第三百五十二話 敗北
「なっ! ぐっ! ……何だ!」
突然ヘイズの声が上がる。彼は戸惑った表情を浮かべながら、体を左右に動かそうとするが、その体はピクリとも動かない。
目の前にいる女神は、目を閉じて美しい顔を背けたままだ。ようやく思いを遂げることができた。これからお楽しみの時間なのに、その体が動かない。彼の欲望の塊が、ガッチリと固定された状態になっているようだ。
「……間に合った。よかった」
突然、男の声が耳に入る。驚いたヘイズは声のする方向に、必死に目を動かす。するとそこには、アガルタ王・リノスの姿があった。
「なっ……なぜ⁉ 何故貴様が……」
思わず彼は胸の下にいるはずのリコレットに視線を移す。だが、そこには彼女の姿はなかった。慌ててその姿を探すと、何と彼女はリノスの足元で足を投げ出して座っていた。破れた服でその胸を必死で隠しながら、ハアハアと肩で息をしている。
「いっ……いつの間に……。僕の物になったはずじゃなかったのか! 何だ、これは……」
ヘイズは必死で体を動かそうとしている。時おり、その体がぼんやりと光っていて、何かの魔法を使っている様子がうかがえるが、その効果が表れている様子はなく、何をどうやっても、彼の体は動かない。
「何をした! この僕に、何をしたんだ!」
憎しみを込めた凄まじいその表情に、リコは恐れおののいているが、リノスは平然とした表情を浮かべている。
「ミーク! ミーク! ミーク!」
彼は必死でミークの名を呼ぶが、返答はない。つい先ほどまで、自分とリコレットの逢瀬を見物していたのだ。すぐ近くにいるはずなのだ。
「あの、エルフの姫なら、眠ってもらっている」
不意にリノスの声が聞こえた。彼は再び憎しみを込めた目で、仇敵ともいえる男の顔を凝視する。
「危なかったな。あと少し遅れていたら、俺はまた、大魔王になっていたかもしれん」
そう言ってリノスは片膝をついて、右手でリコレットの肩を抱いた。彼女はそれを待っていたかのように、夫の胸に顔をうずめた。
「リノス……リノス……」
「ああ、怖かったね。怖かったね、リコ。もう、大丈夫だからな」
「ううう……リノス……」
これまでの緊張と恐怖から解放されたためなのか、リコはリノスの胸の中でさめざめと泣いた。その肩をリノスはやさしく撫で続けた。
リコが落ち着くのを待って俺は、ゆっくりとヘイズに声をかける。
「さて、妖狐・ヘイズ。あまり時間もない。お前をこれから、おひいさまの許に連れて行く」
「……」
相変わらずものすごい形相でヤツは俺を睨みつけてくる。
「まず、僕の質問に答えろ! 一体、僕に何をした!」
「簡単だ。結界を張ったのだ」
「結界? バカな! 僕に結界を張るなどできるはずは……」
「あの戦場で魔法が使えないようにしていたのに……ってか? 影響がなかったと言えば嘘になるが、俺の魔力を完全に封じることはできなかったな。それに、お前、自分の姿を見て見ろ。フルチンだろうが」
彼はその言葉に、ハッとした表情を浮かべる。そして、オロオロと四つん這いの状態のまま、目を激しく動かしている。
「一か八かだったんだがな。お前が全裸でいたから、直感的にいけるんじゃないかと踏んで結界を張ってみたが、上手くいったな。戦場では苦労したが、ここでは問題なく魔法が使えた。お蔭で、結界師として、最高傑作のものが張れた」
俺は無表情のまま、大きく頷く。自分でも恐ろしく思うほどに、頭の中は冷静だった。それどころか、この妖狐の一挙手一投足を丁寧に観察しようとしているのだ。
今のヘイズは、何のアイテムも持っていない状態だ。それなりに魔力も高く、使える魔法も多いが、今、ヤツに張っている結界はLV5だ。その体にピタリと合うように仕上げているので、身動きすることすらできないはずだ。この結界を破れるのは、魔吸石かプリルの石ぐらいのものだ。しかも、魔吸石を使うと、結界が消えた瞬間にヘイズの魔力も吸い取られる。俺はゆっくりとリコから体を離し、彼のベッドに向かう。そして、その傍に二本の杖が乱雑に置かれているのを見つけた。
「道具ってのは、大切に使わないとな。いざっていうときに、道具に見放されるんだよ」
「……くっ、それは、僕のだ! 触るなっ!」
ヘイズは絶叫しているが、俺はそれを完全に無視して、二本の杖を無限収納の中に入れた。その瞬間、ヘイズは大声で叫び声を上げた。
「ぬぅあぁぁぁぁぁ!! どうして! 僕の計画は完璧だった! なのに、何故、貴様がぁぁぁ! どうやってここに来たぁ!」
まるで狂ったように叫ぶヘイズ。俺はあまりのことに絶句してしまい、言葉を失う。彼はゼイゼイと激しい息遣いをしながら、俺を睨みつけている。
「話は簡単だ。リコの魔力を辿ってきたんだよ」
「何だと?」
「ポーセハイの転移術をヒントにしたんだ。これも咄嗟のことだったんだけれどもな。リコの行方が分からなかったから、その魔力を探したんだ。ちょっと苦労したが、ほんのわずかだが、リコの魔力を感じることができた。そこに転移したら、ここに着いたというわけだ。お前が全裸になってリコを襲う寸前のところだったから、危なかった。お前に結界を張ると同時にリコにも結界を張って、すぐ俺の側に転移させた。あ、ちなみに、お前がモノにしたと思っていたのは、俺が見せた幻影だ」
ヘイズは俺に向けている眼をリコに向けた。彼女は一瞬、ビクッと体を震わせたが、やがて俺に視線を向け、大きく頷いた。俺はリコの側に行って再び膝をつき、彼女の肩を優しく抱いた。
「ずっと……ずっと、心の中でリノスの名前を呼んでいましたの……。ゼザが……ゼザが歌を歌っている間に……必死に……」
「ああ、きっと無意識のうちに念話を飛ばしていたんだな。大丈夫、それはちゃんと届いたよ。戦場でリコの声を聞いたんだ。慌てて屋敷に転移したら、エリルがいてな。ママが行ってしまったと言って泣いていた。あの子を鑑定して見たら、リコとマトが出ていく記憶が見えてな。その瞬間、リコの魔力を必死で探ったんだ」
「リノス……」
リコがものすごい力で、俺の腕に絡みついてくる。
「ふっ、ふざけるな……」
ヘイズが顔を歪ませながら呟いている。
「リコレットの魔力を辿っただと? あり得ない……この結界に守られたこの地で、彼女の魔力が外に漏れるなど……。たとえそうであったとしても、世界の果てにいるお前などに、そんな微弱な魔力が捕らえられてたまるか……」
「もちろん、苦労はしたさ。何てったって、この世界のすべてに俺の魔力を行き渡らせたんだ。お蔭で膨大な魔力を消費してしまったよ。だが、その魔力も、もう回復した」
俺はスッと鎧に触れる。メイとシディーたちが心血を注いだだけあって、実に優秀な鎧だ。
ヘイズは俺の言葉が信じられないらしい。呆然とした表情で、喘ぐように口を開く。
「世界すべてに魔力を……? 貴様いったい……」
「俺のことはどうでもいい。ヘイズよ、お前はこれから一緒に来てもらうぞ? その一糸まとわぬ姿で、おひいさまの前に出るといい」
「リノス、待って」
突然リコが話しかけてきた。俺は驚きながら、彼女の表情を見る。リコは胸を押さえながら、ゆっくりと立ち上がって、ヘイズの顔をじっと見つめる。
「あなたに、一つ、聞きたいことがあるのですわ」
その言葉に、ヘイズは赤く濁った眼をリコに向ける。
「サツキさんのことは、サツキさんのことは、どう思っていらしたの?」
リコの質問が、全く予想していなかったのか、彼はキョトンとした表情を浮かべたかと思うと、プッと噴き出し、呆れたような口調で返答した。
「サツキ? どうでもいい、あんな女は。僕はリコレット、お前だけが……」
「お黙りなさいっ!」
リコの絶叫が部屋の中に響き渡る。さすがのヘイズも、目を見開いて驚いている。
「何と言うことを……。サツキさんは、命をかけてあなたを愛していたのですわ。それを、どうでもいいなんて……。あなたのために、命まで投げだした人を……」
「女は……女はバカだからね。サツキはその中でも特別にバカだった。物覚えの悪い女で、僕を一度も満足させることができなかったんだ。そんなヤツが少しとはいえ、僕の役に立ったんだ。喜ぶべきだろう? それに、バカ女の一人や二人がいなくなったところで、世界は痛くも痒くもないだろう」
「ゆっ……許せない……」
「リコ、そこまでだ」
「リノス!」
「リコがこれ以上、ヤツに怒りを向けるべきではない。時間の無駄だ。それよりもリコには、やるべきことがある」
「でもッ……」
「エリルが、屋敷で待っている。リコの帰りを庭に出たままずっと、待ち続けているんだ。早く帰ってやってくれ。それにマトのことも……」
「それでもリノス、この男だけは許せませんわ! 何としても……!」
俺は無言でリコを抱きしめた。彼女の肩が上下している。どのくらいの時間、俺はリコを抱きしめていただろうか。実際はそんなに長い時間ではなかったと思うが、俺は彼女の呼吸が落ち着くまで抱き締め続けた。そして俺は、ゆっくりと彼女から体を離す。
「わかるな、リコ?」
リコは俺の目をじっと見つめながら、ゆっくりと頷いた。
俺はリコの目を見つめ続けたまま、無言で彼女を帝都の屋敷に転移させた。リコはその姿が消える最後の最後まで俺から目を離さなかった。
リコの姿が消えたことを確認した俺は、再びヘイズの許に近づいて、落ち着いた声でヤツに話しかけた。
「さて、妖狐・ヘイズ。お前をおひいさまに引き渡そうと思ったが、どうやらお前は芯から腐っているようだな。お前には、キツイお仕置きが必要のようだ」
「お仕置き? やってみるがいい! 望むところだ!」
その言葉に、俺はゆっくりと立ち上がった……。




