第三百四十話 師匠
「いらっしゃいませ」
「これと……これと……これをくれ」
「はい、まいどあり」
一見、どこでも交わされていそうな会話だが、なぜか望みの商品を手に入れたにもかかわらず、その人の表情は沈んでいた。
「私とて、普通に喋れるのだ……」
そんなことを呟きながらアガルタの都を歩いているのは、ミーダイ国から避難してきているゼザだった。彼女は現在、主君であるオージンの側に四六時中仕えており、持てる時間のすべてをオージンに注いでいると言って過言ではなかった。通常であれば、彼女の振る舞いはまさに、家来の鑑として賞賛に値するものだったのだが、実際のところ、アガルタの人々からの評価は芳しいものではなかった。
彼女には、一つの悪癖があった。焦ったり興奮したりすると、言葉が全て擬音語になるのだ。それがために、オージンの命が危機にさらされたことも、一度や二度ではないのだ。
彼女は彼女なりに、一生懸命に伝えようと努力をしているのだが、伝えようとすればするほど、相手には伝わらない。ただ気持ちを落ち着けてさえいれば、今日のように問題なく話をすることはできるのだ。そう、落ち着けば……。
彼女は考える。いかに泰然自若として、全ての事柄に冷静に対応できるか……ということを。だが、考えれば考える程、その答えは出ない。ゼザは思い余ってこのことを、アガルタ王・リノスの妻であるメイリアスに相談してみたのだった。
「……要は、常に心が落ち着く薬を作って欲しい。そういうことでしょうか?」
メイの言葉にゼザはコクコクと頷く。メイはゆっくりと息を吐き出しながら、隣に控えている、リノスのもう一人の妻であるコンシディーの顔を見た。彼女も呆れたような表情を浮かべている。
「とりあえず、落ち着きましょうか」
白衣を着たメイが、ハーブティーを入れ、目の前に差し出してくれる。ゼザはそれをゆっくりと手に取って、自分の口に運ぶ。
「私は、喋りたいのだ。もっと、多くの人と話がしたいのだ」
相変わらず、このお茶を飲むと心が落ち着いて、言葉が出てくるようになる。アガルタの都では安価で手に入るお茶だが、自分や同僚のハーギやシロンが入れると、ここまでの落ち着きは得られない。おそらくこれは、メイリアスが持つ、何とも優しくて人懐っこいその雰囲気が自分を落ち着かせているのだとゼザは感じていた。
このメイリアスという人はモテるだろうな……。ゼザは何度かメイと応対する中で、そんなことを感じていた。凛とした知性を感じさせる一方で、笑うととても愛嬌がある。その上、とても気づかいのできる女性なのだ。そのために、この医療研究所のスタッフはもちろん、患者からもとても慕われている。アガルタ王・リノスが惚れ込むのも、もっともだと思う。
正直に言えば、メイリアス王妃とコンシディー王妃には常に自分の側にいて欲しいと思う。コンシディー王妃は、自分の擬音だらけの言葉をある程度解釈してくれる。この人のお蔭で、ひーさまの命が救われたことも一度や二度ではない。この優れた通訳と、落ち着きを与えてくれる人が側に居れば、盤石なのだが……。だが、そんなことは所詮無理な話であり、それを十分にわかっているゼザは、ため息をつくほかなかった。
そんな中、メイリアスはゼザの会話力が改善するように考えてみると言ってくれた。彼女はその言葉に感謝しつつ、再びオージンの許に帰るのだった。
その日は、久しぶりの休暇だった。
ここ最近はオージンの体調も良く、ハーギとシロンもようやく彼女の意思を読み取れるようになってきた。そのため、二人からはひーさまのお世話は任せて欲しいと言われ、ゼザは休暇を与えられた形になった。
二人の心遣いに心から感謝しつつゼザは街に出た。色々な店を物色してみるが、どうしても、これはひーさまが喜びそうだ、ひーさまは気に入らないだろうと考えてしまう。そんな自分に苦笑しつつ彼女は、さらに足を延ばして、西地区の端まで出かけてみることにしたのだった。
ふと、彼女の目に留まるものがあった。それは、美しい女性が両手を広げて何かを歌っているポスターで、ふと視線を上げるとそこは、アガルタの国立劇場だった。
アガルタ国皇后・リコレットの発案で作られたこの劇場は、一見すると円形の石垣に見える。だが、その内部は劇場になっており、その設計から建設まで、ドワーフの技術の粋が結集されている劇場で、その評価は高い。音響は抜群で、しかも、どの席に座っていても舞台が見やすい構造になっているのだ。アガルタではこの最高の設備を備えた劇場で、毎月のように何かの催しが行われ、しかもそれを安価で見ることができる。ゼザは劇場のことは知っていたが、実際そこに入ったことはなかった。彼女は建物への興味もさることながら、そのポスターに興味を持った。何故か、自分を招き入れているように感じたのだ。
彼女は吸い込まれるようにして劇場に入る。するとそこでは、いわゆるミュージカルのような芝居が行われていた。白い衣装を着た初老の女優が一人、舞台の上に立っていて、彼女は、まるですすり泣くような声で歌いだした。
「私はぁ~♪ 生きて見せるぅ~たとえ全てを失うことになろうともぉ~♪」
話の筋は、愛する恋人が不治の病にかかり、それをヒロインが治療しようとする、というものだった。ヒロインは艱難辛苦の末、ある魔女の許にたどり着き、恋人の病気を治すことのできる薬を手に入れる。だが、それと引き換えに彼女は、吃音というハンデを付けられてしまう。
「おっおっおっおっおっ、おとうとうとうとうとうとうさまっまっまっ……わっわっわっわっわたくしっしっしっわわわわ」
「お前は私をバカにしているのか!」
「いっいっいっいっいいえ! そっそっそっそっそんなななななな」
「もうよい、出て行け!」
話したくても話せない、喋りたくても喋れない。そんな彼女と自分を重ねたゼザは、いつしかその芝居の中に引き込まれていった。愛する恋人ともなかなか話ができない。そして、その恋人の両親が二人の結婚を認めないと宣言して、絶望に堕とされる場面などは、彼女は声を殺しながら号泣した。
今まさに命を断とうとしたそのとき、ヒロインはあることで自分の思いを伝えられることを発見する。それが「歌」だった。
「私は~私は~今の私は~♪ あなたを愛すことが~♪ 生きること~輝くこと~♪ 永遠に~あなたを~愛し続ける♪」
ようやく彼女は自分の思いを恋人に伝えられた。しかも、彼女の歌声は多くの人々の心を癒していく……。それを知った恋人の両親も二人の結婚を認め、物語は大団円を迎える……。
幕が閉まってからも、ゼザは感動のあまり、自分の席から動くことができなかった。そして、誰も居なくなった客席を見つめながら、彼女は小さな声で呟く。
「……これだ」
居ても立ってもいられなかった。これだ。これなのだ。これならば、自分の気持ちを、伝えたいことを相手に伝えることができる。彼女は客席を飛び出すと、出演者の控室へと走り出した。
当然、関係者ではないゼザは、控室に通ることは許されず、扉の前でスタッフに制止された。だが、あきらめきれない彼女は、扉の向こうにいるであろう、主役を務めていた女優に向かって大声で叫んだ。
「歌! 歌! 私も歌で、このグッとしてダッとしたやつをドン! ボワッ! バアアアアアっとダン! としたいのだ! だから、ジャッと、ジャッと……弟子にィ!」
必死だった。こんなに必死になったのは、ひーさまが食事をのどに詰まらせて死にかけたとき以来だ。確かあれは三ヶ月ほど前だった……。
そんなことを考えていると、扉が開き、若い女性がでてきた。彼女はゼザを制止するスタッフを宥め、そして、主演を勤めている女優、ミ・ターキーが呼んでいると、彼女を楽屋まで案内してくれたのだった。
部屋に入ると、美しい銀髪をきれいにまとめ、端正な佇まいで座る老婆がゼザに視線を向けていた。彼女は部屋に入るなり、片膝ついて、必死に自分の思いを伝えた。
「私は……自分の思いを……ブワッ! ザン! ザザン! どうぁ~ワシャッ、るわーんでしたいのです!」
ミ・ターキーはゼザの言葉を一切表情を変えずに耳を傾けていたが、やがて大きく頷き、フッと優しい笑顔を見せた。
「では、明日からここで、ザッとしてすわっとしてルララララ~でタン、としましょう」
「しっ、師匠ぉぉぉ~!!」
ゼザは号泣しながら、その場に崩れ落ちた。次の日からゼザは、空いた時間のすべてをミ・ターキーとの特訓に費やすことになった。それは後に意外な形で役に立つときが来るのだが……。
それはまた、別のお話。