「そうですよ、リノス様! リノス様には、相手の魔法を感知して転移するスキルをお持ちです。それが使えれば、わざわざこの山を登る必要はなくなります!」
シディーが我が意を得たりといった表情で口を開いている。俺の考えていることを先に言われてしまった。ただ、エルフの魔法がどのようなものであるのか、俺にはわからない。そんなことを考えていると、シディーがスッと顔を近づけてきて、俺に耳打ちをする。
「リノス様、もしかして、エルフの魔力がどのようなものかがわからないと思っていますか? それでしたら簡単です。そこに居るミーク姫の魔力を参考にすればいいのです」
……おおう、なるほど。さすがはシディーだ。俺の考えていることを、完全に把握している。ジェネハに無理を言ってこの人を連れてきて、本当によかった。彼女のスキルには頼もしさを感じるが、同時に、ちょっとした恐ろしさも感じる。俺は決して後ろめたいことはするまいと、改めて心に誓う。絶対に浮気はしない。もう、妻たちだけを愛して生きるのだ。
「そうです。それでいいのです」
シディーが大きく頷いている。まさか、今の俺の心も読んだのだろうか……。いや、まさか。たまたまだと思うことにしよう。
そんなことを考えながら、俺はミークの許に近づき、彼女の頭に手を載せる。
「……」
「……早く手をどけるのじゃ。髪型が乱れるではないか」
「ゴメン」
そう言えば一度、シディーに怒られたことがあったのを思い出した。あれは新婚時代のことだった。気まぐれに彼女の頭をナデナデしたら、とても悲しそうな顔をされたのだ。曰く、自分を可愛い女性と見てもらうために、必死でセットしているのだ。無暗に触られるとセットが崩れるのでやめて欲しい……。そう言われたのを思い出した。俺はゆっくりと彼女の頭から手をどける。
「よし、大体わかった」
そう言って俺は、手を地面につけて、魔力を注入していく。
「……」
かなりの魔力を注入しているが、ミークと同じ魔力は感じられない。それどころか、この山脈の中に生き物の気配すら感じないのだ。これは一体どうしたことだろうか。
「ふぅ……」
俺は一旦、魔力の注入を止め、天を仰ぐ。このまま続けてもいいが、何となくこれでは効果がないと感じたのだ。
「リノス様……大丈夫ですか?」
シディーが心配そうに声をかけてくる。俺は手で問題ないと制しながら、彼女に視線を向ける。
「ちょっと厄介だな。魔力を感じないどころか、生き物の気配すら感じない。本当にこの山にエルフがいるのか、それすらも疑わしくなってきたよ」
「う~ん」
シディーは人差し指を顎の下に当て、何かを考えるポーズを取り出した。彼女の目がゆっくりと左右に動いている。まるで『一〇さん』の中で、とんちを考えているときのようだ……。そんなことを考えていると、シディーと目が合った。彼女はしばらくじっと俺の目を見ていたが、やがて、彼女の目が少し見開かれた。どうやら何か閃いたようだ。
「結界?」
「え?」
「もしかして、エルフは村全体に結界を張っているのではありませんか? その……上手く説明はできませんが……」
「なるほど、結界に魔力を悟られないような効果を付与しているのかもしれないな。とすれば……」
俺は腕を組みながら考える。俺が相手の結界師の立場であったらば、どんな結界を張るだろうか。魔力が悟られないように……。それでいて、結界が張られていることもわからせないようにするためには、どうするか……。そのとき、俺の脳裏にフィルコン山脈の山容が浮かんだ。
「雪……か?」
フィルコン山脈は、山の中腹から山頂にかけて真っ白い雪に覆われている。その厚い雪に似せた結界を貼れば外からはわからない。俺は再び地面に手を当てて、魔力を注入する。
「……」
どのくらいの時間続けていただろうか。俺の額にはうっすらと汗が滲んでいる。この山脈全体に、かなりの量の魔力を行き渡らせているが、結界らしき魔力はまったく捉えられなかった。
「リノス様!」
シディーの声で我に返る。気が付くと俺は、彼女に抱きかかえられていた。ものすごい眠気が俺を襲っている。どうやら、MPが枯渇してしまったようだ。
「むっ!」
突然唇に何か柔らかいものが押し当てられた。その直後、俺の口の中に、液体が流れ込んできた。これは……MP回復のポーションだ。
ふと目を開けると、目の前にシディーの顔があった。何と彼女は口移しで俺にポーションを飲ませてくれたのだ。
「すまんな、シディー。ただ……別に口移しじゃなくても……」
「リノス様がうつ伏せに倒れそうだったもので……。私では仰向けにすることはできませんから……」
「だからと言って……」
「ウフフ。仲がいいのう。まるで、恋人同士みたいじゃな」
ミークが俺たちの様子を見ながら、意地悪そうな表情を向けている。その隣で、ジェネハは、退屈そうに大きなあくびをしていた。俺はため息をつき、一旦帝都の屋敷に帰ろうと促して、転移結界を張るのだった……。