第三百十二話 神龍様、受難
オージンとサツキが都に入った。二人は俺の張った結界を、難なくすり抜けていた。
額面通りに解釈すれば、この二人には邪念はないということになる。だが、「純粋な悪」である場合は、話は別だ。自身がやろうとしていることが、たとえ人殺しであっても、それが素晴らしいことだと、全く疑うことなく信じ切っていれば、俺の結界をすり抜ける可能性がある。
「ヘイズの気配は、あらへんガイ」
俺の思考を遮るように、目の前に立っている玉ノ井が口を開く。ふと視線を移すと、右手に人化が解け、白狐の姿に戻って気絶しているゴンを、まるでゴミのように持っている。俺はその姿にため息をつきつつ、彼女にゆっくりと口を開く。
「ご苦労だった。今後ともよしなに。あと、おひいさまに、よろしく伝えてくれ」
「承知したで。ほなら」
そう言って彼女は踵を返し、執務室を出ていった。
この玉ノ井は、実はおひいさまの秘密兵器なのだ。彼女の眷属には、妖狐に転生し、悪事を働く者を討伐する者が多数いるが、その中で、どうしても手に負えない場合に出てくるのが、この玉ノ井なのだそうだ。そのため、彼女の存在を知る者は少なく、まさに知る人ぞ知る伝説の白狐なのだという。
彼女は一度、ヘイズと相対しており、彼との戦闘では一歩も引かぬ働きぶりを見せた。それが功を奏して、おひいさまがヘイズを捕らえることにつながったと言われている。その彼女が、サツキとオージンにはヘイズの姿は見られないと言い切ったのだ。おそらく、ヘイズは彼女らの側には居ないのだろう。
二人の監視は、引き続きこの玉ノ井が担当してくれるらしい。俺は部下に命じて、彼女のために好きなものを与えさせた。その体躯の通り、彼女は食べることが大好きなのだそうで、俺は彼女の望むものは可能な限り与えてくれと指示したのだ。
一方、ルファナ王女も無事に本日の宿に到着したらしい。玉ノ井たちが来る少し前に、それを知らせる手紙をサダキチの部下が持って来てくれた。サルファーテ女王は森の中に作られたロッジをあまり気に入っていないようで、一刻も早くアガルタの都に向かいたいと言っているのだそうだ。ロッジの内装が気に入らないのではなく、森の中では暗殺者の類はその身を隠しやすく、襲われる確率が高くなると思っているらしい。どうやら、以前、別の国で森の中で逗留しているところを襲われたのが、トラウマになっているようだ。
「やっぱり、ガルビーから護衛を付けた方がよかったのか? いや、そんなこと言われてもな……」
俺は誰に言うともなく呟く。実は、女王一行には、アガルタの護衛は付けていない。彼女たちは自身の数少ない親衛隊に守られて移動しているのだ。
当初俺は、クノゲンらをガルビーに派遣しようかとも考えたが、それはルファナ王女に丁重に断られた。それは言うまでもなく、サルファーテ女王が、アガルタの兵士に襲われるのではないかと疑念を持つからという理由だった。それなら勝手にしろよとも思ったが、ルファナ王女が本当に申し訳なさそうに、頭を下げ続けるのを見て、その気分は萎えてしまった。
とはいえ、俺たちは知らないもんね、というわけにはいかない。そこで、ソレイユに頼んで、女王一行は、森の精霊たちにその監視を頼むことにした。何かあれば、すぐに俺に知らせるようにと言ってあるのだが、今のところそうした知らせはない。俺は女王一行の様子を確認するべく、帝都の屋敷に帰ることにした。
「クチャクチャ音を立てて食べてはいけませんわっ!」
「早く食べるのはだめ! ゆっくりたべるの!」
「うーん」
屋敷に帰ると、エリルとアリリアがおままごとをやっていた。それはそれで可愛らしいのだが、俺はその光景を見て絶句し、しばらく動くことができなかった。
……娘たちが遊んでいるのは、何と、神龍様だったのだ。
「脇を開いてはダメですわっ!」
「よーく、よーく、噛まないと、病気になっちゃうよー」
「難しいのらー」
神龍様はエリルに後ろから抱きつかれ、アリリアに頭と顎を押さえられて、カミカミさせられている。俺はこの現実を受け入れることができず、二度ほど深呼吸をして、ようやく口を開いた。
「お前たち、何しているんだ?」
「あ、とうたーん、おかえりー」
「おかえりー」
エリルとアリリアがパタパタと走ってくる。そして、ピョンと飛び跳ねて俺の胸にダイブしてくる。これはいつものことで、俺は二人を抱きとめて、両腕で抱っこをする。
「一体、何をしていたんだ?」
「しんりゅうーくんとおままごとー」
「しんりゅーくん、おぎょうぎわるいー」
そんな二人の話を聞きながら、俺は神龍様に視線を移す。彼はヤレヤレといった表情を浮かべてはいるが、いつもの通り、ニコニコとした表情のままでいる。俺は二人を床に下ろし、神龍様に片膝をついて、重々しく話しかける。
「娘たちが……誠に、申し訳ございません……」
「おーう、別にいいのらー。我も楽しかったのらー」
聞けば、神龍様は俺がアガルタに出勤した後になって、ソレイユから呼び出されたらしい。彼女から、森の精霊を駆使してサルファーテ女王を見張って欲しいと頼まれ、二つ返事で引き受けてくれたのだ。彼にしてみれば、そんなことは朝飯前のことで、その力をもって、アガルタの精霊たちに命令を下した直後に、エリルとアリリアに捕まったのだという。
当然、ソレイユは無礼なことと二人を窘めた。だが、人族の子供と遊ぶという経験を持たない神龍様は、好奇心を刺激され、気軽に二人と交流を持った。しばらくは積み木をするなど大人しく、楽しく遊んでいたのだが、昼食の後からその関係性は微妙に変化していったのだという。
彼は食事をするときは、次から次へと料理を口の中に運ぶ。しかもその速さが尋常ではない。噛まずに飲み込んでいるのではないかと思うような食べっぷりなのだ。俺もリコも、他の家族も、そうした光景は見慣れたものであり、何しろ神龍様なのだ。そう、神様なのだ。メチャメチャ世話になっているのだ。まさかそんな人に、テーブルマナーを守れとか、ゆっくり食えなどとは言える訳もない。
だが、そんなことはエリルやアリリアにはわかるはずもない。彼女たちは普段、厳しくリコから躾けられているテーブルマナーを完全に無視して食事をする弟分を見て、これは直してやらねばと思ったらしい。特に正義感の強いエリルは、こんな振る舞いが続けば、きっとママに怒られる。ママが怒ると怖い。そんな思いをこの弟分に経験させるべきではないと思ったらしい。お昼寝から覚めると、早速二人のテーブルマナー講座が始まったのだという。
最初こそ、スプーンの使い方、フォークの使い方など基本的なレッスンで、その見本をエリルが見せていたそうなのだが、やがて夕方になり、キッチンのペーリスは大量の料理を作るべく奮闘中となってしまった。そこに折悪く、イデアやピアトリスがぐずりだして、それにリコとソレイユがかかりきりになってしまったために、神龍様の監視がない状態になった。
「さあ、やってごらん」
エリルのその一言から、神龍様へのテーブルマナー講習は本格化したのだそうで、やれ持ち方が悪いだの、座り方が悪いなど、彼はまだ幼い女子にケチョンケチョンにけなされ続けたのだという。
俺はその話を聞きながら、背中に冷たいものが流れていた。楽しそうに語ってはいるが、その内容は無礼そのものだ。もし、神龍様の勘気に触れるようなことがあれば、俺たちは一瞬で滅びるのだ。俺は何度も彼に向けて頭を下げ続けた。
「あれ? どうしたのです?」
突然、リコとソレイユが、それぞれイデアとピアトリスを抱っこしながらダイニングに現れた。どうやら、二人とも機嫌を直したようで、母親の腕の中で、珍しそうな顔でこちらを見ている。
「神龍様、一人にしてしまいまして、申し訳ございません。……リノス様、何かございましたか?」
ソレイユが訝しそうに話しかけてくる。俺は言葉に窮する。
「いや、この二人に遊んでもらっていたのらー。楽しかったのらー」
「まあ、何とご無礼を……」
リコが目を丸くしながら、エリルとアリリアに視線を向ける。彼女たちは、申し訳なさそうにオドオドとしている。
「よいのらー。その二人は、我の知らぬことを教えてくれたのらー。よいのらよいのらー」
そう言って神龍様はケラケラと笑う。俺はフッと笑みを讃え、神龍様に顔を近づけながら、小さな声で呟く。
「ありがとうございます、神龍様」
そして俺は、家族に向かって手を叩きながら口を開いた。
「さあ、メシにしよう! 神龍様もおいでだから、今日はたくさん作らなきゃいけないぞ。俺も手伝おう!」
……ようやく、家族全員が笑顔になった。