第三百五十八話 非常識
「……一体何をやっているのだ?」
「……さあ。……まるで、何かに取りつかれているようだ」
「どうする?」
「どうするも何も、あるがままのことを、我が国王陛下に伝えるだけだ」
そんな会話を交わしているのは、タナ軍の斥候部隊に所属する二人だ。彼らは物陰に隠れながらカコナ川の対岸に陣を張るアガルタ軍の動きを見張り続けていた。その目に移る敵は、およそ戦いの最中とは思えない、あまりにも現実離れした光景に、彼らは息を呑んで見守り続けるのだった。
「……大儀であった」
斥候からの報告を聞いたタナ国王ヴィルは、険しい表情を崩すことなく、ゆっくりと息を吐いた。アガルタ軍は一体何をやろうとしているのか? そんな思いが湧き上がってくる。
放っていた斥候からの報告では、アガルタ軍は防御はそっちのけで、ひたすらに穴を掘り続けているのだと言う。この報告を最初聞いたときは、ヴィルは耳を疑った。だが、次々と戻ってくる斥候は口を揃えて、アガルタ軍は総出で穴を掘っていると報告してくるのだ。その一方で、ラマロン軍、ヴィエイユが率いる賊軍、サンダンジ軍は未だ厳重な警戒態勢を取り続けている。敵の狙いが全く読めない……。ヴィルの人生の中で、こんなことは今までなかったことだった。
そんな中でも彼は考えを巡らせる。当初は、穴を掘っているのは、堀を拵えているのではないかと解釈したこともあった。穴の中に川の水を曳けば、即席であるとはいえ、出城にはなる。そこで防御を固めて我が軍と対峙しようとしているのではないか……。だが、そんなことをしたところで、何の意味もなさないことは明らかだった。籠城したところでまず、問題となるのは食料だ。約十万近い兵士たちの腹をどう満たすのか? 彼らも食料はある程度は用意しているだろうが、数ヶ月も居座れる程は持って来ていないだろう。対してタナ軍は、サンダンジの都を陥落させることを目的としているため、食糧は豊富に用意してきていた。その点から考えても、カコナ川に砦を築く意味は全くなく、アガルタ軍が全軍で取りつかれたように穴を掘る理由がわからなかった。
「何をしようとしているのかは知らぬが、まあよい。この戦、先に動いた方が負けじゃ。というより、我が軍から先に動くことはない。もうすぐ、敵は食料が尽きる頃であろう。そのときに奴らがどう動くかじゃ。見張りを怠るな。それに……アガルタ軍が掘っている穴についても、できうる限り調べよ」
彼は厳しい表情のまま、部下たちに命じるのだった。
「あとどのくらい掘ればいいんだ?」
「そうだな……結構な数を掘っているな。もうこのくらいでいいでしょうか、クノゲン様?」
「うーん。そうだな、取りあえずこのくらいにしておこうか。あとは皆で手分けして埋めていこう」
「承知しました」
そんな、一見すると悠長に見える会話がアガルタ軍の本陣近くで行われていた。彼らは、クノゲンの指示のもと、土の場所に数千に及ぶ穴を掘っていた。そして今、彼らは穴を掘るのを止めて、ゆっくりと歩き出していた。
「……そうか。では、よろしく頼む」
昇り切った太陽を眩しそうに眺めながら、リノスは兵士たちに向けて口を開いていた。その間にも、彼の肩には小さなドラゴンが現れては消え、を繰り返していた。兵士たちは、そんな光景に驚くことなく、ただその様子をチラリと見ただけで、黙々と次の作業に移っていった。
それからしばらくして、アガルタ軍に掘った夥しい穴には、この戦いで命を落とした兵士たちの亡骸が、横たわっていた。アガルタ、クリミアーナ、ラマロン……。それだけではなく、タナ側の兵士たちも、彼らと同じように丁寧に埋葬されていた。
医療テントでは未だ、重傷者への懸命な治療が行われている。にもかかわらずリノスは、戦いの次の日にこの埋葬を実行した。その命令を聞いた家来たちは一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、やがて一礼をして彼の許から方々に散っていった。彼の命令は、明日の朝から兵士たちの亡骸を埋葬するから、手の空いている者は、穴を掘るのを手伝ってほしいというものだったのだが、それは瞬く間に全軍に知れ渡り、予想外の人数がそれに参加するために、リノスの許に集まったのだった。
「私たちは何もしていませんからな。せめてこんな形でよければ、働かせて下さい」
真っ先に駆け付けてきたのは、クノゲンだった。彼は我先に穴を掘る係を買って出て、部下たちもそれに続いた。
さらには、その話を聞きつけたラマロン軍とヴィエイユ軍、果てはサンダンジ軍からも、数百人が志願してきた。そして、全軍はそれが終わるまで、タナ軍が攻めてくればいつでも迎撃できるよう臨戦体制を取り続けたのだった。
そして今、リノスは目の前に掘られた夥しい墓穴の前に立っている。その隣にはメイの姿もあった。彼女は両手を自分の胸の前に組み、まるで何かに祈るような姿勢で、眼前に広がる巨大な墓を眺めていた。
「すまぬ。遅くなった」
そう言ってリノスの隣にやって来たのは、サンダンジ国王のニケだ。彼はリノスとメイに視線を向け、スッと目礼をした後、彼らと同様に眼前の墓に視線を向けた。
「……一体、どのくらいの人数になるのか」
「……およそ五千になります」
「五千……。そのうちの大半が、アガルタ軍、というところか……」
ニケの言葉にリノスは何も答えなかった。確かに、死傷者の数で言えばアガルタ軍が群を抜いて多く、死者の数は約三千に上っていた。彼は何とも言えぬ表情を浮かべながら、ただ静かに佇んでいた。
「遅くなりました」
「……おお、お揃いか」
ちょうど同じタイミングで声をかけてきたのは、ラマロン軍のカリエス将軍とヴィエイユだった。その二人に対しても、ニケは静かな声で改めて礼を述べた。
「この度は、我が国のことで貴国らにも迷惑をかけた。ご加勢、感謝する」
「いいやニケ王様、気にされることはない。戦いに死はつきもの。我ら軍人は戦場において死すもの。死んだ者たちも、本望でありましょう」
「その通りですわ、ニケ王様。我が軍も死傷者は多くございますが、皆喜んで天に召されております。お気遣いは無用です。それに……」
ヴィエイユは薄い笑いを浮かべながら、目の前に広がる巨大な墓に視線を向ける。
「このように丁重に葬られるのです。これだけでも破格の待遇というものです。本来は、戦場に屍を晒し、鳥や魔物たちに肉を食われ、装備品は盗賊や旅人たちに奪われるのです。戦場で埋葬されるなど、しかも、敵軍の兵士まで埋葬されるなど、古今聞いたことがございません。それだけでも、ここで死した者たちは価値があるというものです」
その言葉に、ニケとカリエスが顔を見合わせながら苦笑いを浮かべる。
「そろそろ、始めましょうか……」
リノスの言葉に、三人はゆっくりと彼の隣に並ぶ。そして、それと同時に、リノスはスッと手を挙げる。すると、それが合図であったかのように、掘られた墓穴に土がかけられていった。
……不意にメイが手を前で組んだまま、ゆっくりと膝を折り、正座をするような体勢を取った。そして彼女は俯きながらボソボソと何かを呟き始めた。
「次は……幸せに、生まれ変わりますよう……」
その声を聞きながらリノスはゆっくりと兜を脱ぎ、片膝をついて頭を下げた。それとほぼ同時に、周囲に控えていた兵士も、兜を脱ぎ、騎乗している者は馬から降りて、全員がリノスと同じポーズを取った。それに倣うように、カリエスもニケも、リノスと同じような体勢を取った。一方、ヴィエイユは一人その場に立ち尽くしていたが、やがて彼女も、彼らと同じようなポーズを取った。
その姿は実に美しいものだった。彼らは埋葬が終了するまで、その姿勢を崩すことはなかった……。