第百七十三話 クリミア―ナ教国
ラマロン皇国皇都の港から、船で東に進むこと一週間。絶海の孤島に、その国はある。
島の面積はかなり広く、人口は約一千万人を擁する巨大な都市がある。島の周囲は断崖絶壁であり、それに沿う形で高い城壁が備えられている。都市の中は様々な区画で区切られており、国民の食料もその中で生産され、そして、人々の愛もこの中で育まれる。この国は、ほぼ全国民が一つの教義を深く共有しており、そのため、国民相互のつながりは極めて強い。つまりこの都市は、世界中から選抜された者だけが住むことを許される聖地のような場所なのである。
その国の名を、クリミアーナ教国という。
数千年前、人族が魔物に蹂躙され、滅亡の危機に瀕した時、類まれなる治癒魔術を駆使して人族を救い、遂に魔物との戦いに終止符を打った女神、アフロディーテ・クリミアーナが建国した国である。
クリミアーナは、自身が身に付けた知識や技術を惜しげもなく人々に伝え、人族の発展に寄与していった。彼女の能力で最も優れていたのは「加護」スキルであり、LV3までの「呪い」を取り除くことができた。従って彼女は人族の悪魔化を防いだ女神として認識されている。そして、臨終の際には神となり、そのまま天に昇ったとされる。そのため、この国ではクリミアーナを神として崇め、彼女の遺志を継いで、学問と研究を貴ぶ国家であり続けている。
一方でこの国は、クリミアーナの教えを教義とした、所謂、クリミアーナ教を興した。魔物からの救世主であった彼女の教えはたちまち人族に受け入れられ、現在では世界中の国々に信者を持つ。しかも、国の元首が敬虔な信徒であることから、この宗教を国教としている国家も多く、現に、ヒーデータ帝国並びにラマロン皇国もこれを国教としており、言わば、名実ともに世界最大の宗教組織に成長していた。
クリミアーナの教えは、「我らを利する者は助け、害するものを排除せよ」というものである。当然、我らとは人族を指すのであるが、この教義が生まれて数千年、現在では、この「我ら」は「クリミアーナ教」と解釈される傾向にある。
この教国を率いるのが教皇、ジュヴアンセル・セインである。既に頭は禿げ上がり、口に湛えている髭も真っ白になっているが、肌色もよく、健康そのものに見える。しかし、彼は齢八十を超えており、それでなお、でっぷりと太った堂々とした体格を維持している。そのため、一見すると彼を五十代半ばと見る人も多い。
常に優しげな微笑みを湛え、どのような身分の者に対しても丁寧で慈悲深く、彼が声を荒げる姿や怒った姿を見た者は皆無である。しかし、彼はクリミア―ナ教の教皇であると同時に、クリミアーナ国の国家元首でもある。世界中の国家やその国民を信徒に持ち、至る所に建設された教会を通じて得る情報は、どの国家よりも正確で確実なものである。この国は世界最高の情報国家でもあった。
人心と国家、そして世界の情報を一手に握る教皇ジュヴアンセル。その菩薩のような柔和な笑みの中には、電子計算機のごとき怜悧で明晰な頭脳が埋め込まれているのである。
五月の日差しが照りつけ、少々汗ばむ陽気となったこの日、クリミアーナ教国の首都であるアフロディーテでは、ジモークが行われ、教皇以下、全ての枢機卿が列席した華やかな宴が公邸である教皇宮殿で行われていた。
アフロディーテに住むことが許されるのは、多大なる功績を認められた者であり、それに満たないものは世界の各地に赴くことになる。ある者は布教し、ある者は住民を癒し、教え、諭し、ある者は教国の教義に背く者を罰する役割を担う。それは四年に一度のジモーク、いわゆる人事評価で決定され、アフロディーテに住む者、出ていく者が決められるのである。
この日はいわゆる、アフロディーテを出ていく者の送別会であった。そこには悲壮感や敗北感といった負の感情は一切ない。彼らは一度、聖地・アフロディーテに迎えられた者たちなのだ。世界各地に散ったとしても、教会関係者からは羨望の眼差しで見られるのである。
一方で、そこには年端も行かぬ少年少女たちの姿も見られた。彼らはこのアフロディーテで生を受けた者たちであり、初めてこの首都から出ていく者たちである。彼らはいわゆる特権階級の子弟たちであり、余程のことがない限り、次のジモークで首都に呼び戻される。そしてまた、次のジモークで世界に旅立っていく。彼らの大半は狂信的なクリミアーナ教の信者であり、首都と世界各地を往復しながら、とりわけ国家や貴族たちを取り込む役割を担うのである。
パーティーは和やかのうちに終了し、参加者に向かって教皇が祝福の言葉と祈りをささげている。その、優しげで温かい教皇の祈りに誰もが恍惚の表情を浮かべているその中に、たった二人、感情を一切あらわさず、無表情を貫く者がいた。二人は教皇の祈りの最中であるにもかかわらず、小声で言葉を交わしていた。
「クッ・・・本当だったら、僕もこの祝福を受けられたのに・・・」
そう言って唇をかむのは、八歳の少年、カッセルである。彼は教皇の妹であるデメテルのひ孫にあたる。幼いころからその類稀なる才能を発揮し、神童の名をほしいままにしている。そんな彼を宥めるように、隣の少女が優しい口調で語りかける。
「そのようなことを言っては、ダメ。きっと、クリミアーナ様が、必ず導いてくださいます。今回は、クリミアーナ様のお導きなのです」
そう言って神に祈るポーズを取るのは、教皇の孫であるヴィエイユである。今年十四歳になる彼女は、祖父の教皇の血を最も色濃く受け継いでいると、専らの評判の才女である。常に慈悲深い表情を湛えており、物腰も柔らかではあるが、その目の奥は常に研ぎ澄まされた怜悧な頭脳が備わっており、その分析力はカミソリのようであるとも言われる。
当初この二人は、今年のジモークにおいてラマロン皇国に派遣される予定であった。ヴィエイユは皇帝の一族であるケーニッヒ公爵の妻として、そして、カッセルはその皇帝の養子として赴く予定であったが、ついひと月ほど前に突然そのジモークが延期されたのだ。二人ともこの首都に留まれるのはうれしくもあったが、やはり、早く任地に赴き、一人でも多くの人々をクリミアーナ様のお教え、天道に導きたいというのが正直な気持ちであった。
そんな気持ちを察してか、祈りが終わり、皆が退出する中、二人は教皇に呼ばれた。
「ヴィエイユもカッセルも、この度のこと、残念に思っていますね?」
「・・・」
図星を突かれたカッセルは、ただ唇をかんでいる。一方でヴィエイユは、慈悲深い表情を崩すことなく言葉を返す。
「はい。正直申しますと、最初は残念に思っておりました。しかし、これはクリミアーナ様のお導きかと思います。きっと、私をさらに高められる場所を、クリミアーナ様はお導き下さると思います」
教皇は満足そうに頷く。
「ヴィエイユの言う通りです。あなたが赴く予定であったケーニッヒ様は、先日、不慮の事故でお亡くなりになられました。悲しいことです。誰よりもクリミアーナ様への熱き信仰の心をお持ちだっただけに、私も残念でなりません。それにショックを受けたラマロン国皇帝陛下も、現在は病床に臥せっておられるとのこと。無理もありません、お母上様を亡くされ、そして今また、最も信頼を寄せておられた公爵様を亡くされたのですから、その心中は察して余りあります。つまり皇国は現在喪中。従って、カッセルが赴くことも憚られます。理解してください」
教皇は柔らかな笑みを讃えて二人を見る。二人は静かに膝をつき、首を垂れるのであった。
「二人は次のジモークまで待つつもりはありません。ふさわしい任地があれば、特例として赴いていただきます」
その言葉を聞いて二人は思わず顔を上げる。
「ええ、ええ。いいのです。特例を発するのは・・・五十年ぶりでしょうか。それだけの努力をあなた方はされています。これも、クリミアーナ様のお導きでしょう」
二人は目に涙を溜めている。特例で出されるジモークは、言わば教皇候補と同じ意味を持つ。これはつまるところこの二人に対する教皇の期待の表れであり、それを感じた二人はただただ、その感動に打ち震えるしかなかった。
会場を後にした教皇に、一人の司教が近づき、恭しく首を垂れる。
「誠に恐れ入ります。本日、イマーニ様より臨時枢機卿会議の開催を求める要望書が提出されました」
「ほう。臨時枢機卿会議とは・・・。一体いかなる理由でしょうか」
「はい。人類を苦しめてきた難病であります、キリスレイ、ガイッシャ、ルロワンスの特効薬が発見されたとのことで、それを教皇聖下をはじめ、枢機卿の皆様方に発表したいとの要望でございます」
教皇は大きくうなずく。
「イマーニの言うことならば間違いはないでしょう。いいでしょう。会議の開催を許可します。できれば、多くの方に聞いていただくといいでしょう。このような大発見を、我々のみが独占することはよくありませんからね」
「畏まりました」
そう言って司教は恭しくその場を下がっていった。教皇は優しい笑みを浮かべて彼を見送る。そして、ゆっくりと自分の部屋に向けて歩き出した。
まさかこの発表が、全世界を大騒動に巻き込むことになるとは知らずに。
春が、終わろうとしていた。