第千百九話 えらいことになったゾ!
シディーは気が付いていた。このところ、工房で働くリンショックの様子がおかしいことを。平静を装っているが、いつもの彼ではないことは明らかだった。
何かおかしいと感じたのは、三日前のことだった。朝、出勤すると彼女は必ず、すべてのスタッフに声をかける。おはよう、おはようございますというやり取りが行われる。その中でリンショックだけが、いつもとそれが異なっていた。
普段の彼はじろりと彼女の眼を見て、面倒くさそうに、おはようござい、ますと返してくる。だが、三日前から彼は目を合わさずに、ブツブツと呟くように返事をするようになった。
怪しい点はまだある。話しかけると、いつもはケンカ腰と取られてもおかしくないような返事を返すことがよくあるが、このところの彼は、返事を返さず黙って頷くようになった。
これは、明らかに、自分にとって不利益な事柄を隠している。
シディーは彼をそう見ていた。
確かに生意気で癇癪持ちな男であったが、やっていいことと悪いことの判断はつく男だ。人を傷つけたり、人を陥れたりする者ではない。だからこそ、娘のピアがじい、じいと彼に懐くのを許しているのだ。
そんな彼だから、隠していることは取るに足りないことであるに違いはない。何か道具をなくしたか、製品を失敗したか、そんな程度だろう。しかし、彼女の直感はそれだけではないと告げていた。
近いうちに彼から話を聞こう。そんなことを考えていたそのとき、別のドワーフから報告があった。手洗いで不思議なことが起こったという。
まずは確認してくれという言葉に従い、シディーは外に向かう。
工房には二種類の手洗いがあった。一つはいわゆる水洗式の手洗いであり、もう一つは、汲み取り式のそれだ。水洗式を使えるのは、シディーとピア、そしてイデアなどの家族だけで、工房で働く者たちは、汲み取り式を使っていたのだった。
むろん、シディーは工房の手洗いをすべて水洗式にするべきだと主張したが、リンショックをはじめとする工房のドワーフたちは、自分たちで管理する畑の肥やしが無くなると作物が育たないと言って、汲み取り式にこだわったのだった。
正直言ってシディーはこの、汲み取り式のそれが苦手だった。何より鼻を衝くアンモニアの臭いが嫌いだった。だが、工房の者たちからの要望であるために、無下に扱うわけにはいかず、彼女は覚悟を決めてその場所に向かった。
案内されたのは、肥溜めを納めている場所だった。すでにそこからは悪臭が漏れている。彼女は思わずハンカチで鼻を覆う。
彼女の到着を待ちかねたように、控えていたドワーフが扉を開けて、中の肥え桶を取り出してくる。そこにはレールが敷かれていて、桶に予め取り付けられた金属製の輪っかに棒をひっかけて取り出すというシステムだった。ゴロゴロという音とともに、かなり大きな肥え桶が引き出されてきた。
「……オエッ」
思わず声が漏れてしまって、愕然とする。汲み取り式の手洗いは、実家であるドワーフ公国でも同じだったので、この手の臭いには慣れているはずだったが、すでに水洗式に慣れてしまっているからか、こうした臭いに対しての耐性がなくなっているのだろう。意図せずに不躾な声が漏れてしまった。普段の自分であれば、こんな声は何があっても出すことはないのだ。それにしても、相変わらずものすごい臭気だ。これは逆に武器になるのではないかと思わせるほどだ。戦場でこのニオイを充満させれば、敵は二日とかからずに降伏することだろう。一度、マトカルに相談してみようかと考えていたそのとき、ドワーフの一人が、中をご覧下さいと言ってきた。
どうしても、見なければいけない? と目で訴えかけるが、彼はどうしても見てほしいという目をして、ゆっくりと頭を下げた。と同時に、脚立が運ばれてきた。彼女は少し腹に力を入れながらその階段を上った。
「ふぉん?」
再び声が漏れた。そこには予想もしていなかった光景が広がっていた。
通常肥え桶は汚物で満たされているために、その色は黒い、もしくは茶色というのが相場だった。だが、目の前の肥え桶の色は薄い茶色だった。こんな色は見たことがなかった。
「のぁに、これ?」
ハンカチを鼻に当てながら階段を下りる。傍に控えていた若いドワーフが口を開く。
「我々も驚いているのです。通常はもっと汚い色をしているのですが……。今朝、肥え桶を取り出してみたら、このような色になっていました。我々もいろいろと考えましたのですが……。何か、雨水などが入り込んだのかとも考えましたが、ここ数日雨は降っていませんし、雨が降ったとしても、手洗いが水浸しになった記憶はありませんので……。恐れ入りますが、大姫様に、この肥えを作物の肥料として使ってもよいかどうかを、ご判断いただきたいと思いまして……」
「ヒョット、待って」
地面に降り立ったシディーは天を仰ぎながら、右手の人差し指を顎に下に持って行った。頭の中で、すぐに何かがつながった感覚を覚える。彼女はゆっくりと、大きく頷いた。
「ソノ、オホヒメサマ、ヤメテクレナイ?」
若いドワーフはバツの悪そうな表情を浮かべながら、静かに頭を下げた。
◆ ◆ ◆
シディーは自室に戻るとすぐにリンショックを呼び出した。呼び出したはいいが、彼はなかなか現れなかった。仕方なく彼女はもう一度人をやって、無理矢理に彼を連れてくるように命じた。
やがて外から怒鳴り声が聞こえる。そしてその声は、部屋の前でぴたりと止まった。
一瞬の間をおいて扉が開かれた。そこには挙動不審な様子のリンショックが立っていた。
シディーは彼に中に入るように勧めた。
「どうして、呼ばれたのか、わかっているわよね」
「うっ……いや……あの……」
「先ほど、あなたたちが使っているお手洗いに行ってきたわ」
「くっ……」
「肥溜めが、えらいことになっていたわ」
「えらい、こと?」
「心当たりが、あるかしら」
「ううっ」
「別に罰を与えようというわけじゃないわ。何をしたら、あんなことになるのかがわからない。知りたいから、聞いているのよ」
「罰を、与えるわけじゃない……?」
「ええ。怒らないから、正直に言ってもらえないかしら」
「本当に、怒らんか? 罰を、与えぬか?」
「ええ」
「本当に本当に、か?」
「本当に本当に」
「絶対に?」
「しつこいわね!」
「怒るじゃないか……」
「しつこいからよ! 早く言いなさいよ!」
「じっ、実は……」
「実は?」
「おっ、オリハルコンを叩く金づちを、便所に、落としてしまって……な」
「オリハルコン用の金づちぃ? 大きいほう、小さいほう?」
「小さいほうに決まっておろうが! あんな大きな金づち、便所に持って入れるわけはなかろうが! ちょっと想像すれば、わかりそうなものじゃ!」
「それ……私専用のじゃない!」
「いっ、いや……。ちょうどよい重さじゃったし、硬いから打ちやすいので……ちょっと借りただけじゃ……」
「あれはガルマシオンホンでできているの! あれを作るのにどれだけの手間暇がかかったと思っているのよ! 私専用の、オリハルコンを打つ用の金づちをどうして持っていくわけ?」
「そ……そりゃ、そこらへんにほったらかしにしているからじゃ……」
「ほったらかしぃ? それは、置いてあるの!」
「大事なものなら、ちゃんとしまえと……」
「アンタねぇ! いいわ、あんたは向こう三か月、減俸よ」
「ちょっと待ってくれ! 罰を与えんと言うたじゃないか! 嘘をつくのか大姫様ぁ!」
二人の怒鳴り声は外まで響いており、あまりのことに止めに入ったドワーフのおかげで、ようやく二人は落ち着きを取り戻したのだった……。




