第三百八十六話 暫
「そう……ですか。はああ……」
俺は族長様の話を聞いて絶句していた。ソレイユは相変わらず涙を流しながら泣いている。その隣でアリリアは、心配そうな表情を浮かべながら彼女の腕にしがみついている。
何と、ソレイユが産んだ子供は、男の子だったのだ。
サキュバスの流れを汲むサイリュースは基本的に、女性しか生まないというのが、俺の知っている知識だった。だが、長い彼女たちの歴史の中では、例外はあったらしい。
今から一千年近く前に、一人のサイリュースが男の子を産み落とした。女性しか生まれないと信じて疑わなかったサイリュースたちは、その誕生に大いに動揺する一方で、初の男子誕生に大いに喜んだのだという。
しかし、赤ん坊の泣き声は、その声量もさることながら、耳をふさぎたくなるほどの悪声であったらしい。そのせいで、サイリュースたちが契約している精霊たちが逃げて行ってしまい、彼女らの里は一時、危機的な状況に陥った。
元々、精霊の生気を体内に取り込むことで生命を維持していたサイリュースたちは、精霊の加護を得ることができなくなった途端、バタバタと倒れる者が続出したのだそうだ。これは推測の域を出ないのだが、おそらく、彼女らの体内に取り込まれた精霊たちは、体内に取り込まれる毒物を中和したり、病原菌などを死滅させる抵抗力の役割を担ったりしていたのだろう。サイリュースの里には、原因不明の病を発症して寝込むものが激増したのだという。
事態を重く見た当時の族長は、二つの選択肢の中で揺れ動いた。それは、母親と共に赤ん坊を里から追放するか、その子供の命を奪うかという選択だった。結果的に、族長が選択したのは、後者だった。彼女は泣き叫ぶ母親の目の前で、赤ん坊の命を奪ったのだそうだ。
「なぜ、そのような惨いことを……」
俺はゆっくりと息を吐き出しながら、小さな声で呟く。何も母親の目の前で殺さなくてもいいだろう。母親と子供をどこかに隔離するということはできなかったのか。そんなことを考えながら、視線を見つめ続ける。
「赤ん坊の母親は、族長の娘だったのです」
「……」
聞けば、精霊の加護を持たないサイリュースは、ほどなくして死に至る。男の子を生んだ娘も、ソレイユと同様に、母親が契約する精霊に守られる形で妊娠期間を過ごしてきた。これは、身籠ったサイリュースは精霊を使役することができなくなるために、妊娠期間は、族長が契約する精霊に守られる形で出産までの時間を過ごすことになっているためだ。そのため、族長となる者は、高ランクの精霊と契約していることが必須で、しかも、火などの攻撃的なものではなく、森や水といった、どちらかと言えば癒しの役割を持った精霊を使役できるものが選ばれるのだという。
「では、神龍様と契約しているソレイユは、族長には……」
「いいえ。むしろ、ソレイユこそが次の族長にふさわしいのです」
神龍様は、精霊の中ではズバ抜けた存在なのだという。彼を自由に使役することができれば、サイリュースにとってその繁栄は約束されたも同然であり、何より、身籠ったサイリュースが病で命を落とすことはほぼ、皆無になるのだそうだ。
「ですから……。ですから、ソレイユをこの子と共にこの村から追い出すことはできません。そうなれば、残る手立ては……」
そう言って族長様は唇を噛んだ。そのとき、ソレイユが抱えている赤ん坊が泣き声を上げた。
……普通の赤ん坊の泣き声だ。むしろ、フニャア、フニャアと弱い声で泣いているように聞こえる。
「うっ……ツツツツ……」
赤ん坊の泣き声を聞いた族長様が、頭を押さえて蹲っている。ソレイユも目をギュッと閉じて、何かを必死で我慢している。
「うわぁ、面白い泣き声ぇー。ウニャアキィィィィン、ウニャアキィィィィンだって」
ソレイユの隣でアリリアが頓狂な声を上げている。彼女はキィィィンという音が聞こえるらしい。耳をすませてみるが、俺には全くそんな音は聞こえない。
「ううう……くっ……」
ソレイユが呻きながら、何のためらいもなく片手で胸をはだけ、赤ん坊に授乳をし出した。子供はコクコクと顎を揺らせて、一生懸命母親の乳を吸っている。
「うゎあ、かわいい……」
アリリアが赤ん坊を覗き込みながらそんな声を上げる。俺もその傍に寄って見てみる。
「うわぁ……かわいいな。どことなく、俺に似ているかな?」
ソレイユの胸に隠れて、半分くらいしか見えないが、その顔は何となく、前世の俺の親父の面差しに似ていた。フッと親父ことを思い出して、思わず俺は泣きそうになった。
「リノス様に、そっくりです……」
ソレイユが額にうっすらと汗を滲ませながら、それでも笑顔で俺に話しかけてきた。俺は涙を拭いながら、彼女の背中をやさしく抱きしめた。
「……」
ふと視線を移すと、族長様が何とも言えぬ表情で、俺たちを眺めている。俺は一旦彼女から視線を外し、嬉々として赤ん坊の顔を覗き込んでいるアリリアに視線を移す。
「なあ、アリリア。この子の泣き声ってキィィィィンて音がするのか?」
「え? するよ? キーンて音だよ」
「この子の泣き声を聞くと、頭が痛くなってしまって……」
ソレイユが申し訳なさそうに口を開く。
「そうか……俺には全く聞こえないけれどな……」
「その音が、精霊たちを惑わせています。精霊が一番嫌う音です」
「何ですって!?」
族長様曰く、サイリュースには独特の音感があり、かなり細かい音まで聞き取れるらしい。その彼女たちは、赤ん坊の発する高音の泣き声が聞き取れてしまい、頭痛を引き起こすのだという。どうやら、黒板を爪で引っ掻いたときになる、あの「キィーッ」という不快な音が爆音で鳴っているように聞こえる……と説明すればいいだろうか。この音のせいで、すでに族長様が契約する精霊は、このままこの音が聞こえるのであれば、契約を解除したいと言ってきているのだそうだ。
俺は少し考えて、ソレイユが抱いている子供に向けて右手をかざす。
「……リノス様?」
「この子に結界を張った」
「え?」
「どこまでできるかはわからないけれど、高い音が聞こえないようにすればいいんだろう? ある一定の高さ以上の音を遮断する結界を張ってみた」
「リノス様……」
「泣くなソレイユ。お前は子供を、しかも男の子を生んでくれたんだ。よくやってくれた。ご苦労だったな。早くお前を休ませてやらないとな」
そう言いながら俺は、族長のヴィヴァルに向き直る。
「昔はいざ知らず、今は俺の結界があります。サイリュースたちに迷惑がかからないようにしますので、この子の命を、息子の命を奪うなどと言わないでください」
俺の言葉を聞いた族長様の目からは、再び涙が溢れ出ていた。
◆ ◆ ◆
だが、俺の結界をもってしても、子供が泣きはじめると、ヴィヴァルもソレイユも決まって頭痛を起こした。そこで俺は族長様の許可を得て、帝都の屋敷からリコを始めとする妻たちをこの里に呼び寄せて、今後の対策を話し合った。
そこで大活躍をしたのがアリリアだった。彼女はシディーと共に、サイリュースが頭痛を起こす原因を突き止めたのだ。彼女は自身が聞こえている音のイメージをシディーに伝え、それを元に彼女が俺たちにわかるように通訳してくれたのだ。
シディーの洞察力は見事の一言に尽きた。まだ語彙が少なく、ほとんど擬音に近い彼女の説明を丁寧に聴きとり、金属を鳴らして似た音を作って、俺にイメージを伝えたのだ。そのお陰もあって俺は、サイリュースたちの頭痛がかなり軽減できる結界を張ることができたのだった。
「それにしても、この子の泣き声は、何て複雑な音なのだろう。アリリア、お前はすごいな。エライエライ」
アリリアは嬉しそうな笑顔を見せながら、ソレイユの傍にベッタリとくっついている。そのソレイユには、リコとメイが頭に氷を載せたり、赤ん坊を着替えさせたりしている。
「ソレイユ、あなたはいい家に嫁いだわね」
「はい。お母さん」
数時間前とは打って変わって穏やかな表情を浮かべながら、ヴィヴァルはソレイユに話しかける。ソレイユも、満面の笑みを彼女に返している。……幸せな母娘の姿がそこにあった。
ソレイユが産んだ子供は、「セイサム」と名付けられ、数日後、マトカルが産んだ子供と共に、リノス家の一員として世間に公表された。この二人の王子には、それぞれ、数奇な運命が待ち受けているのだが、今のリノスも、マトカルも、そしてソレイユにも、知る由もなかった……。




