第二百九十九話 女神
ポカポカと暖かい風が、春の香りを運んできていた。草原には青草が生い茂り、その上を蝶々がユラユラと飛んでいる。そんな中、散歩とも行進ともつかない、フラフラとした足取りで草原を進む一団があった。
よく見るとそれは、まだ年端もいかない少女たちであり、彼女らは全員が同じ特徴を持っていた。外見がオーガに似ているという点もさることながら、それに加えて皆、猫背であり、肌の色は病的に白かった。皆、同じような顔立ちをしており、一見すると何かの目の錯覚を起こしているかのような感覚に囚われる。
彼女たちを先導しているのが、鎧を纏った女性だ。これは言うまでもなく、アガルタ王・リノスの妻であるマトカルだ。美しい金髪をポニーテールにした、何とも凛々しい姿で堂々と草原を歩いている。その後ろを、このオーガの少女たちがゾロゾロと付いて来ているのだった。
マトカルはあるところまで来ると、その歩みをぴたりと止め、クルリと後ろを振り返った。そして、やや距離の離れてしまった少女たちに向けて声をかける。
「よーし、今日もよく頑張った!」
少女たちはマトカルの傍まで来ると、ヘナヘナと、まるで空気の抜けるように草原に倒れ込む。中には四つん這いになったまま、肩で息をしている少女もいる。そんな様子を見ながらマトカルは、大きなため息をついた。
「たった5分の移動で、これだけ疲れるとは……一体どんな生活をしていたのだ?」
彼女の独り言のような呟きに、答える者はいない。そこにはただ、少女たちの息遣いが聞こえるのみだった。
彼女たちは、ミーダイ国から避難してきた、貴族のお姫様たちだ。将来は未来の帝様の妃になるかもしれない女性たちなのだが、春とはいえ、日中に行軍を強いられているのには理由がある。
ミーダイ国から転移してきてすぐに、貴族たちから、あまり人と関わらない場所で生活をしたいという申し出があった。元々彼らは長い年月の間、外部との接点を持たず、家族を始めとした一族のみで生活を送ってきた。そのため、同じ国の民とはいえ、多くの人に自身の顔を晒すことに異常な抵抗をみせた。
幸い、リノスが用意した結界村は草原の真ん中にあり、外部とはある程度隔離された場所にあるため、まずは貴族たちにはそこに入ってもらった。ただし、村自体は小規模であったために、貴族たちが雇っていた下男下女は必要最低限の数しか置くことは許されなかった。そのため貴族たちは泣く泣く召使の大半に暇を与え、一家につき二人ないしは三人の下男下女を抱えるのみとなった。
一方で、民衆たちの住む場所が無くなったのだが、その点については、クリミアーナ教の者たちが以前、疫病であるルロワンスに苦しめられた場所に建設したロッジなどが、未だ手付かずのまま残っており、彼らはそこに入ることになった。
民衆たちの行動は素早かった。たちまちのうちに森の中の建物を確認し、五ヶ町の長が集まって町割りを行い、住む場所を決めてしまった。それどころか、森を切り開いて開墾をはじめ、自給自足の生活を開始し始めたのだ。さすがにこれにはリノス達は驚き、手厚い救援物資を送ると共に、彼らの開墾作業をできるだけ支援したのだった。
一方で、結界村に入った貴族たちは徐々に疲弊していった。元々自活する習慣のなかった彼らは、驚くほど一人では何もできなかった。救援物資の配給や炊き出しなども行うが、彼らはそれでさえも自分の住処に届けてくれろと言い出す始末だったのだ。
そこで帝様は触れを出し、現在は国の緊急事態であるために、貴族たちも自活するように命令を出した。とはいえ、配給や食料については、集配所に取りに行けと命じたに過ぎなかったのだが、貴族たちは3日間もぶっ通しで会議を行い、そんなことをするのであれば餓死を選ぶという一派との激論の末、ようやく家来の誰かを取りに行かせるという返事を寄越したのだった。だが、その話は認められず、食料や日用品を取りに来るのは、基本的にその家の子息もしくは姫とせよとの帝様から命令が下ったのだ。
貴族の子女に敢えて限定するようにアドバイスしたのは、リコだった。
あるとき、たまたま人手が足りないことから、炊き出しのために結界村を訪れたリコは、そこに住む貴族の子女、とりわけ姫たちを見て愕然とした。屋敷の奥深く、薄暗い場所で大切にかしずかれたために目が悪く、全員が青白い顔の同じような顔立ちをした猫背の少女たち……その姿は、リコの眼には自分の人生を持たず、ひたすら両親に人生の決定権を握られているだけの受け身な姿勢に映った。そういった意味で、外見は貴族の子女と同じ格好をしているものの、父のクワンパックから完全に放任主義で、わがまま放題で活発に育てられたオージンは、貴族の子弟の中では異質な女性であると言えた。
だが、この女性たちを見たリコの正義感に火が付いた。家庭を守るのは女性。夫を教育し、子供を教育するのは女性。そのために女性は強くなくてはならぬ。ただ受け身のままでは幸せは掴めない。自身の経験からそのことをイヤというほど知っていた彼女は、帝様を通じて、できるだけ貴族の姫たちに外出を促し、炊き出しを行いながら、彼女たちを教育し始めた。
炊き出しの弁当を取りに来た女子たちに、料理に使われている具材がどのようなものであるのか、どういった効能があるのかといったことをはじめ、女性とはどうあるべきかを一人一人に、やさしく語りかけたのだ。箸の上げ下げしかできない女性は損であり、自分で自分の人生を切り開くのですと諭していったのだ。
リコの言葉は、なかなか伝わりはしなかったが、それでも、マトカルに警護されながら一週間ほど彼女の許に通うようになると、少女たちの雰囲気が変わり始めた。まだ全員肩で息をしている状態だが、それでもその顔や肌の色の血色が、目に見えてよくなっていた。リコは炊き出しの料理を用意し、一人一人に振る舞いながら、その労をねぎらっていく。そして同時に、ゴンたちが彼女らに付いてきた下男・下女に配給物を渡していくのだった。
「……何だ、これは?」
この様子を見ていたのはオクタことヘイズだった。彼は細心の注意を払いながら、アガルタに転移していた。そして、ミーダイ国から避難してきた人々を見たという情報を頼りに、その集落をようやく突き留めたところだった。
彼の目には、信じられない光景が映っていた。貴族の姫たちと思われる一団が太陽の下で歩いていたのだ。ミーダイ国では絶対にありえなかったことだ。彼はその事実を確かめるべく、気配を完全に消して結界村に忍び込んだ。
少女の一団は確かに、ミーダイ国の貴族の姫たちだった。彼女たちは明るい日の光の中で自分の顔を晒し、あまつさえ、食事までも共にしていた。一体どうしたことだと驚いていると、その中に、一人の女性の姿を目にとめた。明らかにその一団の中で異質な存在。長い、金色の髪の毛を風に揺らめかせながら、姫たち一人一人に話しかけている女性がいたのだ。元々女性好きということもあって彼は、その女性を注視した。
ふと、その女性が振り返った。その瞬間、彼は呼吸をすることを忘れた。
……理想の女性がそこに立っていた。美しい金色の髪、キッと吊り上がった意思の強そうな目、それでいて、その目には知性を感じさせる。さらには、抜けるような白い肌。その女性の目、口元、鼻……全てが彼の好みだった。気が付けば彼は、フラフラとその女性の前に進み出ていた。
「まあ、どうかなされましたか?」
その女性は、美しい笑顔を湛えながら口を開いた。その声ですらも、彼の好みだった。
「あなたは?」
まるで熱に浮かされたように、抑揚のない声で彼は話しかけていた。その女性はちょっと不思議そうな表情を浮かべたが、すぐにもとの笑顔に戻り、しっかりとした声で名を名乗った。
「私は、リコレットと申しますわ」
「リコレット……」
「何か、私に御用でしょうか? あなたは、どちらのご家来……キャッ!」
無意識のうちに彼はリコの腕を取っていた。驚きの表情を浮かべながらその手を振りほどこうとするリコ。しかし彼はその腕に力を籠めると同時に、空いている手でラトギスの杖を持ち、魔法陣を描く。
「来るんだ」
「離して!」
「曲者ぉ!」
今まさに魔法陣を発動しようとしたとき、彼の頭上に剣が振り下ろされる。護衛のマトカルが異変に気付き、すぐさま彼に斬りかかったのだ。
「くっ!」
紙一重で剣を躱す。再び魔法陣を描こうと魔力を発動しようとしたとき、彼の頭にものすごい衝撃が走った。
「覚悟!」
気が付けば目の前に白狐が立っていた。その瞬間に、彼は全てを悟った。
「おひいさまの眷属か! やはりあの女が動いていたか! 私としたことが不覚だった!」
そう言った瞬間、彼の周囲がまばゆい光で包まれる。それと同時に、リコたちの耳に聞きなれない音が聞こえた。
「クイクイキュィ~~ン~キュイイイン」
気が付くと、既に男の姿はなかった。
「取り逃がしたでありますかー。吾輩の法力をもってしてもダメでありましたかー」
「ゴン、一体何なのですか、あのお方は?」
「リコ殿、あれはヘイズでありますー。ご主人がおひいさまから探索を命じられている妖狐でありますー。消える直前にその顔に浮かび上がった赤黒い筋、妖狐・ヘイズに間違いないでありますー」
「リコ様、大丈夫か?」
マトカルが剣を鞘に納めながらリコの体を気遣う。彼女は顔をしかめながら、それでも気丈に言葉を返した。
「腕に……痣が……。でも、大丈夫ですわ。ところでゴン、さっきあの方が消えるときに、何か変な泣き声のような音が聞こえましたが……あれは、何だったのです?」
ゴンは少し言いにくそうな表情を浮かべたが、やがて呟くように小さな声で口を開いた。
「……あれは、キツネ言葉でありますー」
「キツネ言葉……」
「また会おう、私の女神……そう言っていたでありますー」
リコの顔が、みるみる強張っていった。