第三百八十五話 ダメ、ゼッタイ!
「マミー! マミー! ……マミー」
アリリアの声が小さくなっていく。その小さな体をメイが抱きしめている。やがて彼女は、母親の胸に顔をうずめて体を震わせてしまった。
その傍では、リノスが眉間に皺を寄せながら目を閉じている。先ほどからずっとソレイユに念話を飛ばし続けているのだ。だが、その返答はなく、彼は彼女に念話を送りながら、サイリュースの集落に自身の魔力を広げている。これは、ソレイユの魔力を捉えて、そこに転移しようと考えているのだが、それすらもなかなか上手くいっていなかった。
そのとき、森の中から小さな光が見えた。
それはゆっくりとリノスたちの許に向かって来る。そして突然、まぶしい光を放ったかと思うと、ドサッという、何かが落ちる音が聞こえた。
「何だ? ……誰だ……?」
彼らの目の前には、ハアハアと苦しい息遣いをしながら、肩を上下させている少女がいた。彼女はゆっくりと顔を上げて、リノスたちを眺める。
「君は……確か、イリサル? イリサルか?」
「ハア、ハア、ハア……」
彼女はリノスの問いかけに、コクコクと必死で頷く。そして、ゴクリと唾を飲みこむような素振りをして、息を整えながら口を開いた。
「ごめんなさい、遅くなって」
「どうした、一体、村の中で何が起こっているんだ? ソレイユは?」
「族長様が契約している森精霊が手ごわくて……。ソレイユ様は無事だよ。でも……」
「でも、何だ?」
「とにかく来て! 早くしないと……」
イリサルは荒い息のままクルリと踵を返したかと思うと、何やらブツブツと呪文を唱え始めた。
「すごい……歌……」
イリサルの詠唱を聞いて、アリリアが目を丸くして驚いている。どうやらアリリアにはこの詠唱が歌に聞こえるようだ。
「ぬぁぁぁぁ! また俺っを呼びゃあがるかぁ!」
一瞬、火柱が上がったかと思うと、空中にフワフワと炎を纏ったトカゲのような生き物が現れた。確かコイツは、イリサルが契約している火の精霊であるサラマンダーだ。
「すまないけれど、もう一度、穴をあけてくれ!」
「何だな! またあれをやれってのかい! こいつはどうしたものでぇす!」
「頼む! 子供の命がかかっているんだ! アンタしかこの道を開くことはできないんだ!」
「しょうがねぇな! 嬢ちゃんの頼みだ! やってやらぁ!」
そう言うとサラマンダーは、掌に乗るような小さな火の玉となって、ゆっくりと森の中を進み始めた。
「ハア、ハア、ハア、さ、付いてきて」
大きく肩を上下させながらイリサルは森の中を進んでいく。俺はメイと顔を見合わせながら、黙って彼女の後を付いて行った。
……どのくらい歩いただろうか? 少なくとも10分は歩いているような気がする。その間にも、イリサルの呼吸は荒くなるばかりで、やがて足元までもが覚束なくなってきていた。
「イリサル、大丈夫か?」
「……」
俺の問いかけに全く反応することなく、彼女は前に進んでいく。俺たちは黙ってその後姿に付いて行くしかなかった。
やがて、イリサルの足が止まった。その途端、彼女はドッとうつ伏せになって倒れた。慌てて彼女の許に駆け寄って抱き起してみたが、彼女は口を開けて気を失っていた。
「イリサル、しっかりしろ……って、あれ?」
気が付けば、俺たちはサイリュースの里に来ていた。どうやら、族長のヴィヴァルが守る森精霊の領域を抜けたようだ。
「魔力が枯渇しています。イリサルさんのことは私に任せてください。ご主人様はソレイユさんの所へ」
メイが懐から小さなビンを取り出しながら、俺にソレイユの許に行けと促してくる。その俺の手をアリリアがしっかりと掴んでいる。
「アリリア」
メイがアリリアを呼び止めて、その顔をじっと見ている。アリリアもメイの顔を見つめながら、コクリと頷いた。ほんの一瞬のことだが、母と娘でしかわからないいくつかの言葉が交わされたようだ。俺は立ち上がって、アリリアの手を引きながら族長様の住まいを目指す。
……扉を開けると、二人の女性が泣き崩れていた。
俺の目の前には、背中を向けた女性が涙を拭っている。よく見ると、その人の左手には、短剣らしきものが握られていた。そして、その奥には、一人の女性が壁に背中を付けたまま、蹲るようにして泣いていた。
「リノス様」
俺たちの気配に気が付いたのだろう。壁際にいる女性が顔を上げた。何とそれはソレイユだった。
「マミー!!」
アリリアは俺から手を離し、ソレイユの許に駆け寄ろうとしたが、すぐにその動きを止めた。俺の目の前の女性が振り返り、短剣を構えたのだ。何とそれは、ソレイユの母でもある、族長のヴィヴァルだった。
「来ないで……下さい。どうやってここへ? すぐに出ていってください」
「族長様、一体どうしたのです? 何なのですか、これは!?」
俺の問いかけに、ヴィヴァルは目を真っ赤に腫らしたまま、ゆっくりと首を振っている。
「ソレイユ、どうしたんだ! 何が起こったんだ!」
「リノス様……申し訳……申し訳ありません……」
「ソレイユ……」
「さあ、出ていってください。さもなければ……あっ!」
短剣を構えるヴィヴァルの傍を、アリリアが素早くすり抜ける。そして、ソレイユの前に立った彼女は両手を広げて、二人の間に立ちはだかる。
「ダメ! 乱暴なことはダメ! お母さんがダメって! ダメなの! ゼッタイダメなの!」
「そこをおどきなさい!」
ヴィヴァルが言葉を言い終わらないうちに、俺は彼女から短剣を取り上げていた。その瞬間、彼女はまるで空気が抜けていくように、ヘナヘナとその場に座り込んだ。
「マミー! 大丈夫? 痛いの痛いの飛んでけー」
アリリアはソレイユの体をペタペタと触りながら、痛いの痛いの飛んでけーと呟いている。メイに教えられたのだろうが、咄嗟の場面でこんなことができる我が娘が、俺には誇らしかった。
「アリリア……」
ソレイユの顔がクシャクシャになっていく。そして彼女は、さめざめと泣きだした。
ソレイユは何と、赤ん坊を抱きかかえていた。彼女の腕の中で赤ん坊は、スヤスヤと幸せそうな寝息を立てていた。何となくだが、顔立ちが俺に似ている気がする。
「生まれていたのか……」
「ええ。三日ほど前に……」
「その子は、この場で命を奪わねばなりません。離れるのです」
俺たちが赤ん坊に見入っていると、背中越しに物騒な声が聞こえる。驚いた俺たちは、声の主であるヴィヴァルに視線を向ける。彼女は泣きはらした顔を隠そうともせず、必死に気丈に振舞おうとしている。
「族長様、なぜ、この子の命を奪うのです」
「一族の掟なのです」
「掟?」
「その子は、掟に従って、命を奪わねばなりません。ですから、ソレイユ、その子を渡すのです」
ヴィヴァルはソレイユに向かって、片手をそっと差し出す。だが彼女は、赤ん坊をギュッと抱きしめたまま首を振る。その彼女の前にアリリアが立ち上がって、再び両手を広げた。
「何の掟かは知りませんが、まずは落ち着いてください」
「あ、角がない」
振り返ると、アリリアがソレイユの赤ん坊を覗き込んで声を上げている。俺も彼女の側に行って顔を確認すると、確かに、サイリュースの特徴である角が生えていない。これはどういうことだ?
「申し訳……申し訳ありません……」
ソレイユはそう言って再び赤ん坊を抱きしめ、そして涙を流して泣き出した。
「……まずは落ち着きましょう」
俺はライトの魔法を唱えて、部屋の中を明るくする。アリリアには、メイを、お母さんを呼んでくるようにと言って外に出させた。ここには何度か来たことがあるが、いつもきれいに片付いていたという印象がある。元々あまり物がない部屋だったが、今のこの部屋は、色々なものが散らかっている。二人で相当暴れたのだろう。赤ん坊の命を取られようとしていたのだ。ソレイユも必死で抵抗したのだろう。
俺の言葉に、二人はおずおずと傍にやって来た。だが、二人の距離が遠い。どちらかというと、ソレイユがヴィヴァルから再び襲われるのを警戒しているようだ。
「一体どうしたのです? 子供の命を取ろうなどと……。ソレイユに抱かれているのは、俺の子供でもあります。何をもって、子供の命を取ろうとするのです?」
俺は努めて冷静に口を開く。その声にヴィヴァルはチラリとソレイユを見たが、やがて、落ち着いた声でこれまでのことを語り始めた。
「はぁぁ!? 何じゃそりゃ!?」
俺は思わず声を上げていた。ヴィヴァルから語られた内容は、俺の予想を遥かに超えるものだった……。