第三百二十九話 戦いの始まり
まだ寒さの残る三月初旬、クリミアーナ教国の首都、アフロディーテでは、臨時枢機卿会議が招集され、その会場である大聖堂は、ピンと張りつめた緊張感に包まれていた。ただ、今回の会議はいつもとは趣が異なり、ここに参加している者たちは皆、この会議の結末を容易に想像することができていた。彼らが醸し出す緊張感は、これから確実に起こる、教国史上最大規模の、全世界を巻き込んだ戦いについての期待感を周囲に悟られぬよう、自分を抑えているために生まれたものだと言って過言ではなかった。
彼らは、理屈抜きにクリミアーナ教国の勝利を信じて疑わなかった。むしろ彼らの関心は、次回のジモークにおいて自分がどの国に派遣され、どのような使命を担うのか。それによって、教国が勝利した暁に、自分の地位がどの程度にまで上がるのか、という点にあった。
そんな彼らの心を知ってか知らずか、この日の会議は驚くほどの早さで幕を閉じた。教皇以下、枢機卿たちが登場し、席に着いた直後、カッセルの口から、教皇の名において、天道に従わぬ国へ鉄槌を下す旨の宣言が行われ、4月のジモークにおいて多くの人々に天命が与えられるだろうと述べられたのだった。教国派の国々には出兵の命令書が出され、大規模な軍勢の動員が発表された。その矛先はサンダンジ国であり、ひいてはその後ろに控える、リノスたちのアガルタであることは明らかだった。
時を同じくしてタナ王国でも、既に出兵の準備が整いつつあった。既に十万を超える軍勢を前に、タナ王国国王のヴィルは満面の笑みを浮かべていた。
「我が軍勢ながら、見事なものよ。さて、サンダンジの者どもは、我らといかに戦うのか……楽しみだな。おそらく今日にでもアフロディーテにおいて、教皇聖下から討伐令が下っておろう。我らはそれを受け、どの国よりも先駆けてサンダンジに向かう。教国の本隊が到着する前に、あの国を併呑し、その勢いを駆ってフラディメを併呑する。そして、本隊と共にアガルタに向かう……。そうなればおそらく、ラマロンとヒーデータが兵を出してこよう……。奴らとの戦いも……楽しみだ!」
満足そうな笑みを浮かべたまま、誰に言うともなく彼は呟く。大規模な軍勢を己の意のままに動かしながら敵を打ち倒してく……長年夢見ていたことが今、叶おうとしているのだ。彼は今、興奮の頂点にあった。そんな中、彼は突然踵を返して、さらに言葉を続ける。
「出立は明後日とする! 各自、準備を怠るな!」
彼の眼前には片膝をついて畏まる家来たちが控えていた。そのうちの一人である、白いローブ姿の初老の男が、彼に向かって恭しく口を開いた。
「恐れながら陛下、未だオクタ殿の姿が見えませんが……」
「フフフ、ジェラニウスよ。オクタは今、休息中じゃ」
「こっ……この時期に休息とは!」
「ウフフ、相変わらず生真面目よの、そなたは。オクタは何も遊んでいるわけではない。ヤツは既に動き始めておる。もうしばらくすると我らに合流する手はずとなっている。それよりもジェラニウス、そなたには別にやってもらわねばならぬことがある。軍神にふさわしい大仕事だ。やってくれるか?」
「ハッ、不肖の身ではございますが、陛下のご命令とあらば、我が身命を賭してお仕えいたします」
「さすがはジェラニウスだ。では、そなたには別に我が策を授けよう。他の者は、出陣準備にかかれ!」
国王の言葉に、その場にいた全員が一斉に頭を下げた。
一方、リノスのいるアガルタ国でも、意外な人物が彼の前に現れていた。
「……久しいな」
「本当に、お久しぶりでございます」
謁見の間で、にこやかにリノスに話しかけているのは、見目麗しい美女だった。まだ少女のようなあどけなさを残しつつも、その目には知性を湛え、凛とした雰囲気を持っていた。その上、豊満な胸と抜群のプロポーションを持っており、一目見ただけで、彼女はどこかの王女であろうと思わせる雰囲気を漂わせていた。
……その女性は、クリミアーナ教国の教皇の孫である、ヴィエイユだった。
数年前、リノスとの闘いに敗れてアフロディーテに帰還したはずの彼女から突然、目通りを願う手紙が届いたのは、わずか二日前のことだった。そこには、折り入って相談したいことがあると認められており、さらには、目通りが許されるのであれば、すぐにお会いしたい。ついては、ポーセハイを迎えに寄こしてほしいと付け加えられていた。彼女の現在の住まいはクレファライス国とあり、おそらくポーセハイの中で知っている者がいるはずだとも書かれていたのだった。リノスは訝りながらも彼女に会う決意をし、クレファライス国に迎えをやったのだった。ちなみに、クレファライス国は元々、ポーセハイの代表であるチワンが長年住んでいた国であり、彼はその国であれば表も裏も知っていると言って、二つ返事でヴィエイユの迎えを引き受けたのだった。
「……ずいぶんご立派におなりになったのですね。それに、お美しくなられましたわね」
俺の隣でリコが落ち着いた声で、ヴィエイユに話しかけている。それは、決して社交辞令ではない、心から再会を喜んでいる気持ちが伝わるような話しぶりだ。そんなリコにヴィエイユは、にこやかな笑みを湛えている。
「皇后さまもお変わりなく、何よりでございます。聞けば、お世継ぎ様がお生まれになったとか……心からお祝い申し上げます」
そう言って彼女は、見事な作法で一礼をする。その様子をリコは目を細めながら見ている。
「……え? 何? まだ生娘なの?」
俺は思わず声を漏らす。あまりにデリカシーのない言葉に、リコはちょっと驚いた表情で俺に視線を向ける。同時に、ヴィエイユも少し目を見開いて俺を見ている。
正直、俺はヴィエイユの数年間の行動に、心の中で唸っていたのだ。
彼女の姿を見た直後、俺は直感的に、この娘が何か良からぬことを企んでいると感じた。そして、すぐに鑑定スキルを発動させて、彼女の過去を覗いたのだ。
このアガルタを離れ、クレファライス国に向かった彼女の人生は、艱難辛苦の連続だった。向かった先は元々、クリミア―ナ教国と敵対していた国であり、そこに、大勢の信徒を連れて向かったのだ。当然、彼女たちは凄まじい迫害に晒されることになった。まず、入国を認められないのはもちろん、彼女たちが乗った船は、問答無用で攻撃されたのだ。
そんな中、彼女は信徒たちを船に残し、たった一人でクレファライス国に向かい、国王に謁見した。その道中は、一切話すことを許されず、水も食事もほとんど与えられず、まるで重罪人を護送するかのような仕打ちを受けた。しかも、都に着くまでのわずか二日間の間に彼女は三回も兵士たちに襲われそうになっていたのだ。だが、彼女は持ち前の聡明さを生かして、上手に兵士たちを説得し、すんでのところで操を守ることに成功していた。それだけでも驚嘆に値するのだが、さらに彼女は、クレファライス国の国王ですらも、その色気と才覚を用いて、長い時間をかけて篭絡せしめていたのだった。その様子も凄まじいもので、彼女は、あるときはその肉体を使いながら男たちに近づき、あるときはその弁舌で説得する一方で、自分たちに敵対する者たちについては、教徒たちを使ってその命を奪うことも厭わなかったのだ。
その様子を見て俺は、戦慄を覚えながら、目の前で美しく微笑むこの少女を、悪魔だと思った。不思議なことに彼女は、多くの男たちにその裸身を晒しながらも、ついに最後の一線を超えることはなく、あまつさえ、自分の体に指一本でさえも触れさせていなかった。彼女は、その体を求められたり、襲われそうになったりすると、決まって自分から服を脱ぎ、惜しげもなくその裸身を晒していた。そして、一糸まとわぬ状態で、甘ったるい声で男たちの欲望を刺激しつつ、最後には、男たちの心を掴むことに成功していた。何とも恐ろしい女性に成長したものだ。俺がつい本音を口走ってしまったのは、こうしたことが理由だったのだ。
俺は雰囲気を変えようと、咳ばらいを一つしてから再び、ヴィエイユに視線を向ける。
「ところで、俺に折り入って相談したいことがある、とあったが、一体何の相談だ?」
俺は彼女から視線を外さず、心の中で絶対に篭絡されてはならないと自分に言い聞かせる。だが、彼女から帰ってきた答えは、俺が全く予想だにしない内容だった。
「はい、ご相談というのは他でもございません。クリミアーナ教国を、我が祖父である教皇、ジュヴァンセル・セインを、この世から葬り去りたく思っております。アガルタ王様には、是非、そのお力添えを賜りたく、ご相談させていただきたいのでございます」
いつしかヴィエイユの顔からは、笑顔が消えていた。