第三百五十一話 一念通天
「ちっ……近づかないで……」
リコはゆっくりと後ずさりをしていたが、やがて背中に城壁が当たり、退路を断たれてしまった。それを見たヘイズはニヤリとした笑みを浮かべながら、ラトギスの杖を振るう。
「……うん?」
リコを転移させようとしたものの、彼女の姿は残ったままだ。彼は訝りながら彼女の様子を窺う。
「い……いやっ!」
ヘイズは素早くリコに近づき、彼女が胸の前で合わせている手を取った。すると、左手の薬指にキラリと光る指輪が嵌められていることに気が付いた。
「これは……プリルの石か? へぇ、考えたね。さすがはアガルタ王だね。だが、僕には無意味だ」
「やっ……」
彼は左腕をリコの体に廻して抱きしめる。そして、鼻をその頭に近づけて、思いっきり吸い込んだ。
「……いい香りだ。この香りも、今日から僕のものだ」
そう言って彼は、右手に持っている杖を振るう。
リコは心の中でもう一度夫の名を呼ぼうとした。だが、願いも空しく、彼女の姿はヘイズと共にその場から消え失せた。
◆ ◆ ◆
……ノス……リノス。
「うん?」
俺に耳に一瞬、リコの声が聞こえた気がした。その瞬間、俺は隣に控えているイッカクに視線を向けた。
「しばらく留守にする。兵たちが深追いするようなら、退却命令を出せ。……あそこの森から先は兵を進めるな。逆に、タナ軍が盛り返してきて、カコナ川を越えてくるようであれば、速やかに陣をクノゲンの所まで退却させろ」
俺は早口で彼にまくしたてる。イッカクはその様子に、目を見開いて驚いている。
「……我に将器なし」
「別に指揮を執れと言っているわけじゃない。タナ軍を退却させた声色師がいるだろう。俺の声色は真似られないか?」
「……可能」
「頼むぞ。すぐに戻る」
そう言って俺は、背格好がよく似ている伝令の一人を呼び、被っている兜を脱いだ。
「いかがなさいました?」
「この兜をかぶって、イリモに乗ってくれ」
「は?」
「大将がいるといないでは、兵士の士気にかかわるだろう。嘘でも俺がいると思わせた方がいいんだ。説明している暇はない。早くしてくれ」
戸惑う兵士に無理やり兜を預けてそれを被らせる。そして俺はイリモから降り、彼女に声をかける。
「イリモ、頼むな」
彼女はわかりましたと嘶く。
「さ、乗れ。早く」
恐る恐るイリモに跨る兵士の様子を見ながら、俺は背中のマントを取り外して、それをすっぽりと頭からかぶる。その瞬間に、俺は転移結界を発動させて、戦場を後にしていた。
「……」
帝都の屋敷では、エリルが一人、母親が向かった転移結界の方向をじっと見据えていた。屋敷に入るよう優しく促すペーリスやゴン、そして妹のアリリアの言葉も聞かず、ただただ、転移結界の方向を見つめ続けた。
……もうすぐママが帰ってくる。……もうすぐママが帰ってくる。
彼女は祈るような気持ちで母親の帰りを待ち続けていた。もし、自分が屋敷に入ってしまったら、二度とママに会えない……そんな気がしていたのだ。
その願いが天に通じたのか、彼女の目の前に、思ってもみない人物が現れた。
「おとうさん! おとうさん!」
彼女の目の前に現れたのは、父であるリノスだった。彼女は全力で父の許に走り、その胸に飛び込む。
「ママが……ママが……」
「ママがどうした!?」
「行っちゃった……行っちゃいました……」
彼女の目から再び涙が次々に溢れ出してくる。彼女は必死で父に訴えかけているが、パニックに陥っているのか、涙声のためなのか、その話には要領を得ない。
「エリル……」
リノスは優しい眼差しを浮かべて、彼女の頭に手を置き、静かに目を閉じた。一瞬の間だったが、二人の間に静寂な空気が流れる。
「エリル……」
父は再び彼女の名前を呼びながら、ゆっくりと目を開けた。そして、いつもの優しい表情を浮かべながら、彼女の頭を撫でた。
「お前は優しい子だな。偉い。偉いぞ、さすがはお姉ちゃんだ」
「うっ……うっ……うっ……おとうさぁぁぁん」
堪えていたものが爆発したように、エリルは号泣する。そんな彼女の頭をやさしく撫でながら、父親は声をかけた。
「じゃあエリル。とうたんは、ママを迎えに行ってくる。お留守番をお願いしても、いいかな?」
「うっ……うん」
しゃくり上げながらエリルは返事を返す。それを見たリノスは、満面の笑みを浮かべて頷いた。そして、これまで見たこともないような厳しい表情を見せたかと思うと、目を閉じてゆっくりと息を吐き出した。
「ふっ……ふぅぅぅぅ」
父の体が震えている。小刻みだが、地面が揺れている気がする。エリルはこれまで見たこともないような父の雰囲気に息を呑んだ。
一体、どのくらいの時間が経ったのか。実際は短い時間だったが、二人の間に静寂が訪れる。
「……捉えた」
リノスが小さく呟いた瞬間、その姿は消え失せていた。エリルは誰も居なくなった庭を見つめながら、両手を握り締め、父と母が帰ってくるまでここで待とうと決意するのだった。
……幼い彼女の瞳から、再び涙が溢れだした。
同じ頃、リコはベッドの上に放り投げられていた。
「キャッ!」
小さな叫び声を上げると同時に、彼女の体の上に、何かが覆いかぶさってきた。言うまでもなくそれは妖狐・ヘイズだった。彼はすでに上着を脱いだ状態で、まぶしいくらいの白い肌を晒している。彼はリコの体に馬乗りになる形で覆いかぶさり、彼女の服に手をかけて、無造作にそれを破いて剥ぎ取ろうとする。
「イヤッ! イヤッ!」
必死の叫び声を上げながら、リコは手で自分の胸を隠す。かなり丈夫な生地を使って作られたドレスだが、ヘイズはそれをものともせずに引き裂いて、上半身の服が開けられた状態になってしまっていた。
これ以上は何としても……。リコがそう考えたとき、彼女の耳に、まるで狂ったかのような女性の笑い声が聞こえてきた。
「キャヤハハハー。ヘイズぅ、そうやって乱暴にするのは、久しぶりじゃな。妾のときみたいじゃ」
「うるさい! ミーク、お前は外に出ていろ!」
「よいではないか。お前が心を奪われた女を、ようやく手に入れるのじゃ。妾も見たいぞよ」
「勝手にしろ」
ヘイズは左手を彼女の頭に手を廻し、余った右手で、リコのスカートの中に乱暴に手を入れて、その下着を剥ぎ取ろうとした。
「くっ……」
ヘイズが思わず声を上げる。何とリコがヘイズの腕に噛みついていたのだ。その様子を、ミークも驚きの表情で眺めている。
「はあ、はあ、はあ……」
しばらくすると、リコの荒い声が部屋の中に響き渡る。その様子を見ながらヘイズは、一切の感情を感じさせない声で、リコに声をかける。
「どうした? もっと噛めよ」
「……お願い。主人の、主人の許に帰して」
「そいつは、できないね」
彼は赤い筋隈を浮かべたまま、不気味な笑みを浮かべる。
「君の気が済むまで噛んで構わないよ。何なら、引っ掻いても構わない。殴っても構わないよ。ただし、君は僕のものにする。僕だけの女にする。イヤなら、いくら噛んでも、構わない。……どうだい? もっと噛むかい?」
リコは肩を激しく動かしながら、力なく首を振る。彼女はじっとヘイズの目を見つめていたが、やがて視線を逸らし、そのまま顔を背けた。
「聞き分けて、くれたみたいだね」
ヘイズはニヤリと笑みを浮かべながら、一旦リコから体を離すと、一糸まとわぬ姿となった。そして、再びリコの体に覆いかぶさると、彼女の服を乱暴に引き裂いていった。
ヘイズの欲望の塊が、リコの体に突き立てられたのは、その直後のことだった……。
長くなりますので、二話に分けます。次話も合わせてご覧ください。