第百七十話 そして、歴史は大きく動いてゆく
屋敷に帰ると、既に夕食は終わっており、メイたちは風呂に入っているところだった。ペーリスが夜食を作ろうかと聞いてくるが、カレーでお腹がいっぱいだったために、丁寧に断る。
ゴンやフェリスなどから、その日あったことを聞いていると、俺の風呂の番が来たようだ。今日は久しぶりに一人でのんびりと、手足を伸ばして湯船に浸かる。こんな時は自然と鼻歌が出てしまう。
そして、寝室に入ると、ちょうどエリルを寝かしつけたリコがいた。ベッドの隣のベビーベッドにはエリルが大の字になって寝ている。彼女は寝姿も豪快だ。
さて寝ようとベッドに入るが、何故かリコはベッドに入ってこない。
「リコ、どうした?」
「・・・今日、ローニからお許しが出ましたわ」
「お許し?」
リコはニコリと微笑むと、無言で着ているパジャマを脱ぎ、一糸まとわぬ姿になった。
「もう、普段の生活に戻ってもいいそうですわ」
「きれいだ、リコ・・・」
「まだ・・・お腹が出ていますでしょ?恥ずかしいですわ」
そう言って彼女はベッドに入ってくる。そして俺は、夢中でリコを抱きしめた。
子供を産む前より、リコの胸は遥かに豊かになっている。そして、産んだ後の体型もかなり元の状態に戻っているようだ。自慢のきめ細かい肌は衰えることなく、何やら出産後の方がさらに磨きがかかったようにも思える。そんなことを思いながらリコを抱きしめていると、俺の顔に何かが当たった。
「ご・・・ごめんなさい」
「うん?何だろう?」
「エリルには十分飲ませているのですが・・・それでもまだ・・・」
「ああ、いいじゃないか。健康な証拠だ。安心したよ」
俺はリコの顔をじっと見る。
「リコ・・・。一つ、お願いがある」
「何ですの?」
「もう一人、産んでくれないか?」
「もちろんですわ。次は、男の子を・・・。ですからこれからも、存分に愛してくださいませ」
「大好きだ、リコ・・・」
俺は再びリコを強く抱きしめた。
同じ頃、ラマロン皇国皇都の宮殿では、皇太后・レイシスが、眠れぬ夜を過ごしていた。昼過ぎにガルビーが陥落したという知らせを受け、カリエス将軍にはすぐさまガルビーを攻め落とせと命令していた。今、この時もまだ、カリエスがガルビーに向かったという報告はない。皇都の防衛軍を組み込むことは許可したものの、全軍が出撃するわけにはいかず、最低限の兵力は残さねばならない。その編成をしていると聞いていたが、早く出撃をせぬものか。今、攻め込めば効果的な夜襲になるのではないか。意外に早くガルビーは奪還できるのではないか・・・。そんなことを考えている内に、皇太后はしばしのまどろみに墜ちていった。
どれほど寝たのだろうか。思わず目を覚ましたのは、深夜の時間であった。何やら胸騒ぎを覚えた皇太后は、部屋付きの女官を呼ぶ。しかし、返事はない。広い部屋をウロウロしながら、女官たちの名前を呼ぶ。その時、ゆっくりと部屋の扉が開かれた。
「何をしていたのです!スハナですか?ライエンですか?至急・・・」
皇太后は絶句していた。そこには、決してこの部屋に入れるはずのない、鎧兜を装備し、帯剣した騎士が数名立っていたのだ。
「何者です!一体誰の許可を得てこの部屋に入ってきたのです!無礼者めっ!」
皇太后は凛とした声で言い放つ。それを受けて、騎兵の一人が兜を脱ぎ、ゆっくりと近づいてくる。薄闇の中、その姿が見えてくるにつれて、皇太后の目が大きく開かれていく。
「カ・・・カリエス・・・」
男は、ラマロン皇国軍のカリエス将軍だった。彼はゆっくりと皇太后の前に立ち、落ち着いた声で口を開く。
「大魔王め・・・。我が、討伐してくれる」
「何を言っているのです!血迷いましたか将軍!誰か!誰か!謀反です!謀反です!カリエス将軍が叛きました!誰か!誰か!」
部屋の中を歩き回りながら皇太后は絶叫している。その姿を見ながら、カリエス将軍はゆっくりと剣を抜く。
「バカなことはおやめなさい!私を誰だと心得るのです!皇太后、ラマロン・クロウ・レイシスです!何をしているのかわかっているのですか!おやめなさい!やめなさい!近づかないで!来ないで!陛下!陛下ぁ~!」
断末魔の絶叫が上がる。そこには、皇太后の背中に深々と剣が突き立てられている光景があった。スローモーションのように皇太后の体が地面に崩れ落ちていく。カリエスはゆっくりと息を吐きだした。
宰相のマドリンは、兵士たちによって皇都の宮殿にある自室に軟禁されていた。何を問うても答えるものはなく、今はただただ、部屋の中をウロウロしていることしかできなかった。その時、部屋の扉が開き、一人の兵士が入室してきた。
「宰相様、カリエス将軍がお呼びです。ご同行願います」
マドリンは無言でうなずき、兵士の後に従った。
広い宮殿内の廊下を歩いていく。いつもの、通いなれた廊下だが、今日はなぜか遠くに感じる。そして、案内されたのは、皇帝の玉座がある部屋だった。部屋に入ると、男の号泣が部屋の中に響き渡っていた。
「母上様~!!お母上様~~!!お母上様!!目をお開け下さい!目をお開け下さい!フレインスと、フレインスとお呼びください!目を覚ましてください!お母上様~!!」
恥も外聞もなく、豪華な机の上に置かれた老女の生首に縋りつくようにして絶叫しているのは、ラマロン皇国皇帝である。すでに壮年の域に達しようという年齢ではあるが、その振る舞いは少年のようであった。
そしてその生首のすぐ後ろには、カリエス将軍が立っていた。マドリンは足早に将軍の下に近づく。
「将軍!これは!どういうことだ・・・」
「大魔王を討った」
「何だと?」
その話を聞いた皇帝が、あふれ出る涙を拭おうともせずにカリエス将軍に言葉を投げつける。
「カリエス!よくもお母上様を!貴様だけは許さん!余は貴様を・・・」
「皇太后さまわぁ!!!!」
皇帝の言葉をかき消すような大声が、カリエスから発せられる。そのあまりの剣幕に皇帝は言葉を失う。
「皇太后陛下は、すでに身罷られていたのです」
「何だと?お母上様が、既に身罷られていた・・・?」
「左様です。陛下。これは、大魔王が皇太后陛下に人化しているのです。ご覧ください。首を包んでいた布の血が真っ黒になっております。ここにお持ちした時は赤かったものが・・・」
「そ、そなたは何を、何を・・・」
「お連れしろ」
カリエス将軍の、情を感じさせない声。その命令を受けて兵士たちは、泣きわめく皇帝の腕を取って、その部屋から連れ出した。
「将軍、陛下をどうするつもりだ!」
「陛下は、皇太后陛下に化けた大魔王から強い影響を受けておられるので、しばらくは静養していただく。従って、その後の公務については、宰相殿、あなたに委ねたい」
「わ・・・私が?」
「お願いしたい。そして、皇国軍については、私が引き続き見ることとする。我ら二人で、この国を建て直そう」
カリエスはじっとマドリンの顔を見る。そして、ゆっくりと頷く。
「わかった」
「頼む」
そんな短いやり取りを終えて、カリエスは兵士と共に、皇太后の首を持って部屋の外に出て行った。一人残されたマドリンは、誰も座っていない、二つの玉座を呆然と眺めていた。
カリエスは、足早に宮殿の廊下を歩いていく。そして、突き当りのバルコニーの前に出た。その時、そこに控えていた二人の兵士が扉を開ける。眼下に見える広場には、ラマロン軍の兵士がひしめいていた。カリエスは、皇太后の生首を抱え上げ、大声で兵士に呼びかける。
「たった今、ラマロン皇国総司令官、カリエス・シーマ!大魔王を、討ち取った!!」
一瞬の間をおいて、兵士たちから大歓声が起こる。ラマロン皇国の歴史が、大きく動いた。