第千百十六話 みそでんがく
サンディーユは帰宅すると、まるで我慢の限界とばかりに大きなため息を吐いた。
今日も今日とて、おひいさまに完全に無視をされた。あれだけ小言を言っても反応すら返さない。あれだけ淡々と振舞われてしまっては、もしかして儂の存在自体が見えていないのかも、とすら思ってしまう。いや、もしかして、儂にわからぬように結界を張られてしまっているのやも、などと下らぬことを考えてしまう。
……いやいや、そんなわけはない。
彼は心の中でつぶやきながらゆっくりと首を左右に振る。
おひいさまのことは万事心得ている。何をすれば喜ぶか、何をすれば嫌がるかという点はもちろん、彼女の魔力、技、すべてを知っている。あのおひいさまに限って、儂に気づかれぬ程の結界を張ることは、できないことであった。
……むしろ、それだけのことをしていただいたら、儂も安心して楽隠居できるのだがな。
彼女の魔力総量はここ五百年間で増えてはいない。術もほぼ習得しているために増えてはいない。彼女はそれだけで満足してしまっている。それではいけない。おひいさまには、さらに高みを目指してもらわねばならない。日々鍛錬を行って、魔力総量をさらに高め、新しい術を編み出すように努力していただかなくてはならないのだ。それさえしていただければ、太ったり、太ったり、太ったりを繰り返すこともなくなる。今は何とか痩せてはいるが、それもまた、この儂がうるさく言っているからだ。
本人は目の前にいないが、サンディーユの小言はとどまるところを知らない。未だに玄関で一人、立ちながらブツブツと呟いている。こういう様子を見れば、おひいさまが彼を拒否する気持ちもわからなくはない。
突然、腹が鳴って我に返る。と同時に、空腹感が襲ってくる。
丸一日小言を言うスキルを持つ彼をもってしても、空腹には勝てなかった。彼は再び大きなため息をつくと草鞋を脱いで、ようやく玄関に上がった。
いそいそと自室に向かい、衣服を改める。そういえば、今日は楽しみにしていたものがあったことを思い出して、ウキウキする。この日は、リノスからの供物が届いていたのだ。
彼には毎月一度、油揚げが届く。彼はそれをひと月かけて食べきる。油揚げを適当な大きさに切り、炭火であぶる。少し焦げ目がつく程度が彼の好みだ。それがアツアツのうちに酒とともに腹に流し込むのが、この老弧の唯一の楽しみといえた。
ここ最近ではそのバリエーションが増えた。リノスは醤油というものを作り出し、それを届けてくれるようになっていた。大根をすり、アツアツの油揚げの上に乗せ、そこに醤油をかけると何とも言えぬ味わいになる。今日は一つ、手間をかけてそれを食してみよう。
そんなことを考えながら彼は供物の箱を開ける。
「なんじゃ、これは? みそ、でんがく?」
中には油揚げのほかに、見たこともないものが入っていた。手紙には「みそでんがく」を作ったから食べてみてくれというリノスからの短い手紙が入っていた。炭であぶれ、と書いてある。いつもの癖で、初めて見る食べ物は香りを嗅いでしまう。鼻先にそれをもっていくと、塩辛いような、酸っぱいような香りがする。決してイヤな臭いではない。どちらかといえば、ここに書かれてある通りに調理すれば、それなりに美味いものに仕上がるのではないかという期待感さえ覚えるものだった。
サンディーユはまた、大きなため息をつく。まったくあの男の料理に関する情熱は頭が下がる。彼の料理の腕は素晴らしいものだ。あのおひいさまの心を完全に掴んでしまっている。これは並みのものでは成しえないことだ。甘い菓子を作らせれば天下一品であると言える。それだけではない。こうしてサンディーユの口に合うものまで作ってくる。
……まったく、不思議な男よ。
会った当初は口の上手な若者、という印象だったが、今や出世してアガルタの王となってしまった。しかもそのアガルタは世界にその名を知らぬ者などない程の強国となっている。彼一人の力だけではないだろうが、数千年の時を生きたこの彼をもってしても、ここまでの出世を遂げた者を他に知らなかった。
才があり、見栄えもいい。従って、妻たちも非常に美しい。男として欲しいものをすべて手に入れていると言って過言ではなかった。別に、羨ましいとは思わないが、一度くらい、そんな生活を送ってみたいものだと、心の中でつぶやく。
「いかんいかん。儂の領分は、おひいさまにお仕えすること。意見を申し上げることだ」
彼は自分にそう言い聞かせるようにして、みそでんがくを手に取った。
炭火を起こして、網を敷く。その上にあぶらあげと、みそでんがくを乗せる。すぐに香ばしい香りが鼻をくすぐる。空腹感が増してきた。
酒を取り出し、油揚げに醬油をかける。ジューッといういい音がする。もうたまらぬとばかりに老弧は油揚げを口の中に放り込む。熱い。
ハフハフと息を吐きながら酒を流し込む。美味い。
そんなことを繰り返すこと数度、油揚げは見事に食べつくされてしまった。ちょうど酒もまわってきて、いい感じに仕上がりつつある。
ふと、隣に置いてあったみそでんがくから少し焦げた香りがしてきた。これはいけない、とそれをひっくり返す。
ブツブツと何かが焼けている。これも香ばしい香りがする。間違いなく、酒に合いそうな香りだ。
網の上には長方形に形作られた茶色い食べ物が二つ乗っている。もうすでに香からして、旨そうだ。これは十分に期待が持てるなと思いながら、彼はチビリチビリと酒を愉しむ。
そろそろよさそうだ、と網からそれを取り出す。一口で食べると口中が大やけどをしそうだ。それを小さく切って、十分に冷ませてから口の中に放り込む。
「……!」
言葉を失った。想像以上に美味い。こんなものを食べたのは生まれて初めてのことだった。
「……美味い。美味いな。実に美味い。これは何とも、じゃな。焦がしてしまってしまったと思ったが、意外に焦がしたほうが美味いのやもしれぬ。この香り、味わい。たまらぬわ」
サンディーユはそれを噛みしめるようにして食べ、その都度ごとに酒を流し込んだ。気付けば彼は大酒を煽った影響で、足元がフラフラになっていた。
「これは、儂としたことが……。いつもおひいさまに食べ過ぎてはならぬ、飲みすぎてはならぬと諫言申しておるに、その儂が大酒を……。ホッホッホ、こんなことがあのお方にバレては、いい物笑いの種だ。これからは自重せねばな。じゃが、このみそでんがく、実に美味い。毎日でも食べたいくらいだ。これはひとつ、リノス殿に礼を言わねばならぬな」
酔いは回っていても、彼の律義さは崩れなかった。サンディーユはふらつく足取りで書斎に向かうと、そこでリノスに宛てて丁寧な礼状を書いた。実に結構ないただきもので、大いに満足した。毎日でも食べたいくらいに、美味かった――と。
手紙をしたためながら彼は、あの人の好いリノス殿のことだ。これを見れば、しばらくは毎日みそでんがくを送って来るに違いないと心の中でつぶやく。それはいけないと思いながらも彼は、美味いものが食べたいという欲望を押さえることができなかった。
翌日起床すると、少し頭がくらくらする。いわゆる二日酔いだ。いかんいかん、しっかりせねばと自分に言い聞かせつつ衣服を改めて、おひいさまの許に出仕する。儂がしっかりしていないで、どうしておひいさまに諫言できようか。そんなことをブツブツ言いながら、彼女の部屋の前で畏まる。
「おひいさま、サンディーユにござりまする」
「入りゃ」
思わずキョトンとする。いつもは彼女からの返答はない。彼はそれでも無理を押して部屋に入るのが日常だったからだ。
訝りながらも部屋に入り、おひいさまの前で平伏する。
「おひいさまにはご機嫌も麗しく、サンディーユ、恐悦申し上げます」
「美味そうなものを、食べたようじゃな」
おひいさまの声が聞こえる。ハッとなって顔を上げると、そこには笑顔を浮かべた彼女の姿があった。




