第三百五十七話 夕闇の作戦会議
サンダンジ王国を流れるカコナ川の上流にあるスワンプでは、数万に及ぶタナ軍の兵士たちが、オアシスから湧き出る豊富な水でのどの渇きを潤しながら、戦闘の疲れを癒そうとしていた。砂漠の水平線に太陽が沈もうとしており、その雄大な景色は、しばしの間、戦いの残酷さを忘れさせてくれる。だが、その本陣では、国王のヴィルが険しい表情を浮かべたまま、居並ぶ幕僚たちを睨みつけていた。
「お味方の損失ですが、2471名の行方がわかっておりません」
兵士の一人が直立不動でヴィルに報告する。それを受けて、幕僚の一人が早口でまくし立てる。
「わずか2500の損失とは、何とも優秀ではございませんか! 2500といえば、アガルタ軍の兵士たちもそのくらいの損失を与えておりましょう。ラマロン軍や賊軍にもそれなりの被害を与えておりますれば、此度の戦は、我らの大勝と言って差支えありますまい!」
そう言って彼は、他の幕僚たちに視線を向け、同意を求める。だが、皇帝ヴィルは、その幕僚の意見に納得しなかった。
「その数は、真の数か?」
「はっ……」
突然皇帝から意見を求められた兵士は固まっている。ヴィルは、しばらく報告を行った兵士を睨みつけていたが、やがて、先程、口を開いた幕僚に視線を向ける。
「レジデント」
「はっ」
「貴様、先程、わが軍の大勝利と申したな? 何を持って大勝利と言うのか?」
「はっ……それは……。味方の損害と、敵の損害……」
「そんなことはどうでもよい」
言葉を遮られたレジデントは、ハッと言って頭を下げる。
「大勝利と言うのは、敵将を討ち取った、もしくは捕らえたときのことを言うのだ。今日の戦で、アガルタ王・リノス、大魔王殺しのカリエス、裏切り者のヴィエイユ。この三人のうちの一人でも討ち取ったものがおるのか? 生け捕りにした者はおるのか? ならば、その身柄か首を持って来るがいい。余が自ら見分してくれる。さあ、どうじゃ?」
ヴィルの言葉に反論する者は一人もいない。不気味なほどの静寂が、彼の周囲を包んでいる。
「しかし陛下……」
「何じゃ?」
「我らは、アガルタ軍最高司令官である、名将・ラファイエンスを討ち取っております。指揮官を失ったアガルタは最早、翼を奪われた鳥と同じでございます」
食い下がってくる幕僚に、ヴィルは一瞥をくれてすぐ、大きなため息をつく。
「その扇の要を討ったにもかかわらず、我らは攻めきれなかった。それどころか、逆に逆賊どもに攻め込まれ、退却を余儀なくされておるのだ。これのどこが大勝利と言えるのか?」
再び、ヴィルの周囲に沈黙が訪れる。彼は居並ぶ幕僚一人一人に視線を向けながら、さらに言葉を続ける。
「よいか。戦においてあるのは、勝つか、負けるかしかない。我らに負けは許されぬ。勝つのじゃ。勝つのじゃ。此度の戦は、サンダンジの都を占領することが一番の目的じゃ。それが叶わぬのであればせめて、敵将の首を挙げることじゃ。ニケ、リノス、カリエス、ヴィエイユ……いずれかの首を挙げねば、勝利とは言えぬ。皆、甘い考えは捨てよ。決死の覚悟で、勝利を掴み取るのじゃ、よいな?」
ヴィルのその言葉に、幕僚たちは静かに頭を下げた。
一方、リノスたちの方でも、軍議が開かれていた。
「……」
「……ニケさん、もういいですよ」
リノスたちの前で頭を下げているのは、サンダンジ国王のニケだった。すでに夕闇が辺りを暗くしていたため、部屋の中はランプの灯がともっている。その薄明かりに照らされるニケの最敬礼の姿勢は、リノスたちの心を戸惑わせた。
「すまぬ……。援軍を出してもらっておきながら、その我らが足を引っ張るとは……。これも全て、私の不徳の致すところ……。本当に、申し訳なかった……」
「頭を上げてください、ニケさん。いいのです。被害はそこまで深刻ではありませんから」
「アガルタ王の言われる通りだ。我らラマロンも、被害は軽微だ。それよりも、予想以上の速さで戦場に到着してくれた。あと少し、到着が遅れていれば、アガルタ軍はもとより、我らラマロン軍も危なかった。このカリエス、感謝申しますぞ」
「いや……。もっと早くに着陣せねばならなかったのだ。本来は、夜が明ける前に着陣せねばならないところを、兵の回収に手間取った……。着陣が昼前となっては、最早、何の言い訳も出来ぬ。さりとて、今の私にはこうして貴公らに詫びを言うしかない。すまなかった、この通りだ……」
必死でニケは謝っているが、その後ろに控えた、ニケによく似た若者がぶ然とした表情で立ち尽くしているのが、実に気になる。おそらく、ニケの息子なのだろうが、何故か、片目が大きく腫れている。
「……シン、お前からも皆さまに詫びぬか。お前の愚かな諫言によって、我らは遅参したのだ。あと一時、我らの到着が遅れれば、アガルタ軍以下の援軍は壊滅し、我らは窮地に追い込まれていたかもしれぬのだ。己が振舞いを、ここに居並ぶ方々に対して、詫びよ」
「お言葉ですが父上、敵の腹の内は未だ読めておりません。もし、賽の目が逆に出て、敵方が和平をねがっているとしたならば、それでも私は詫びねばなりませんか?」
「シン! 貴様あれほど!」
「ニケさん、そこまで!」
俺は思わずニケを止めた。彼に手が剣の柄にかかっていたからだ。放っておけば、この場で彼はこの若者を斬る可能性があった。
「サンダンジ王様にお尋ねいたします。そちらのおいでのお方は、ご子息様でしょうか?」
突然ヴィエイユが口を開く。ニケは一瞬、戸惑った表情を浮かべたが、すぐに落ち着きを取り戻して、彼女に応対する。
「いかにも。これは我が嫡子にして、サンダンジ国の王太子である、シン・サンダンジだ」
父親に紹介されたシンは、表情を変えないまま、胸に手を当てて一礼をして、形式通りの挨拶を返す。
「左様でございますか。私は、クリミアーナ教国教皇の孫であります、ジュヴァンセル・ヴィエイユと申します。サンダンジ王様、こちらのシン様は、ゆくゆくはサンダンジ国をお継ぎ遊ばすのでございますか?」
「ああ、今のところは、そのつもりだ」
「ならば、我らは撤退いたします」
突然のヴィエイユの言葉に、俺たちは驚く。だが、そんな俺たちに向けてヴィエイユはさらに言葉を続ける。
「このシン様がサンダンジ国を継がれるのであれば、この国は遅かれ早かれ亡ぶ運命にあります。そのような未来のない国に手を貸すことは、無駄以外の何物でもありません。タナ軍の動きを見れば、これまでの戦いを見れば、和平などを求めていないことは一目瞭然ではありませんか。にもかかわらず、そのようなことを口になさり、あまつさえ、サンダンジ軍の足枷となっている……。そのような方に手を貸すのは、無駄なことです。我らの敬虔な信徒に命をかけさせることはできません。従いまして、我らは撤退いたします」
「ヴィエイユ、言葉を慎め」
「いや、アガルタ王。ヴィエイユ殿の申す通りだ。我が息子シンはまだ若い。加えて、優しすぎる嫌いがある。この優しさは乱世においては危険であることは、私も重々に承知している。だが、これから先、世が治まる中でのシンの優しさは役立つと思うのだ。この度の不始末は、この私が取らせたいと思う。それ故、どうか、我が国をお救いいただきたい」
ニケの言葉にヴィエイユはまだ何かを言いたそうな表情を浮かべていたが、俺はスッと手を挙げて彼女を止めた。そして、ニケの後ろで顔を真っ赤にしながら屈辱に耐えているシンに向かって声をかけた。
「俺も、タナ軍が和平を求めていると信じたい。君が考えているような展開になれば、とても素敵なことだと思う。今後は、父上の側にいて、君の考えが正しかったかどうかを確認してみてはどうかな?」
俺の言葉に、シンはゆっくりと一礼をして、部屋を出ていった。俺は笑みを浮かべながら、残った皆に視線を向ける。
「さて、軍議に入りましょうか。今日の戦いは、正直言って俺たちの負けでしょう。明日から仕切り直しです。敵はスワンプに退き上げたことで、動くに動けない状態になりました。この状態が続けば、自ずとタナ軍は自落します」
「待て、アガルタ王。敵は軍勢を転移する能力を持っているのだろう? で、あれば……」
「いえ。その能力を持っている者は、もうこの世にはおりません。詳しくは言えませんが、確かな情報です」
「ということは……」
「ええ。正面のアガルタ軍を突けば、ラマロン、ヴィエイユ、サンダンジ軍の三方から攻撃されます。アガルタ以外の軍を突いても、同じように三方から攻撃を食らうことになります」
「なるほど。我らの食料は十分にある……我慢比べだな!」
「そうですね。カリエス将軍の言われる通りかもしれません。ただ、敵はどんな作戦を弄してくるのかわかりませんから、引き続き監視を緩めないようにしましょう」
「……わかった。いつでも出撃できるように、準備をしておくことにしよう」
その後、俺たちは夜が更けるまで、タナ軍の動きをシミュレーションしながら、今後の作戦を考えたのだった……。