第三百十三話 親孝行
真夏の太陽が照り付ける中、一台の馬車がアガルタの草原を走っていた。その馬車の周囲は数十騎の騎馬隊が警護しており、一見すると、アガルタの領主、もしくはその家族が都に向かっているように見える。だが、よく見るとその馬車は、真夏であるにもかかわらず窓がピッタリと閉じられており、ある種の奇妙さを感じさせる。もし、中に人が乗っているのであれば、さぞ蒸し暑いことだろうと、誰もが思うような有様だった。
実際、馬車の中は蒸し風呂状態だった。中には、サルファーテ女王と二人の王女が乗っていたのだが、女王のたっての頼みで窓を開けることは許されず、三人は汗にまみれていた。
その馬車には、まるで寄り添うような至近距離で馬を走らせている女性の姿があった。言うまでもなくそれは、ルファナ王女だ。彼女は馬車の中の母の容体を案じながら、時おり用意していた水などを、馬を走らせたままの状態で、馬車の中に差し入れるなどしていた。この彼女の助けがなければ、女王はもちろん、二人の王女たちも確実に脱水状態に陥ったことだろう。
本来、都までの道中は、徒歩で従う家来たちに合わせて、ゆっくりとした足取りで向かう予定だった。だが、女王は一刻も早い移動を強く希望した。そのため、徒歩で向かう予定であった者たちは置き去りにされた形になり、彼らは先行する女王たちに大きく遅れる形で、その歩みを進めていたのだった。
この、全く休息を取らない強行軍のおかげで、彼女たちは陽が西に傾く前に都に到着することができた。その報告を受けたリノスは、執務室で半ば呆れたような声を上げた。
「なんちゅうせっかちさだ。こっちにも都合ってもんがあるぞ」
そんなことを言いながら彼は、机の上の書類をいそいそと片付け、ゆっくりと立ち上がるのだった。
「母上……」
迎賓館に到着した女王一行は、通された部屋で固まっていた。そこにいた全員の視線が、女王に注がれている。彼女は目をせわしなく左右に動かしながら、その狼狽ぶりを隠そうともせず、たどたどしい口調で口を開く。
「……ならば、よきに計らえ」
その言葉を聞いて、全員の緊張が一気に緩んでいった。
事の起こりは、迎賓館に到着してすぐのことだった。支配人であるミンシは、彼女たち、とりわけ女王と二人の王女が汗に濡れている姿を見て、すぐさま風呂で汗を流し、着替えをしてはと提案したのだ。だが、女王はその言葉になかなか首を縦に振らなかった。その理由は、まさかこんな事態になるとは思いも寄らず、自身の女官たちを伴わずに来てしまったことにより、彼女が自己嫌悪に陥ってしまい、返事もままならない状態になったからだ。生まれた時から大勢の家来に傅かれた女王が、一人で風呂に入るなど、とんでもない話であったし、王女たちと一緒にという提案もなされたが、当然二人も母親と同様、一人で風呂に入った経験などなく、所詮は無理な話だった。ここに至って、王女たちの不満は爆発した。
「だから言ったのです! 皆でゆっくりと参ろうと! だからこんなことになるのです!」
「しばらく、しばらくお待ちください。なにも今すぐアガルタ王様に謁見せねばならないというわけではありません。供の者たちは、遅くとも夜が明けるまでには到着するでしょう。それを待ち、謁見は明日にしていただいても差支えはありません」
凍りついた空気を何とか和らげようと口を開いたのは、侍従武官のレアルだ。だが、その彼の言葉をもってしても、王女たちの怒りを収めることはできなかった。
「レアル! あなたは黙っていなさい! そもそもあなたも悪いのです! いかに母上のご命令とはいえ、こんな無理な命令を受けることはないのです! なぜあなたも皆と共に参りましょうと諫言しないのですか! この責任はあなたにもあるのですよ!」
「マイユ、おやめ。レアルのせいでは……ない」
女王は力なく、次女に向けて言葉をかける。だが、それから先の言葉が見つからず、彼女はオロオロとするばかりだった。そんな様子を見かねて、ルファナ王女が口を開く。
「母上様、姉上様……」
やさしく、諭すような声で彼女は話しかける。その声に三人は、ハッとした表情を浮かべながら振り向く。
「及ばずながら、私がお手伝いを致します。ご心配なさいませんよう」
三人はルファナの言葉の意味が呑み込めず、キョトンとした表情を浮かべる。その様子を見ながら彼女は、さらに言葉を続ける。
「母上様と姉上様の介添えは、私が行います。ご心配には及びません」
「ルファナ……どういう……」
「私は幼い頃から士官学校におりましたので、大抵のことはできます。それに、ここアガルタでお世話になって1年、風呂も着付けも、全て自分でできるようになっています。後宮の者たちほど上手にはできないかもしれませんが……。それでも、慮外ながら姉上たちにお任せするよりは、遥かにマシですし……それに、いざというとき、お守りすることもできます」
「お、恐れ入ります、ルファナ様。その……風呂では丸腰になりましょう。素手で女王様をお守りすると……?」
レアルからしてみれば、ルファナ一人では心もとなかった。ここは是非、侍女たちの到着を待つべきだという考えがあったのだ。女王付きの侍女たちはいずれも戦闘訓練を受けた者たちだ。一人で警護するより、複数で警護した方がよいことは明らかだったのだ。だが、そんな彼の心配をよそに、ルファナは力強く、きっぱりと言い切った。
「剣を携えて風呂に入ります」
「そ……そんなことをすれば、剣が……」
「母上の命には代えられません」
その様子を見ていた女王は、ゆっくりと首を振りながら、力なく呟いた。
「ならば……よきに計らえ。ルファナ……。お前に頼むとしよう……。レアル、お前は、アガルタ王への謁見をお願いしておくれ」
女王のすがるような視線を受けて、彼は無言で頭を下げるほかはなかった。結局、女王の入浴はルファナが担当することになり、姉たち二人は、自身の肌を妹に晒すのを嫌い、迎賓館のスタッフであるサイリュースたちの手を借りることになった。二人の王女にしてみれば、完全にルファナへの当てつけなのだが、これはこれで、女王に少しばかりの安心感をもたらせた。常に帯剣した腕の立つ護衛、しかもそれは冷遇してきたとはいえ、血を分けた娘なのだ。彼女はルファナに手を取られる形で、ゆっくりと部屋を後にしていった。
「あの……恐れ入ります」
女王について一緒に部屋に入ろうとしたレアルは、美しいサイリュースに入室を拒否された。訝る彼に彼女は恭しく一礼をし、毅然とした様子で口を開いた。
「ここから先は、女性専用の浴場となります。殿方は、ご遠慮くださいませ」
「……ああ、わかりました。では、私はこちらで待たせていただきます」
彼は扉を離れ、壁に背をついて立哨のポーズを取る。だが、その彼にサイリュースはにこやかな笑みを湛えながら、言葉を続ける。
「あの……部屋の前で待たれるというのは……」
「しかし、私は……」
「ご心配には及びません」
突然背後から声がする。驚いて振り向くと、そこには先ほど自分たちを案内してくれた支配人の女性が立っていた。
「こちらは、浴室や化粧室など、女性が使用するお部屋が集まっておりまして、多くの女性の皆様が通られます。誠に恐縮でございますが、鎧を身に付け、帯剣されたお方がおいでになりますと、皆さまが利用し辛くなります。お役目であることは重々承知の上ではございますが、ここは私共にお任せいただきまして、誠に恐れ入りますが、こちらのお部屋でお待ちいただけませんでしょうか?」
彼女の慇懃な態度に圧倒される形で、レアルは渋々その場を離れた。
案内されると思っていた部屋は、浴室から少し離れた場所にあるようだった。いくつかの廊下の角を曲がり、歩き続けている。このままでは事が起こった場合にすぐに駆け付けることができなくなる。できれば、先ほどいた部屋に戻らせて欲しいと言おうとしたそのとき、ミンシの足が止まった。
「こちらでございます。どうぞ、お入りくださいませ」
恭しく頭を下げる彼女の姿を見ながら、彼は開かれている扉から中に入った。部屋は薄暗く、一体何の部屋なのだと思ったその瞬間、背後の扉が音もなく閉じられた。
「よく来たな。待っていたぞ?」
彼はビクッと体を震わせ、驚いた表情のまま声のする方向に顔を向ける。
……そこには、驚愕の光景が広がっていた。




