第二百十四話 あだゆめ
俺は目の前の坊主に目もくれず、机の上の鈴を鳴らす。すぐに外にいた警護の兵士が執務室に入ってくる。
「ラファイエンスとクノゲンを呼べ」
兵士は一礼をして部屋を足早に出ていく。しばらくすると、ラファイエンスたちが執務室にやってきた。そこにはなぜか、マトカルも付いて来ていた。
「なんだ、マトも来たのか。まあいい。将軍、出陣です。クリミアーナ村に向かいます」
「おお!ついに攻めますか!待っていましたぞ!腕が鳴るな」
「いいえ、攻めるのではないのです」
「どういうことだ?」
「屈強な騎馬兵、二十名程度を集めてください。できれば、帝都の頃から将軍に仕えている者がいいですね。将軍には、倒れているクリミアーナの連中を介抱してほしいのです」
「介抱?」
「ええ。好みの女性を選んでいただいて、構いません。たっぷり抱きしめて、優しい言葉をささやきながら、介抱してあげてください」
「何と、そのような……」
半ばあきれ顔の将軍であったが、好みの女性にお触りができるためか、顔は満面の笑みを浮かべている。
「俺はイリモを連れてくる。メイ、チワン、ローニ、お前たちも付いて来てくれ。将軍たちと共に、門の前で待機してくれ」
メイたちは無言で頷く。
「リノス様」
「ちょうどいいマト、お前はこの坊主を連れてこい。伝染病に感染している可能性があるが、心配するな。結界を張ってある。しかも、ヤツの声は聞こえないように効果を付与してある。それごと連れて行ってくれ」
「わかった」
マトがカッセルを、まるでぬいぐるみを抱えるかのように小脇に抱えて部屋を出ていく。それを確認した俺は再び警備兵を呼び、都をはじめ、アガルタの街に居るであろうクリミアーナの信者を捕らえるように命令し、執務室から帝都の屋敷に転移する。そして、約三十分後、俺たちは王都の西門前に整列を完了していた二十名の騎馬兵と共に、クリミアーナ村に向けて出発した。メイは俺の後ろ、チワンはクノゲン、そして、ローニは居心地が悪そうにラファイエンスの後ろに乗っている。
「よーし。ついて来い!」
そう言って俺たちは風のような速さで都を離れる。どんどんと離れていき、やがて城壁が見えなくなったところで馬を止め、俺はマップで周囲の様子を探る。
「よし、誰もいないな」
俺はマトカルの所に行き、彼女の小脇に抱えられている坊主に目をやる。相変わらずヤツは殺意を込めた目で俺を睨み、何かを叫んでいる。
「坊やはネンネの時間だ」
そう言って結界内のカッセルを眠らせた。子供とはいえ、かなり重いはずだが、マトカルは全く問題ないという。寝た子は重たくなるものだが、彼女は平然とした顔で片手でヤツを抱えている。ちょっとマトを尊敬してしまった。
「一旦ここで全員に結界を張る。これから行く森には伝染病が蔓延している可能性が極めて高い。しかし安心しろ。常に結界内はキレイな空気で満たされている。結界内に病原菌が入ることはないだろう。しかし、予想外のことも想定される。各自十分注意するようにな。将軍以下、クノゲンたちにお願いしたいのは、村に住んでいる教徒たちを一か所に集合させることだ。動けない教徒はそのままでも構わん。集合場所は追って指示する。ちなみに、マトが抱えているあの坊主のような、白い衣装を着ている女がいると思うが、ソイツには手を出さないでくれ。そいつは、俺が話をする。全員、了解か?ではここで転移する!」
その声と共に、騎馬隊が一瞬にして姿を消した。
到着したところは、広い草原だった。ここは以前、ラマロン軍が攻め込んできた時に迎撃し、撃退した場所だった。その時の戦闘が懐かしく思い出される。しかし俺は、その思い出に浸ることなく、イリモをクリミアーナ村に走らせる。そして走ること二時間、俺たちはクリミアーナ村を眼下に捕らえた。
村の中は、静まりかえっていた。俺たちが村に入っても、テントの中からは誰一人として出てくることがなく、かすかに祈りの声が聞こえてくる程度だった。俺たちはどんどんと村の中に入っていく。すると奥から司教の一人が飛び出すようにして現れた。
「あなた方は、何者なのです!誰の許可を得て、この村に……」
「アガルタ王のリノスだ」
ずいっと前に進み出て宣言する。彼は一瞬戸惑った表情を浮かべたが、すぐに平静の顔に戻る。彼の顔には、紫色の斑点が二つほど出ている。
「一体何の御用でしょう?」
「いやなに、カッセル君が我々に助けを求めてきたのだ」
「カッセル様?」
彼はマトカルの小脇に抱えられ、ぐったりしているカッセルを見て目を丸くしている。
「彼が俺のところに来て、助けてくれと懇願したのでな。取るものもとりあえず飛んできた次第だ。何でも、人がバタバタと死ぬそうじゃないか?どうしたのだ、大丈夫か?あの小娘……ヴィエイユ殿はどちらにおられる。かわいそうに、カッセル君はヴィエイユ姉さまを、ヴィエイユ姉さまをと言いながら気を失ったのだ」
自分でも驚くほど気持ちの入っていない棒読みのセリフ廻しだ。そんな俺の話に、彼はしばらく目を泳がせていたが、やがて、ご案内しますと小さく呟いて、俺たちを案内した。
俺たちを案内している男はムーラックと名乗った。彼は俺たちの前を歩きながら時おり吐き気をもよおしていた。
俺たちは外の空気が入らない結界を張っていたために気が付かなかったが、どうやらこの村は、結露のために発生したカビが発する悪臭に加えて、亡くなった信徒たちが発する死臭も加わって、鼻がひん曲がるほどの腐敗臭に包まれていたのだ。
歩きながら周囲を見渡すと、家やテントは多く見られたが、人の姿はまばらだ。外に出ている人たちを見ると、皆、目がトンでいる。そして、我が主神様、お助けをお助けをと言いながら、ブツブツと祈りの言葉を呟きながら徘徊している。それを見ながら進むと、大きなロッジが見えてきた。ヴィエイユはそこに居た。
彼女は、壁の上に掲げられた絵に向かって、祈りをささげていた。俺たちの入室に気づいていないのか、一心不乱に祈りの言葉を呟き続けている。
「ヴィエイユ様……」
俺たちを連れてきた司教の声で彼女はピクリと体を震わせ、ゆっくりと振り返った。見ると顔中に紫色の斑点が出ていた。彼女はしばらく虚ろな目で俺たちを見ていたが、やがてギョッとした、驚いた表情を浮かべ、キョロキョロと周囲を見渡しながら、驚きを隠そうともせずに言葉を漏らした。
「アガルタ王様……なぜ、ここに?……ハッ!」
突然彼女は両手で顔を隠してうずくまる。
「見ないで。見ないでください!見ないで!」
「……なるほどな。坊主が言っていたのは、このことだったか。まあ、自業自得だが、お前たちにはまだまだお仕置きを受けてもらわねばな」
そう言って俺は、ヴィエイユを結界に閉じ込め、そして、そのまま彼女を眠らせた。
……柔らかなぬくもりに包まれながら、ヴィエイユは眠りから覚めた。よく寝た。こんなに良く寝たのはいつ以来だろう。ここ数か月は眠れぬ夜を過ごしてきた。久しぶりに感じる熟睡した感覚。寝すぎて、ちょっと体がだるい。今日も目覚めることができた。私は生きている。でも、またあの臭いと湿気、そしていつ死ぬのかわからない一日を生きなければならないのか。でも、私は教皇の孫。無様な姿は見せられない。起きなければ。クリミアーナ様にお祈りをささげなければ。そうしないと死が迎えに来るような気がする。いやだ、まだ私は、死にたくない……。
折れそうな心を奮い立たせながら、彼女は起き上がる。すると、目に飛び込んできたのは、見たこともないような豪華な部屋だった。
広いフカフカのベッド。軽いが暖かい羽毛布団のようなシーツに彼女はくるまっていた。まだまだ寝ていたい感情を抑え込みながら、彼女はベッドから降りる。すると、隣の、これも大きなベッドにはカッセルが眠っていた。ふと顔を上げて辺りを見渡すと、明るく、広い部屋が目に入ってきた。豪華な内装、シャンデリア、そして身に着けている清潔で肌触りのよいパジャマ……。あまりの豪華さに彼女は目を見張る。そして、隣に寝ていたカッセルを起こす。
「何です姉さま……。あれ?」
「カッセル、ここはどこかしら?どうして私たちはこんなところに……」
「そうですね。ここは……って、姉さま!顔の斑点が!」
カッセルの驚いた声を聞いて、ヴィエイユは再び部屋を見渡す。すると、大きな姿見が目に入った。彼女は急いでそこに行き、自分の顔を確認する。
「……斑点が、消えている」
彼女の顔が驚きから安堵の表情に変わっていく。その時、部屋の扉がノックされ、美しいメイドが入ってきた。
「お目覚めでしょうか。ここは我が主の屋敷でございます。故あって名前は申し上げられませんが、皆さまはアガルタの村から、こちらにお移しさせていただきました。隣の部屋には他の司教様たちもおられます。皆さまの病は大変重篤でしたが、ご安心ください。教国から秘蔵している特効薬が届きましたので、皆様に投与しております。もう、命の心配はございませんので、ご安心ください。また、我が主からの伝言でございます。体調と体力を回復させるため、四~五日逗留なされるとよい。村の信者たちにも、食料と清潔な服や布を配っており、村の環境は改善されています。十分体力と気力を回復させた上で、これからの戦略をお考え下さいとのことです。……そろそろ昼食の時間です。食事をお持ちします」
そう言ってメイドは部屋を後にした。ヴィエイユとカッセルは、まだ今の状況に思考が付いて行かずに、しばらく無言のままで顔を見合わせていた。そして、再び部屋のドアがノックされ、先ほどのメイドが食事を運んできた。美味しそうなパスタに肉料理、スープ、サラダ……どれも久しぶりに食べる温かい食事と、新鮮なサラダであり、しかもこれまで食べた食事の中で最も美味なものだった。二人は無言で、テーブルの上に置かれた食事を口に運んだ。
食事が終わり、食器が下げられると、入れ替わるように五人の司教たちが入室してきた。コフレシやジョリーナの姿も見える。二人の顔がぱあっと明るくなる。
「まあ、皆さんも?助かったのですね?」
「はい、ヴィエイユ様。ここはあの村から約一日の場所にある館です。どなたかのお屋敷かは教えていただけませんが、我々に薬を投与して病を治癒いただき、また、清潔な部屋と衣服も与えていただき、つい今しがたは、大変に美味しい食事も頂戴しました。ヴィエイユ様も、お顔が……。お美しいお顔が戻られました。よろしゅうございました。よろしゅうございましたね。カッセル様も…。これも、主神様のご加護の賜物です」
コフレシは涙を流しながら祈りのポーズを取る。
「館の主人は四~五日は滞在して、気力と体力を回復させるようにと言っているようです。メイドたちは厳命を受けているらしく、屋敷からはお出しできないのですと言っておりました」
口を開いたのはジョリーナだった。それを聞いてコフレシが反論する。
「いいではありませんか。屋敷の主人がそうおっしゃっているのですから、四~五日滞在すればよいのです。私が聞いたところによりますと、その間、村の人々に物資を届けるのと、開村以来我らを悩ませた湿気を除去する作業をするようです。おそらく、アガルタの敬虔なクリミアーナ教の領主なのでしょう。で、あれば、ここはリベルグ伯爵のお屋敷ではないでしょうか?」
「リベルグ伯爵?」
ヴィエイユがいつもの鷹揚さを取り戻して、ゆったりと尋ねる。
「はい。リベルグ伯爵は我がクリミアーナ教の信者。しかも、アガルタ王を未だ王と認めてはいない、アガルタでも数少ない領主の一人です。おそらく、名前を出すと後でアガルタ王の追及を受けることになります。そのために、我らを秘密で援助されているのでしょう」
コフレシの言葉に、ヴィエイユ以下、全員が頷く。
「今回はそのお情けに甘えましょう。これも主神様のお導きです。我らの願いが通じたのです。ヴィエイユ様とカッセル様は特によくお休みください。さぞ、お疲れかと思いますので」
コフレシの言葉に、ヴィエイユは笑顔で答える。
「ご心配には及びません。私たちは大丈夫です。むしろ、コフレシさんたちこそ、休まねばなりません。今回はお言葉に甘えて、ゆっくり休ませていただきましょう」
そう言って彼女たちは、この屋敷での逗留を決めたのだった。屋敷のもてなしは、まさしく至れり尽くせりで、痒い所に手が届くもてなしぶりであった。三度の料理、ティータイムのお菓子なども実に美味しく、よく眠れ、快適に目覚めるという非の打ち所のない日々を過ごすことができ、彼女たちは大満足だった。
そして、逗留五日目。いつものように、良く寝たという幸せな感覚と共に、ヴィエイユは目を覚ました。ゆっくりと目を開けると、そこには今までとは全く違う光景が広がっていた。数名の兵士たちと、黒い服を着た男。よく見るとそれは、アガルタ王のリノスだった。彼はヴィエイユと目が合うと、ニヤリと笑って、ゆっくりと口を開いた。
「おはよう。そして、おかえり」
なぜ?どうして……?という疑問が頭の中を駆け巡る。そして、ヴィエイユの思考は、停止した。