第千百三話 天下一品
思わず息をのんだ。御簾の中にいたのは、気品に満ち溢れた男が座っていたからだ。リノスは腹の中で唸っていた。こんな男が世の中にいるのだな、と。
神聖にて侵すべからず――そうした存在は頭の中では理解していたが、実際に存在するとは思ってもみなかった。ただ、彼には同じ雰囲気を纏う者に心当たりがあった。それは妻のリコだった。
彼女の気品は妻たちの中で群を抜いている。ふと、初めて会ったときのことが鮮やかに思い出された。ヒ―データの宮城の廊下で、周囲の空気を変えるほどの雰囲気を纏いながら彼女はこちらに向かって歩いてきた。そこだけがまるで別世界のようであり、その姿に呆然となった、いや、見惚れたという表現が正しいかもしれない。
きっと高貴な貴族の娘なのだろうとぼんやり考えていたところに、宰相閣下の、第一皇女殿下であるとの声に、すぐさま片膝をついたのだ。それはやろうとしてやったのではない。彼女の気品が自然に頭を下げさせたというのが正しい。目の前にいるホロラド王はまさに、それと同じ雰囲気を持っていた。
ゲンゾが恐縮しながら王の傍に控える。王はその様子をちらりと見てすぐに視線を元に戻し、ゆっくりと口を開いた。
「わざわざのお越し、痛み入る。足が弱っており、歩くことがままならぬ。本来であれば、朕がそこもとの許に参らねばならぬところである。無礼の段、平にご容赦いただきたい」
「いいえ、そのようなお気遣い、痛み入ります。別に俺たちは気にしてはいませんから」
「かたじけないことである」
国王はそう言って少し頭を下げた。
……隠しても隠し切れぬ気品というのは、こういうことを言うのだな。
リノスは心の中でつぶやいていた。貫頭衣とも束帯ともつかぬ格好をしている。衣服はどちらかというと粗末なものだ。そんな恰好をしていても周囲を圧する気品がある。なるほど、このお方は本物の王様なのだ。仕事上、いろいろな王様や王族と会ってきたが、彼らの大半は美々しく着飾ることで己の権勢を、地位を誇示する。翻って自分も、公式の場に出るときはそれなりの格好をし、勲章のようなものを付け出る。このお方などは、たとえボロを着ていてもその雰囲気で周囲の者が察してくれるだろう。これは努力でどうなるものでもない。生まれ持った才能ではないか。リコなどは、品性を高めるのは日々の努力だと言っていたが、世の中には神から才能を授けられた者も少なからずいるのだ、などと考えていると、ふと、あの妖の猫や鳩が持ってきた書状のことを思い出した。実にきれいな字だった。リコが一目見て、何ときれいな字でしょうと嘆息していたほどだ。
字には人格が宿ると言われている。これはリコが子供たちに字を教える際に、繰り返し繰り返し教えていることだ。字を見れば、その人がどのような生活を送っているのがわかるのですわ。字を見れば、お母様はあなたたちが日々、どのような意識で生活しているのか、お母様たちの言うことをちゃんと聞いているのかがわかるのですわ、と言っている。そのおかげか、子供たちの字は実にきれいだ。いたずら好きのアリリアも、少し特徴はあるが、優しい字を書く。そう考えると、この国王の字は丁寧かつ優しく、それでいて強さを感じさせる。まさに、そうした人物なのだろう。
「この度のこと、まことに感謝を申し上げる」
国王の声で我に返る。目の前に端座する男は、透き通った目でリノスを眺めている。
「王都の様子はこのゲンゾより聞き及んでいる。これすべて、朕の不徳の致すところである」
「恐れながら」
ゲンゾがリノスらに背を向け、国王に向かって深く平伏した。
「すべての責任はトリヤロスら軍の幹部にございます。国王様のご内意を無視し、己が欲望を叶えんがために権勢をほしいままにいたしました。国王様が責任を感じる必要はないと愚考します」
「そのトリヤロスを説得できなんだは、ひとえに朕の不徳である」
「国王様……」
「王都では傷ついた者もおり、また、脱出した者も多くいると聞く。そのような事態を招いたのは、偏に朕の不手際がもたらせたものである」
「……」
「アガルタ王殿」
「はい」
「王都はそこもとらが占領したとのこと。あとのことは、そなたらに従おう。ただ、願わくば、王都に住まいする、ひいてはこの国に住まいする者たちが、これ以上傷つかぬようにしてくだされたく、偏に願い申し上げる」
王はそう言って頭を下げた。
「大丈夫です。俺は、特にこの国を占領するつもりはありません。国王様におかせられては、速やかに王都にお帰りいただき、政務を取っていただければと思います。俺たちは、この国が落ち着き次第、帰国しようと思いますので」
リノスの言葉に王は、否とも応とも答えなかった。リノスはゲンゾに視線を向けるとさらに言葉を続ける。
「聞けばあなたは国王様を背負って断崖絶壁の崖を下りられたと聞きました。お疲れさまでした。あなたが国王様をお救いいただいたおかげで、俺たちは最小限の被害でこの戦いを終えることができました」
「そんな……もったいないお言葉です。玉体を傷つけてはならぬという一身でした。ただ……。勅勘を受けた身にもかかわらず、玉体を背に負いましたことは、我が身にとりまして、生涯の誉れとなりました」
「ああ、そのことなのですけれどもね。国王様、一つ、お願いがあります」
「何なりと申されよ」
「このゲンゾさんにご褒美を与えてあげてください」
「……承知した。我が国の宝の一つを、与えましょうぞ」
「恐れながら国王様」
「……」
「そのような宝物、私めは結構でございます。ただ、ただ、勘当を解いていただき、元の家来となり、お傍に……」
「褒美は褒美、勘当は勘当。明日以降は、我が許に出仕することはまかりならぬ」
王は意外にも厳しい姿勢を取った。ゲンゾは泣き出しそうな顔で平伏している。肩が小刻みに揺れている。
「国王様、お気持ちはわかりますが、我々はこのゲンゾさんに助けられました。我々も彼には恩があります。何とかお考え直しをいただけませんか」
国王はリノスの言葉に返答せず、静かに目を閉じた。その雰囲気からは彼の言葉を拒否しているのではなく、何かを考えている様子にとれた。
ややあって国王は目を開くと、ゆっくりとゲンゾに視線を向け、大きく頷いた。
「ハッ、ハハァ。ありがたき、幸せ」
そう言ってゲンゾは泣き伏した。
◆ ◆ ◆
国王は翌日に王都にもどることとなった。彼の計らいでリノスら幕僚たちには王宮の一室があてがわれることになり、さらには兵士たちも王都内にある軍の施設を利用することが認められた。これには兵士たちが大喜びしていた。
マトカルやクノゲンらは兵士に乱暴狼藉を起こさぬように命令してくると言って部屋を出て行った。アーモンドも出ていこうとしたが、それをリノスはとどめた。
「……この度のこと、さぞご不満なことでしょう」
「……何のお話か」
「あなたの功績を、すべて俺たちが奪ってしまいました」
「そのようなこと、考えてはおりません」
「せっかく王都を落としたのだから、せめてそこは、ラマロンの領地とするか、少なくとも配下に置くことくらいはするべきであったかもしれません」
「……」
「ただ、俺はそうした場合、さらなる騒動が起こると考えたのです」
「騒動、ですか」
「あの国王様の気品は天下一品です。人を惹きつけるものがある。むろん、人格も素晴らしいお方とお見受けしました。ああいう方をないがしろにしては、彼を慕う者たちがいつまでも背き続けることになるでしょう。あのゲンゾというお方もその一人です。彼は国王のためならば、どんな残酷なことでもやってのけるでしょう」
「……」
「あの国は軍幹部が対立して粛清があったと聞きました。俺は最初、軍人同士の権力争いだと思っていましたが、どうやら内実は違うようですね。国王を芯から慕う者たちと、権力欲の強い者たちとの戦いであったようです。一見後者が勝利したようですが、最終的に勝利したのは前者です。その強さと恐ろしさ、あなたなら、わかると思います」
「承知、しました」
アーモンドは目を閉じたまま、ゆっくりと頭を下げた……。




