第千百四話 帰宅
リノスが帝都の屋敷に帰ってきたのは、それから三日後のことであった。
彼が屋敷を三日も空けるのは珍しいことといえた。いくら戦いの最中であったとしても、夜は必ず屋敷に帰って来るのが常であったからだ。そうしなければリコが不安がって眠れなくなるというのもその理由の一つだった。
だが、彼としても今回は帰るに帰れない事情があった。占領したホロラドの王都を警備するのに、多大な労力を必要としたからだ。
あの会見後、ほどなくしてホロラド王は王都に還御した。彼は人気のなくなった王都の様子を見て、特に言葉は発しなかったが、その体からは相当な悲しみがにじみ出ていた。
一方でそこに残った人々は大いに喜んだ。国王が還御したとわかると人々は、我先にと彼の許に向かった。王宮に入るころには、その周囲は人だかりができていた。
国王還御の報はたちまち周囲に広まり。それを聞きつけた人々が雪崩を打って王都に戻ってきた。国王様がお戻りになったのであればもう、安心であると人々は考えたのである。
すぐに王都を守る城壁の周囲は大混乱に陥った。連合軍の兵士たちは休息する暇もなく人々の整理に駆り出され、それは王都内だけでなく城壁の外にまで及んだ。
当初は城壁の周辺に入城を待つ列ができていたが、それは見る間に長い列になった。最も長いときで、その列は数キロに及んだのだった。
当然、彼らを一気に王都に入れるわけにはいかず、連合軍は外に待つ人々に対して炊き出しを行い、簡易の手洗いを作るなどして対応に当たった。それでも人々の不満はおさまらず、一時は民衆と連合軍の間で一触即発の状態になることもあった。
だが、国王は弱った足腰を厭わずに輿に乗って城壁の外に出て、人々の慰撫に努めた。さすがに国王を目の前にすると民衆は大人しくなり、すべての人々が片膝をついて彼を迎えた。国王はねぎらいの言葉をかけると同時に、連合軍の兵士たちに迷惑をかけてはならぬ。この度のことはすべて、朕の不徳といたすところ。これからは民の生活を第一に考えた政策を摂ることを約束すると涙ながらに告げるのだった。さすがにその姿を目にした人々は、それ以降は兵士たちを批判することはなくなったのだった。
結果的に、すべての民衆を王都内に戻す作業は三日かかった。リノスらはほぼ不眠不休で王都の列整理にあたり、彼らがようやく王宮内で仮眠を取れたのは警備が始まって二日後の夜であり、それでも三時間後にはまた、交代のために現場に戻ったのであった。
ようやく一段落がついて帝都の屋敷に戻ってきた彼は、明らかに疲れの色が見えていた。同じように戻ってきたマトカルもまた、表情は変わらないが、その雰囲気からは明らかに疲労の色が見えていた。
リコはすぐさま部屋に戻って鎧を脱ぐように二人に指示した。二人は唯々諾々として離れに向かう。その二人の後を追ってメイとシディー、そしてエリルが向かった。言うまでもなく鎧を脱ぐのを手伝うためだ。そうしておいてリコはソレイユとともに浴室に向かい、風呂を沸かした。
リノスの鎧の着脱には相当の時間がかかるために、リコはまず、マトカルの部屋に向かい、彼女に先に風呂に入るように促した。いつもは夫を優先する彼女だが、やはり相当に疲れていたのだろう。ニコリと笑みを浮かべると、そうさせてもらうと言って、エリルを伴って浴室に向かっていった。
ふと、彼女の部屋を見回してみると、モノがほとんどないことに気が付く。本当に必要最低限のものしか置いていない。もしかするとここで剣を振るうなどしてトレーニングをしているのかもしれない。そういえば、先ほどまで装備していた剣と鎧が見当たらない。どこかクローゼットの中にでも仕舞ったのだろうか。ふと、ベッドに視線を向ける。そのすぐ傍には本棚が設えられてあり、そこにはぎっしりと本が詰め込まれていた。
ほとんどが軍関係の書籍だ。これまでの戦いを記した戦記物が多い。その中に絵本がいくつか納められていた。きっと、子供たちに読み聞かせるためのものだろう。マトカルらしいと思うと、少し笑みがこぼれた。
部屋を出たその足でリコは、リノスの部屋に向かった。すでに彼は鎧を脱いでいて、着替えが終わったところだった。メイとシディーは気を使って、彼の脱いだ服を持って部屋を出て行った。
「いや、疲れたよ」
リノスはそう言って笑みを浮かべる。リコはお疲れさまでしたと言って頭を下げる。
「この鎧、本当に優秀だ。重さを感じないし、動きもいつもとほとんど変わらない。完全に俺の体に合わせて作られている。ただ、この数日よく働いたおかげで少し瘦せたかな。少し隙間ができていた」
リノスは傍らに置かれた鎧を撫でながら優し気な笑みを浮かべている。
「あと何回、この鎧を着ることになるのかな」
不意にリノスがそんな言葉を漏らした。リコは少し首をかしげる。
「この鎧は実に優秀で名作といって過言ではないけれども……。できれば、この鎧は宝物庫にでも入れて保管するようになればいいんだけれどもな」
「宝物庫はアガルタにありますでしょう」
「いや、そういう意味じゃない。この世界から争いごとが無くなれば、この鎧を着る機会がなくなるということにつながるじゃないか」
「……」
リコは心の中でしまったと思っていた。夫の言葉の真意を理解できなかった自分を悔いていた。
「……!」
不意にリノスに抱きしめられた。彼にしては珍しく、少し力を入れている。呼吸が少しだけ、苦しい。だが、不快感は全くない。
「屋敷に帰って来るのが、遅くなった。すまない」
「大丈夫、ですわ」
「眠れなかったんじゃないのか」
「そんなことはありませんわ」
リコは噓を言った。実際はこの三日間は彼のことが心配で、ほとんど眠ることができていなかった。
「……俺は、あまり、寝られなかったんだ」
リコは何も言わずに、彼を抱きしめている腕に力を込めた。もうこれだけで、互いが何を言わんとしているのかが十分に伝わった。
「……もうすぐマトカルがお風呂から上がってきますから」
「……まだ、マトの気配はしないよ。あっ」
リノスはそう言うと、抱きしめているリコの腕をほどいて、体を離した。
「もしかして、臭う? 結構頻繁にクリーンの魔法をかけていたんだけれどな。そういえば、今日は一回もかけていないや」
顔が真剣になっている。思わずリコは笑みをこぼした。
「いいえ、全然。不快な臭いは一切しませんわ」
「そうか、よかった」
そう言ってリノスは再びリコを抱きしめた。今度は力を籠めずに、やさしく抱きしめている。
「……結局、ホロラド王国はどうなさるおつもりなのです?」
「うん。このままお咎めなし、とはいかないだろう。軍人が暴走したとはいえ、エリオの町を攻撃した事実は変わらないからな」
「領地の割譲か賠償金。人質を取るのですか」
「そのどれもが、難しいだろう」
そこまで言うとリノスは大きく深呼吸をした。
「……軍事顧問ということで、アガルタかラマロンの将校を送り込んで、軍事を掌握する、というのが適当じゃないかと考えているんだ。民衆も、国王も、軍に対するイメージはかなり悪いものになっている。そこに俺たちが協力をして、軍を立て直そうというものだ」
「……それで、よいかと思いますわ」
「人選をお願いしてもいいだろうか」
「マトカルではなくて?」
「マトと一緒に決めてくれ」
「承知しましたわ」
そのとき、二人の耳にパタパタと足音が聞こえてきた。マトカルとエリルが風呂から上がってきたのだろう。
「もうすぐ二人が来ますわね」
リコは身をよじりながらリノスの腕からすり抜けようとした。だが彼は力を込めて彼女の動きを制した。
「あと二秒だけ。ああ……いい香りだ……」
ああ、この人は本当に疲れていたのだなとリコは心の中でつぶやいた。そんな夫の姿を彼女は正直に、かわいいと思った……。




