第三百七十六話 お礼
「う~ん」
俺は眉間に皺を寄せながら天を仰いだ。まあ、確かにそうなんだけれどね……。ただ、それは、今、やらなきゃいけないことなのかしら?
そんなことを思いながら、頭の中を整理する。
アガルタの都にある俺の執務室。目の前には、機嫌の良さそうな表情を浮かべているメインティア王が立っていた。この王、何のアポも取らずに、突然訪れたのだ。ビックリするじゃないか……。
彼は、ノックもせず部屋に入ってくるなり、出し抜けにポセイドン王の許に行こうと言い出した。まるで、近所のコンビニにジュースでも買いに行こうと言わんばかりの気軽さでだ。
今からすぐ行こう……。目を爛爛と輝かせながらメインティア王は俺を誘う。だが、一応俺は、アガルタの王なのだ。俺は俺で仕事がある。目の前には高く積まれた書類があり、それを片っ端から片付けているのだ。それに、昼からは会議、夕方からはクノゲンらアガルタ軍の幹部との打ち合わせ、そして夜は、エリルとアリリアと一緒におままごとをやり、その後はメイを抱きしめなければならないのだ。残念ながらこの王に割く時間はないのだ。
「その顔は、時間がない……という感じだね?」
ニコニコとした表情を崩すことなく、彼は鋭く俺の心の中を読む。その言葉に俺は目を見開く。
「その通りです。しばらくは、難しいですね」
「しばらくって、どのくらいだい?」
「ええと……」
確か、明日はシディーとピアトリスを連れてニザのドワーフ王と鹿神様の許に行き、帰ってくるのは夜だ。そのままシディーを抱きしめるので、時間はない。その次の日は、サイリュースの里に行ってソレイユを見舞い、帰って来てからリコと語らい、その次の日は、マトカルを見舞うことになっている。と、なれば……。
「今年いっぱいは難しそうですね」
その答えに彼は、明らかに落胆した表情を浮かべる。
「君は、恩というものを知らないのかい?」
「どういう意味でしょう?」
「この度の戦いで、アガルタが大勝利を収めることができたのは、直接的ではないにしろ、我らが兄であるポセイドン王の力あったればこそではないのかい? クリミア―ナ教国の海を荒らして軍を抑えてもらったのではないのかい? ラファイエンス殿の命が守られたのは、兄上が彼に贈ったアイテムのお陰だったのではないのかい? その礼も言わないとは……。君は人としての心を持たないのかい?」
表情は柔和だが、言っている言葉はかなり棘がある。俺はため息をつきながら彼を見据える。
「いや、行かないとは言っていませんよ。ただ、ポセイドン王は忙しいでしょう? だからこそ、次回会うのは五年後にしようと約束したのではないのですか。いや、行きますよ。俺だって恩を忘れているわけではありませんよ。ポセイドン王の時間があるのであれば、俺はいつでも行くつもりです」
その言葉を待っていたかのように、メインティア王は大きく手を広げて、まるで俺を抱きしめるかのようなポーズを取った。
「ならば、今から行こうじゃないか! ポセイドン兄は、我々をいつでも歓迎すると言っていたからね!」
「いや……あの……先様の予定をですね……」
「問題ない」
「ポセイドン王の許に行くのにはルアラのですね……」
「問題ない」
「いや、彼女は忙しいでしょう。それに、ラファイエンス将軍は……」
「問題ない。お入りください」
その言葉を受けて、ルアラとラファイエンスが入室してきた。ラファイエンスはニコニコと笑みを浮かべているのに対して、ルアラは目が完全に死んでいる。俺はポカンと口を開けたまま、しばらく何も言うことができなかった。
結局、俺は礼を言ってすぐに帰ってくると約束して、仕方なくポセイドン王の許に向かうことにした。ルアラには無理やり有給休暇を取らせて、一日、母親の許に遊びに行けと命じたのだ。彼女の仕事は、リコに代わってもらうことにした。ルアラはイヤがったが、リコはいい気分転換になると、突然のお願いにもかかわらずヤル気満々で、嬉々として受けてくれた。そして、ルアラにやり直しはさせないと約束して、ようやく彼女は職場を離れる覚悟を決めたのだった。
三人で深い海を潜る。メインティア王の泳ぎが格段に速くなっていて、ルアラと同じくらいの速さで進んでいる。さすがにちょくちょくポセイドン王の許に通っているだけあって、泳ぎも達者になっている。かく言う俺も、最初の頃に比べれば泳ぎは格段に速くなった……はずだ。まだ、全力で泳ぐルアラにはなかなか追いつかないが。
程なくしてポセイドン王の宮殿に到着する。今回は門番に止められることなく、そのまま中に入ることができた。その上、二人はどんどん宮殿の中を歩いていく。誰の案内も請わず、まるで自分の家であるかのように扉を次々と開けて進んでいく。そして、歩くこと十数分、何度目かの扉を開けたところに、ポセイドン王はいた。
「おお兄上、ご機嫌麗しく」
そう言ってメインティア王はポセイドン王の手を握る。彼もにこやかに笑みを浮かべている。
「おお、二人も来たのだね。よく来たね。君も……よく来たね」
そう言って彼は俺たちにも笑顔を向ける。いつもながらすさまじい男前だ。彼は微笑んだまま手をひらひらと揺らす。すると、どこからともなく半魚人のような男たちが現れ、テーブルと椅子を設置する。その様子を見てルアラはスッと一礼をして、母の許に行って来ますと言って、その場を後にした。
「座り給え」
俺たちに着席を促しながら、彼は優雅に椅子に座り、足を組む。
「兄上、この度は……」
待ちきれなかったようにメインティア王が話しかけるが、ポセイドン王は、笑顔のまま手をスッと上げて彼の言葉を制して、俺とラファイエンスに視線を向けた。
「息災で、何よりだ」
「ポセイドン王様、本日は御礼に参りました。先日、お目にかかったときにいただいたアイテムのお陰で、このラファイエンス、命を長らえることができました。心から御礼申し上げます」
「我らは兄弟の契りを交わした間柄だ。その者が戦いで命を落とすなど、あってはならないことだ。貴公に渡したあのカンスライワの箱は、大切に持っておくといい。邪悪なる者から、貴公の命を、今後も守ってくれるだろう」
「ハハッ! ありがとうございます。このラファイエンス、感謝の言葉もございません」
恭しく頭を下げる老将軍の様子を、ポセイドン王は満足そうに頷いている。
「さて……我ら兄弟がこうして顔を揃えることができた。また何か、面白い話を聞かせておくれ」
ポセイドン王が甘い、優しい言葉で話しかけてくる。それに待っていましたとばかりに、メインティア王が身を乗り出して話しだす。
「今回は、私の十八人目の妻との馴れ初めをお話致しましょう」
「いや、今回は趣向を変えたいんだ」
「趣向を変えると言われますと?」
メインティア王がせかせかと体を動かしている。ポセイドン王から振られるであろうお題が気になって仕方がないらしい。その様子を、穏やかな表情を浮かべながら、俺たち一人一人に視線を向けながら、彼はゆっくりと口を開く。
「今回は、失恋の話を聞きたいね。私の心が締め付けられるような、甘くせつない話を」
「し……失恋……ですか……」
メインティア王が目を見開きながら、ゆっくりと首を振っている。兄さん、そのネタは予想していませんでしたわ~といった心境だろうか。彼は目を閉じて天を仰ぎながら、ウムムと唸っている。まあ、興味のある女性を見つければ、すぐに部屋に連れ込んでいた人だから、失恋の経験はないのかもしれない。その隣ではラファイエンスが、口髭を撫でながら物思いにふけっている。
……沈黙してしまった。二人とも何故、話をしないのだろうか。そんなことを思っていると、ふと、ポセイドン王と目が合った。彼は柔和な笑みを浮かべながら俺から全く視線を外そうとはしない。あれ? ……俺? 俺の失恋話!? いやいや、だから、恋愛経験が少ないんだって! いや、あるよ? 一方的に女子に嫌われた……みたいな話でよければ。でも、そんな話を求めてはいないでしょ? そんな、甘く切ない失恋話なんて、俺は持ち合わせていないんだよ!
俺は助けを求めるように、隣のラファイエンスに視線を向ける……って、こっち見ろよ。失恋話のいくつかはあるだろう!? それを一発、ブチかましてくれればいいんですよ!
「やはり、ここは、アガルタ王だね」
不意にメインティア王が口を開く。マジでテメェは黙っていろよ。
「うむ。こうした趣のある話は、我が王ですな。すまぬが、よろしく頼みたい」
……将軍? 将軍!? いや、頭下げてないで……。ちょっと待ってくださいよ。いや、マジで勘弁して!
うろたえる俺。だが、ポセイドン王は静かに、ゆっくりと頷いている。何でだ? 何でこうなるんだ!? ポセイドン王の部屋に、再び沈黙が訪れた……。