第百三十四話 希望的観測では、大勝利
サラセニア伯爵の下に一人の男が現れたのは、土砂降りの雨の日であった。
「よく降りますな。お蔭で服がびしょ濡れだ」
「まずは、ご用件を承ろう」
立派な髭を生やし、厳めしい顔つきのサラセニア伯爵が、さらに顔を強張らせている。そんな空気を察したのか、男はニヤリと笑みを浮かべながら、口を開く。
「ラマロン国皇帝陛下に置かれては、貴殿のお命を助けよと仰せです」
「どういうことだ?」
「陛下におかれては、ジュカ王国・・・今はアガルタでしたかな?再び侵攻せよとの御命令が発せられたのです」
「・・・」
サラセニア伯爵は男を睨みつける。
「基本的に我々はアガルタ国の人間を生かしておくつもりはありません。いや、皇国が許しても、世界の人々が許しません。何せ、大魔王に対して討伐を行うこともなく、一つとして対策を打たなかったのですから」
「ジュカの王都が崩壊して以来大魔王の姿は見えぬ。その存在自体怪しいものだ」
「そうなのですか?先般、我らがジュカの王都を陥落せしめた後、その軍の者が大魔王が出現して、軍が壊滅したと報告してきました。そして、その者は発狂しました。考えてもごらんなさい。3000の軍勢が一夜にして命を奪われるなど、聞いたことがない。十万の軍勢に包囲されたのならまだしも、そんな大軍は影も形もなかったと言うではありませんか。我らラマロン皇国はこの国に大魔王が出現したと見て、再び派兵することにしたのです」
「私にどうしろと言うのだ?」
「貴殿のお名前は、我が皇国にも届いております。陛下は貴殿のような方に限って、大魔王の傘下に入るわけはない。もしそうでないなら、皇国の貴族として迎えてもよいと仰せなのです」
「ラマロン皇国の・・・貴族」
「ええ。この国は長い内戦に見舞われておりました。その中を見事な手腕で領地を守り、さらにはその版図を広げ、領国を経営してきた手腕は、陛下のお目に留まっております。先だっての派兵の時に貴殿を攻めなかったのは、そのためです。もし、皇国にお味方いただけるのであれば、現在の身分と領地は保証いたしましょう」
男はグッと体を前に出し、低い声で呟くように口を開く。
「ただし、敵対するというのであれば、前回の如く、皆殺しに致します」
サラセニア伯爵の目が泳いでいる。
「ま、そういうことはないと信じております。もし、我らに味方下さるなら、兵は欲しいだけ貸しましょう。それで大魔王の手下どもを討伐し、版図を広げるのも自由です。その代り、毎年の収穫の際、皇国に収穫物の一部を年貢として納めてもらいたい。こちらは確か・・・小麦が取れるのでしたな?であれば、夏と秋の二回、年貢を納めてもらいたい。皇国が貴殿に求めるのは収穫物の二割、それだけです」
「・・・わかった。しばらく考えさせてくれ」
「ええ、ええ。きっと伯爵様はご自身を大切になさる方と信じておりますので、我々は信じてお待ち申し上げますよ」
男はクックックと含み笑いをしながら、体を震わせた。
「そうか。7人まで儂の誘いに乗ったか!ニヒヒヒヒ」
笑いをこらえきれずに喜びを爆発させているのは、ラマロン皇国軍司令官のジゼウである。
「これで国境付近のアガルタの領主たちの大半は、我らに付くことになったな」
「しかし司令官殿、これらの領地からは、あまり作物の収穫は期待できませんが・・・」
「何を言うか!お前の目は節穴か!これらの領地の収穫量は、我が皇国の民を十分養うに値するぞ!」
「それは、全ての収穫量での話です。彼らが皇国に納めるのはこの二割でしかありません」
「お前はバカだな。そんな馬鹿正直だから出世せんのだ」
部下は露骨にいやそうな顔をする。
「それでは、約束を違えて、多く徴収すると言われるのですか?」
「そんなことはせん。皇国は、この儂は、約束を守る男だ」
「でしたら・・・」
「大バカ者。皇国が奴らに求めるのは、収穫量の二割だ。間違いはない」
「司令官殿のお言葉の意味が、分かりかねます」
「まあ、お前にはわからんだろうな。いいぞ。もう下がっていろ。儂はこれから外出する」
ジゼウはピラピラと手を振って部下の退室を促した。そして、再びニヒヒヒヒと一人、ほくそ笑むのであった。
「・・・一万?それだけの兵を何に使う?」
ジロリとジゼウの顔を睨みつけているのは、皇国軍総司令官のカリエス将軍である。
「ジュカ・・・いや、今はアガルタですかな?そこに進軍するためにです」
「アガルタ?何をしに行くのだ?」
「もちろん、年貢を徴収するために、です」
「お主の言っている意味が分からん。説明せよ」
ジゼウはフッと息を吐き、面倒くさそうな表情を浮かべて口を開く。
「ラマロン国境にあるアガルタの領主をわが手に寝返らせました。間もなく冬に種を蒔いた小麦と夏野菜の収穫ですからな。その年貢の徴収に行くのですよ」
「何?寝返らせた?聞いておらんぞ?しかし、年貢の徴収に一万の軍勢とは・・・」
「報告が先ほど来ましたので、いま、将軍には報告させていただいております。何せ、寝返ったのはサラセニア伯爵を始めとする7家です。それらから年貢を徴収するのにはそれくらいの軍勢は必要になります。何でしたら、内訳をお話ししましょうか?7家の年貢受け取りがそれぞれ兵1000。そして本陣の守りに兵3000です」
「しかし、兵站の問題もある。これはマドリン宰相と・・・」
「いえ、既に皇太后陛下からのお許しはいただいております」
「何?」
胸を張って答えるジゼウに向かって、カリエス将軍は怒りを含んだ声を向ける。
「皇太后陛下は殊の外お喜びでした。ジゼウ、これからの皇国軍はお前が率いればよい、などともったいないお言葉を頂戴しました」
「調子に乗るな。お前は守備隊の指揮は上手いが、攻め手の指揮は苦手だ。せめて副官として・・・」
「結構です!」
「ジゼウ!」
「もうよろしいですかな?もう間もなく収穫が始まってしまいます。私は急がねばなりません。準備もありますので、これで失礼させていただきます」
そう言い捨ててジゼウはカリエス将軍の部屋を出た。
その三日後、司令官ジゼウは、「アガルタ派遣軍総司令官」の職を与えられて、意気揚々と皇都を出発した。出発の直前まで、宰相のマドリンとは兵站の交渉を行ったが、彼は頑として首を縦に振らなかった。結局確保できたのは、二日間分の兵站だけだった。
皇都から国境まで三日かかる。単純計算をすれば、片道分にも満たない兵站しか持たずに出撃することになる。そこでジゼウは、出発の前日になって、兵士たちに一日分の食料を持参のうえ、従軍するように申し渡したのだった。
皇都の民衆に見送られながら、ご機嫌の様子で出撃していくジゼウ総司令官。そんな彼を、マドリン宰相とカリエス将軍は、なんとも言えない表情で見送っていた。
「すまんな、将軍。あれ以上は無理だったのだ」
「いや、いい。むしろ私は、宰相殿の奔走に感謝している」
カリエス将軍は首をゆっくり振りながら答える。
「皇太后陛下は、宮殿内に備蓄している兵站を出せと仰せであったが、あれは最後の砦だ。いよいよ民が飢えるとなった時に出す、最後の食料なのだ」
「私も、それはわかっている。しかしジゼウのやつ、まさか兵士に食料持参を命じるとは・・・。まるで物見遊山に行くようだな」
「上手くいけばいいのですが・・・」
「そうだな。私の懸念が、杞憂に終わることを、祈るのみだ」
「将軍の杞憂とは?」
「いやなに、つまらんことだ。年を取ると心配性になっていかんな」
カリエス将軍はフフフと笑みをこぼす。しかし、その笑みはマドリン宰相には、何かをあきらめたような笑みに見えた。