第二百八十話 妻には一生勝てません
驚く皇后さまに、メイはニコリと微笑みながら、傍らに控えていた兵士の一人に何かの指示を出した。俺はその狙いがいまいち読めずに、事の成り行きを見ているしかなかったが、ふと、メイの隣にいるシディーと目が合った。彼女は任せてくれと言わんばかりに、ゆっくりと力強く頷いた。その様子を見て俺は、無言のまま帝様に視線を向ける。彼は心配そうに皇后さまと俺を交互に見ている。
兵士が椅子を抱えて戻ってきた。彼に小さな声で礼を言ったメイは、ゆっくりと皇后さまをその椅子に座らせる。
「大丈夫ですか? 無理をしないでくださいね」
にこやかな微笑みを湛えた表情でメイは、しゃがんだ姿勢のまま皇后さまに話しかける。彼女は目を白黒させながら、どうしていいのかわからない様子で、帝様を見つめている。
「……お、おかまいのぅ」
両目を激しく左右に動かしながら、皇后さまはメイに言葉を絞り出すようにして口を開く。その様子に、帝様がゆっくりと二人の許に向かう。
「お妃殿、一体、我が妻に何があったのじゃ?」
メイは皇后さまの手を握り、しゃがんだ姿勢のまま、体を帝様に向ける。
「勝手なことをして、申し訳ありませんでした。皇后さまが、かなりお疲れのようでしたので……」
「そ……そんな、ミは疲れてなど……」
「で、あればよろしいのです。申し訳ありませんでした。いえ、肩が小刻みに動いていて、呼吸も浅くて乱れていたように見えました。そのために、何か体に不調があるのではと思ったのです」
「その診立ては間違いではないと思います。ですが、体調不良ではありませんね。おそらく妊娠されているのではないでしょうか?」
突然シディーが口を開く。どうやら直感が閃いたようだ。
「なに!? まことか!?」
帝様が頓狂な声を上げる。驚きのあまり、声が裏返ってしまっている。彼は目を見開きながら皇后さまの顔を覗き込むようにして見ている。
「オクよ、どうなのじゃ?」
「わ……わかりませぬ……。薬師に診てもらわねば……」
「薬師……。呼ぶとなると、ちと時間がかかるの」
「帝様、差支えなければ、私が診察しましょうか? 一応、薬師の知識はありますが……」
メイが交互に見ながら話しかける。二人は顔を見合わせていたが、やがて帝様が、柔和な笑顔を湛えて、メイに口を開いた。
「では……。アガルタ王殿……お妃さまのお言葉に甘えてもよいかの?」
「もちろんですよ。妻のメイリアスは、世界屈指の名医です。ご安心ください」
「大賢者・メイリアスの名前はマロも聞いている。そのような名医に診察してもらえるなど、マロにとっても、オクにとっても、僥倖じゃ。うん? 名医だけにメイという名前……かの?」
「そんな……うふふ、あはははははは」
メイがウケてしまっている。ボケるつもりは全くなかったために、メイの予想外の反応で帝様が戸惑っている。
「……オージン、サツキ。もうコトは済んだ。そなたたちは、しばらくの間、頭を冷やしゃ」
帝様はポリポリと頬を掻きながら俺を見る。俺は小さく頷きながらオージンたちに目をやると、彼女らは目を伏せたまま床に頭を擦りつけるようにして平伏をしている。その後、俺は別室に控えているチワンたちを呼び、一緒に付いて来た女官と共に、二人を転移させた。
帝様はオージンたちの姿が消えると、嬉しそうに皇后さまに視線を向け、そして、そのままその視線をメイにも向け、くれぐれも妻を頼むと丁寧に頭を下げた。メイも丁寧にお辞儀を返し、シディーと共に皇后さまを部屋の外に案内していった。帝様はそれを見送った後、不意にドーキに向かって口を開く。
「さて……ドーキ、お主に頼みがある」
「僕に、でしょうか。はい、何でございましょう?」
「オクが身籠っていたならばの話じゃが、産の時に使う湯を沸かすための火を、そなたの店から借り受けたいのじゃ」
「え? どういうことでしょう?」
「本来、帝の妻が御所で産をする場合、聖火を用いて湯を沸かすことが仕来りになっておる。だが、先の戦でその聖火は失われ、未だその火を起こすことが叶ぅておらん。これはマロの力不足でもあるのじゃが、さりとて、通常の火を使ぅては、生まれ来る我が子に可哀想じゃ。そこで、ドーキ。そなたの店の火を借りたいと思うのじゃ」
「なぜ、僕の店なのですか?」
「ドーキは帝の膳を拵えておる。我の食す物を拵えておるそなたの店の竈の火は、清らかなものじゃ。それゆえに、マロはそなたの店の火を借りたいと願うのじゃ」
「そ……そんな、何と恐れ多い……」
「あくまで、オクが身籠っていたら、の話じゃ」
「はい……」
困った顔を隠そうともせず、ドーキは耳をフニャフニャニにして俯いている。帝様はその様子を、満足そうな顔をして眺めていた。聞けば、ミーダイ国の聖火は、太陽の熱を集め、それをさらに代々の帝が自ら魔力を使って灯し続けてきた火なのだという。それはプリルの石を精製する時に欠かせないものであるのだが、それが消えてしまったために、帝はプリルの石を作ることが出来ずにいる。ミーダイ国が衰退したのは、これも大きな原因なのだそうだ。
しかし、この帝はあきらめておらず、再び聖火を灯すべく奮闘している。太陽の熱は集められるらしいのだが、それを聖火に昇華し、維持し続けるための膨大な魔力をコツコツと溜めているのだという。その手法は教えてもらえなかったが、話の内容から察するに、かなりの忍耐力と体力の消耗を伴うようだ。
そんな話をしている中、オージンたちを連行した女官が、再び転移してきた。彼女はキュアライトという名前で、帝様専属の護衛なのだそうだ。とても大人しく、無駄口は一切叩かない人物のようだが、怒らせると怖そうな雰囲気を持っている。ちょうどその時、メイたちが部屋に戻ってきて、検査の結果を伝えてくれた。やはり、皇后さまは懐妊しており、それを聞いた帝様は大いに喜んだ。俺は帝様と皇后さまに祝いを兼ねた夕食を共にしないかと誘い、彼らは満面の笑みで頷いてくれた。
屋敷ではローニが一人で子供たちの世話をしてくれているために、マトカルとソレイユ、そしてシディーには先に屋敷に帰ってもらい、夕食にはリコとメイが同席した。帝様も、皇后さまと共に護衛のキュアライトも同席することになった。
皇后さまのケアはリコとメイに任せ、俺は帝様と色々なことを語り合った。お互いの生い立ちからこれまでのこと、そして、これからのことを。聞けば、帝様の人生は苦労と辛抱の連続であったようだ。しかし、それでも彼は腐ることなく、必死でミーダイ国の復興のために努力をし続けているのだ。
「帝様は本当に我慢強いですね。俺だったら、投げ出しちゃっていますよ」
「いやいや、そのような大層なことではない。何事も、気持ち次第じゃ」
「ほう」
「苦しいことや辛いこと……そう思っていては、余計に苦しくなる。苦しい中、辛い中でも楽しみを見つけていくのじゃ。さすれば、色々なことが見えてくるのじゃ。マロが焼き物を作り、オクが機を織る……。我らはこれをしている時が全てを忘れられる。そして楽しい。その作ったものが他国で金になり、それが民に渡る。それを繰り返すことで、少しずつじゃが国は復興に向かっておる。マロに手を差し伸べてくれる者も増えてきた。今、マロは少しずつ国が立ち直っていく姿を見るのがうれしい。楽しい。他の王はどのようにマロを見ておるかは知らぬが、日々を楽しく、いきいきと生きておる者に、人と幸せは集まるとマロは信じておるのじゃ」
「……なるほど、ヒーデータ帝国の皇帝、我が義兄も同じようなことを言っておりました」
「ほう、左様か。機会があれば、ヒーデータ帝国の皇帝陛下とも会ってみたいものじゃ」
「ええ、機会があれば紹介しましょう。帝様とは気が合うと思います」
「マロは今まで、国の外に出たことがない。これからは自国のことだけではいかぬ。見聞を広めねば、また、あのような大乱が起こるであろう。偏った感情は争いを生む。マロはもっと色々な人と会い、学ばねばならぬ」
リコたちも、帝様の言葉に深く頷いている。そのとき、お腹の鳴る音が部屋に響き渡った。
「……失礼」
スッと頭を下げているのは、キュアライトだ。彼女は料理に一切手を付けず、あまつさえ、座ろうともしないのだ。さすがにそれはやめてくれと、何とか椅子には座ってもらったが、彼女は帝様と皇后さまを守ることに集中したいのだろう。料理には見向きもしなかったのだ。
「ハラ減っているのなら、食べてくれないかな?」
「そうじゃキュアライト。食事に手を付けぬのは失礼じゃ。マロに遠慮はいらぬによって、ささ、上がりゃ、上がりゃ」
帝様の言葉にも彼女はひたすら軽く頭を下げるのみで、結局最後まで彼女は料理に手を付けることはなかった。
食事も終わり、アガルタの料理を堪能した帝様たちは、ポーセハイたちに伴われて帰途に就いた。その際、リコがキュアライトにバスケットを手渡し、彼女は不思議そうな顔をしてそれを受け取った。
「今日の料理が入っています。お家に帰って食べてくださいな」
「……」
「お腹がすいているのではなくて? よかったら食べてくださいな」
リコは満面の笑みで口を開いていた。キュアライトは、申し訳なさそうな顔をしながらそれを受け取り、やはり無言のまま、頭を深々と下げた。そして、そのまま帝様たちは転移していった。
「……すごいな、リコ。一体、いつの間に用意させたんだ?」
「そんなことよりもリノス、教えてくださいませ」
「え? 何を?」
「女性がかわいいという基準の話ですわ。あれはどなたに教えていただいたのですか?」
リコが真っすぐに俺を見つめている。気が付くとメイも俺に視線を向けている。何か、怖い……。
「エ、エ、エ、エルザ様。エルザ様ですよ」
「エルザ様?」
「そう、エルザ様。俺が王宮に入るに際して教えていただいたんだ。女性の話には気を付けなさいと……ね」
リコとメイは顔を見合わせている。そしてリコはゆっくりと俺に視線を向けた。
「さすがは、エルザ様ですわ。しかし、一つだけ覚えておいて欲しいのですわ」
「な……何だい?」
「女性同士の間でも、心から可愛らしいと思った時もかわいいと言いますし、本当にいい人のことも、いい人と言いますわ。大切なのは、言葉そのものではなく、その人の心を感じること。リノスなら、きっとそれが出来るはずですわ」
……俺はただ、自分の浅はかさを恥じて、苦笑いするしかなかった。やはり、俺はリコには死ぬまで敵いそうもない。