第二百二十一話 四者四様
リコが屋敷に帰ってきたのは、夕方だった。アガルタの都に勤務している、フェリスやルアラ、そしてシディーらと一緒に帰ってきた。リコの顔が見えるや否や、娘たちはママ~と彼女の下に寄っていく。リコは満面の笑みで二人の娘を抱きかかえる。
「エリル、アリリア、ただいま帰りましたわ。たくさん遊んだかしら? いい子にしていたかしら?」
「リコ様おかえりなさい。二人とも、とってもいい子にしていました」
「メイ、せっかくのお休みなのに、一日中子守をさせてしまいましたわ」
「いいえ。このくらい、何でもありません」
リコとメイが仲良く、今日一日あったことを報告し合っている。その様子をフェリスとルアラは呆然と見ている。
「フェリス、ルアラ、どうしたんだ? 随分と疲れてないか?」
二人は苦笑いを俺に向ける。聞けば、ヴィエイユとの会談を終えた後、リコは久しぶりにフェリスとルアラの所に差し入れを持って行ったらしい。と、そこまではよかったのだが、ふと、机の上に積まれた書類がリコの目に留まった。そこから怒涛の如く、リコ姉さまの書類チェックがはじまり、徹底的に書類の不備を指摘され続けたのだという。その話は聞けば聞くほど精神的に疲れるものであり、俺はひたすら苦笑いを浮かべるしかなかった。
フェリスとルアラには、先に風呂に入るよう命じて、俺はリコから今日の話を聞く。
「ええ。問題ありませんでしたわ。話をしてみてわかりましたが、あのヴィエイユという人は相当頭のいい方ですわ。おそらく、そう長くはない時期に、ご自分がどうしたいのか、これからどうするのかをお決めになると思いますわ」
「そうか。さすがはリコだな」
「いいえ。私がリノスに言われたことを、そのままヴィエイユに言っただけですわ」
「え?俺がリコに?何のことだ?」
「まあ、覚えていないのですか!?宮城の私の部屋でリノスが言ったのですよ!?」
「ああ……あれか」
照れくさそうに目を逸らすリノスを見て、リコはその時のことを改めて懐かしく思い出すのだった。
リコを見送ったヴィエイユは一人、部屋の中で考えていた。自分は敢えて生かされているというリコの言葉は、彼女の腑に落ちるものがあった。これまで信じてきたクリミアーナ様を否定し、裏切った自分が何故、命を奪われていないのか。死ぬまで苦しみ続けるために生かされているのではなかったのか。だが、そうであれば、自らの命を絶てばいいのだ。しかし、それが今はどうしてもできない。ということは、これは罰ではなかったのか? では、どうすればいい? 今の状況が、生かされているものであるとすれば、自分は一体何をするために生かされているのか?
ズキズキと痛む頭痛を感じながら、ヴィエイユは思考する。今までの人生を振り返りつつ、クリミアーナ教の、クリミアーナ教国のことを振り返ってみる。なぜ……? なぜ……? クラクラとした感覚に抵抗するように、彼女は熟考する。
リコと過ごした時間は確実に、多感で鋭い感性を持つこの少女に、何かの気づきを与えていた。これまで死と隣り合わせに生きてきたヴィエイユにとって、この悩み事は、悩みの部類に入らぬ程度のものであった。彼女は今、自分の人生を振り返りつつ、これまで教えられてきた、「~しなければならない」や「~であるべきである」というクリミアーナの固定観念から解放され、第三者的な視点を持つようになっていた。そして、彼女の持つ抜群の分析力は、クリミアーナ教とクリミアーナ教国に向けられようとしていた。
森の奥深くに建てられた一棟のロッジ。その中の薄暗い一室で、一人の少年がぼんやりと虚空に視線を泳がせていた。ここ最近再びひどくなってきた湿度のため、身に付けている服は湿り気を感じる。その中で、少年は充血した目でブツブツと何かつぶやきながら、頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消えする考えを整理でき切れずにいた。
「楽園を作るんだ……。アガルタ王は、絶対に許さない……。僕の頭が腐っているなどと……。姉さまを、ヴィエイユ姉さまを、信徒を取り戻さないと……。連絡が遮断されている……。姉さまたちは無事なのか? いや、ルロワンスは完治しているのか? 確認が取れないままに姉さまを迎えると再び……。教国に連絡を……。いや、その前に信徒たちをまとめないと……」
次から次へと湧き上がってくる不安は、カッセルの精神バランスを著しく崩していた。
「オマエ、コロサレルゾ?」
「誰だ!」
「コノママジャ、コロサレルゾ? ミンナ、オマエノテキダゾ? ミンナ、オマエヲワラッテイル……」
「やめろっ! 誰だっ! 誰だっ!」
カッセルは耳元でささやいてくる声を振り払おうとする。これは幻聴なのだが、もはや彼には、それが幻聴であるかどうかを認識する力すらも残っていなかった。
「僕を嗤うものは許さない……。絶対に、許さない……」
カッセルは今、爆発寸前にまで追い詰められていた。
「……ほほう。不思議なこともあるものですね」
そう呟きつつ、報告書から視線を外し、ゆっくりと右手で目頭を押さえる。ここ最近は老いのためか、字が見づらくなってきた。そんなことを思いつつ、右手を目から放し、目の前に立つ女性に視線を向ける。
「いかがいたしましょうか……」
不安そうな面持ちで女は尋ねる。その様子を見ると何故か笑いがこみあげてくる。
「フッ……フフッ……フフフフフ……」
「教皇様……?」
女が目を見開いて驚いている。満面の笑みを湛えながら声を殺して笑っているのは、クリミアーナ教国の教皇、ジュヴァンセル・セインであった。彼はひとしきり含み笑いを続けた後、ゆっくりと息を吐く。
「いえいえ、私の若い頃のことを思い出していましてね。そう……あれはまだ、25歳くらいの時でしたか。赴任したガシラーソン国で迫害を受けましてね。信徒たちと小さな砦に立てこもったのですよ。食料もなく、ましてや教国からの援軍もない。そんな状況下で、私ももう終わりかなと思いましたが……。クリミアーナ様のご加護を頂戴して、何とかその危機を乗り越えることができました。まさか、ヴィエイユとカッセルが、私と同じような状況に陥るとは……。これも巡りあわせですね。さて、彼女たちはこの危機をどうやって乗り越えるでしょうかね。特にヴィエイユは、父親と同じ失敗を繰り返さないでもらいたいものです。まあ、聡明な彼女のこと、それはないと信じていますが……。まあ、見ていて御覧なさい。この危機を乗り切った者が、おそらく私の後を継ぐことになるでしょう。さて……アガルタ王とその一族の首を持ち帰るのは、果たして誰でしょうか?」
教皇は満足げな笑みを浮かべる。女は表情を凍り付かせたまま、教皇に口を開く。
「ぞ……存じませんでした。教皇聖下がそのような過去をお持ちとは……」
教皇は満足そうに体をゆすりながら頷く。
「しかし、教皇聖下。もし万が一、ヴィエイユ様とカッセル様がお二人とも成果を残せず、教国にお戻りになられましたら……。ツッ!これは不敬でございました。お許しくださいませ」
「いいのです。その可能性もなくはないでしょう。その時は、新しい後継者を立てるまでです」
「新しい後継者……。恐れながら、教皇聖下のお血を引き、跡を担えるお方は、ヴィエイユ様とカッセル様だけかと心得ますが……」
女の言葉に、教皇は再びニコリと満面の笑みを漏らす。
「その時はまた、子供を作ればいいのです」
「……!」
「男は女と違って、いくつになっても子供を作ることができますからね。ヴィエイユとカッセルが倒れた場合を想定して、今から子供を作るのも、いいかもしれませんね。キャンセイナさん、あなた、協力してくれますか?」
教皇はいつもの通り、やさしい笑みを湛えている。しかし、キャンセイナと呼ばれた女司教は、たった今聞いた身の毛もよだつ話に、平静を装うのに精いっぱいだった。そんな様子を満足そうに眺めながら教皇は手を叩く。すぐに若い男の司教が入室してきた。
「アガルタのクリミアーナ村に使者を立てなさい。いいえ、内容などどうでもよろしい。ヴィエイユとカッセルがどのような戦略を立てるのかを見てくるのです。……ええ。使者がイルベジ川を越えられず、消息を絶っているのは知っています。数を増やしなさい。アガルタに入る道はそこだけではないでしょう?あらゆる手段を講じてアガルタに人を遣わしなさい」
教皇は若い司教を見送った後、ゆっくりと口を開く。
「天道に従わぬものを取り除いた者に、あの国を任せましょう。きっと、我が主神様のご加護の厚い国となることでしょう。さて、どのような結末になるのか……楽しみです」
教皇は知らない。これまで送った全ての密偵が、アガルタ領内に入った瞬間に森の精霊たちに惑わされ、ある者は命を落とし、ある者は魔物の餌食になっていたという事実を。
そんなことは全く知らない教皇は、アガルタの方向を見据え、再び満足そうな表情を浮かべるのだった。