第三百四十一話 いざ、戦場へ!
漆黒の闇の中、アガルタ国の都にある練兵場には、篝火が煌々と焚かれている。そこには、アガルタが誇る精兵1万人が整然と整列し、命令が下るのを待っている。その最前列には、白髪をきれいにまとめた老人と、髭面の小男が控えていた。それは、言うまでもなく、アガルタ軍最高司令官であるラファイエンスと、その副官であるクノゲンだった。二人は居並ぶ兵士たちを前に、小声で言葉を交わす。
「……何を言われます!?」
クノゲンの目が大きく見開かれている。その様子をラファイエンスは意地悪そうな笑みを浮かべながら眺めている。
「私も、年だ。もう昔のようにはいかんだろう」
クノゲンはラファイエンスの言葉の意味を理解しかねていた。まさか出陣する直前の今になって、この戦いを最後に、司令官を辞するなどと言うとは、長年仕えてきたクノゲンをしても、予想もしないことだった。本来ならば皆を鼓舞し、死への恐怖を取り払うべきときなのだ。そんなときに、このような後ろ向きな発言をする将軍の意図を、彼は図りかねていた。その様子を察してか、ラファイエンスは真面目な表情を浮かべながら、クノゲンに対して口を開く。
「この戦いはおそらく、私の軍歴の中で最も激しい戦いになるだろう。私とて、生きて帰れるかどうかはわからん。今までは、このような危険な戦いに赴くときは、心が躍ったものだが、今回ばかりはどうもそうではないらしい。いや、戦いは楽しみなのだが……。どうしても、もう一度ここに帰って来たいという思いの方が強くてな。……司令官たる者、後ろ髪を引かれる思いで出陣するなど、あってはならぬことだ。もし、この戦いで生きて帰ってこられたのならば、私は司令官を引退するつもりだ。クノゲン、後のことはお前に頼みたい」
「……閣下」
「いや、老いぼれが恋々と司令官の座にいることはよくない。早く若い者にその座を譲らねばならないのだ。今がその、丁度いい時期なのだ」
「……遅くなりました」
二人の会話に割って入ってきたのは、ルファナ王女だ。彼女は重々しい鎧を身に付け、いかにも武張った印象を与えるような格好で現れた。急所となる部分は全て分厚い鎧で覆われており、その様子からは、一目見て彼女が女性であると見分ける者は少ないと思われた。彼女は緊張した面持ちを浮かべていたが、やがて二人の姿を見ると、その表情が驚きのそれに変わった。
「そ……装備は、それだけなのでしょうか?」
彼女が驚くのは無理もない。ラファイエンスの身に付けているのはプレートアーマーではなく、ごく軽装な出で立ちだった。さすがに兜をかぶり、鎧を身に付けてはいるように見せているが、それは体の上半身や急所のみを守るためだけのものであり、腕や足の部分は全く守られていないように見える。クノゲンに至っては、鎧はおろか兜すら身に付けておらず、いつもの平装の状態であるように見えた。その上、後ろに控えている兵士たちも、その装備は非常に軽いものに見えた。
「ああ、もしかして、アガルタ王様の結界が……だが……」
そこまで言って彼女は言葉を飲み込む。一瞬、この軽装備はリノスの結界を考慮に入れているのだと解釈し、それではタナ軍には意味をなさないと言いかけたのだが、さすがにそれを知らないわけはないのだ。だが、彼女には、これから戦地に赴くとは思えない、むしろ訓練をするような装備で控えている彼らの様子が、どうしても理解できなかった。
「ご心配なく、今に、わかります」
クノゲンが目を細めながら話しかけてくる。目の前の二人の男が醸し出す絶対の自信にあふれた雰囲気に、ルファナはゆっくりと息を吐き出した。
「……ハッ、申し上げます。リノス様が到着されました」
兵士の一人が片膝をついて報告する。三人はゆっくりと後ろを振り返る。するとそこには、見事な鎧を装備し、美しい白馬に跨りながらこちらに向かって来るリノスの姿があった。その後ろには、チワンをはじめとしたポーセハイたち数人が控えている。時折聞こえる、リノスの鎧が触れ合う音だろうか、キィン、キィンという甲高い音が耳に心地いい。リノスのその、美しい佇まいに、ラファイエンス以下、そこに居並ぶ全員が息を呑んでいた。
「全員、揃ったか?」
リノスの一言で、皆が我に返る。
「ええ、いつでも出撃できます」
クノゲンが笑みを湛えながら言葉を返す。リノスは頷きながら、彼らの後ろに控えている兵士たちを見廻す。
「過酷な……戦いになるかもしれないな」
「ええ。おそらく全員がここに戻ってくることはないでしょうな」
クノゲンの言葉に、皆が頷く。
「ここに居並ぶ者は、全員が戦いを生業とする者たちばかりだ。死ぬことは覚悟の上。それに、戦場での死を望む者たちばかりだ。無論、私もその一人だが」
そう言ってラファイエンスはニヤリと笑う。その様子にリノスは、苦笑いを浮かべる。
「……申し上げます。出発の刻限です。間もなく夜が明けると思われます」
「わかった」
そう言ってリノスは、イリモを促して兵士たちの前に進み出る。
「これより出陣する! 皆、俺に続いてくれ!」
リノスの声に続いて、一万人の兵士たちの、一糸乱れぬ返事が返ってきた。その様子に満足そうな表情を浮かべた彼は、ゆっくりと馬首をめぐらせた。そしてその後ろを兵士たちが隊列を組みながら後に続いた。
「……リノス様」
転移結界を張っている場所に向かっているさ中に、チワンが声をかけてきた。彼の右手には、小さな袋が握られている。
「どうした、チワン?」
「こちらの袋ですが……メイ様からリノス様にお渡しするようにと……」
俺は無言で彼から小袋を受け取る。中には、ほのかに桃色の光を湛えた小さな石が入っていた。
「これ……は?」
「私もよくはわかりませんが、メイ様がお渡しして欲しいと……」
「お守り袋か……」
「え?」
「俺は、愛されているな」
そう言ってリノスはニコリとした笑みを浮かべた。その様子に、チワンも笑みを浮かべる。何も根拠はないが、チワンは直感的に、この戦いはリノスが勝つだろうと感じていた。彼はこれまで医者として、多くの人の死を見届けてきた。その経験から彼は、死にゆく人間が浮かべる表情をある程度は知っていた。リノスが浮かべた笑みは、死の運命にある者が浮かべる表情ではなかった。この王はこれから先、まだまだ生きる運命にある……。彼はそう確信しながら、リノスに断りを入れながら、転移結界のある場所に走り出すのだった。
一方、スワンプの街では、タナ王国国王であるヴィルが眠りについていた。彼はベッドに横になりながら、ただ静かに寝息を立てていた。一見すると熟睡しているように見えるが、実はそうではない。彼は、体はリラックスしている状態だが、頭の中は起きている状態だった。
間もなく、史上類を見ない戦いが始まる。十万にも及ぶ軍勢を、自分の号令一下、自在に操ることができる。敵はどのような手を打ってくるだろうか? それは考えればすぐ答えが出るものだ。優秀な指揮官であればあるほど、間違いなくここスワンプに陣取ったタナ軍を討とうと動き出すはずだ。問題はその時期であり、援軍として現れるであろうアガルタ軍の到着を彼は今か今かと待っていたのだった。
この戦いにおける彼の立てた作戦には、絶対の自信を持っていた。彼の戦いぶりはその極端なまでの自信の強さが特徴であり、一切の迷いのない指揮がこのタナ軍を強国たらしめている要因の一つであった。
彼の耳に、小さな足音が聞こえた。それは徐々に大きくなっていき、部屋の前でピタリと止まった。
「……申し上げます」
「何じゃ」
「サンダンジ軍が砦を出たようでございます。全軍、カコナ川に向かっているようです」
「来たか!」
そう叫ぶと彼はガバッと体を起こした。その目には、爛爛とした光が宿っていた……。