第千九十八話 願ったり叶ったり
警戒解除の命令を受けたホロラド軍兵士たちは、一様に安堵の表情を浮かべた。彼らとしても、この三日間の警戒態勢は苦痛以外の何物でもなかった。とはいえ、彼らにはいつでも警戒態勢や出撃ができる姿勢を崩すなという命令が下されていて、おいそれと地べたに寝転がることもできなかった。
それでも彼らはそれぞれの部隊でローテーションを組み、一部の兵士は歩哨に立って警戒を続けたものの、大半の者たちは地面に座るなどして休息をとることができるようになった。
兵士たちはそれでよかったが、司令官たちは、おいそれと休息を取ることはできなかった。彼らは部下である兵士を監督しつつ、上官の命令に備えねばならなかった。この戦いの中で、最も疲弊しているのは、いわゆる下士官と呼ばれる者たちだった。
彼らは一兵卒からたたき上げた者たちと、いわゆる貴族の若者たちという二つのタイプで構成されていた。前者はいわゆる百戦錬磨の者たちであるに対して、後者は経験不足からどうしても楽観主義に流れる傾向にあった。
トリヤロスは、下士官たちのそうした様子を見て、暗雲たる気持ちになった。
彼が最も懸念するのは、アガルタの動向だった。規模五千とはいえ、彼らは過去、寡兵で大軍を撃破した実績が数多くある。直近では、デウスローダの戦いにおいて、三万の大軍を五千の兵で撃退したばかりだ。
あれは平地での戦い、今は山岳戦。平地と山とではおのずから戦い方が違う。しかも、地の利はこちらにある。我々はこの山の隅々まで知り尽くしているのだという考えの一方で、もし、アガルタ軍が本気で攻撃を仕掛けてきたならば、どのようにして陣地を防衛するのか。トリヤロスには正直言って、それに即答できる要素を持ち合わせていなかった。
強固な柵をこしらえて防衛線は張ってあるが、アガルタの兵士に魔法攻撃は効かない。彼らが装備する鎧は、魔法の効果を消滅させるだけでなく、その防御力もかなり優れているという。いわゆるフルアーマーというもので、鎧の隙間を正確に突かねば倒すことはできない。なにより、彼らの纏う漆黒の鎧が実に不気味であり、その威圧感に兵士たちが耐えられるかどうかが問題であった。
確か、デウスローダの戦いにおいては、迫るアガルタ軍の圧力に耐えられず、兵士たちが逃亡したと聞いている。我が軍もそのようなる可能性がないとは言えない。そんなことを考えている自分に気が付き、彼はゆっくりと首を左右に振る。そんなことはありえない。あってはならないことだと、自分に強く言い聞かせた。
◆ ◆ ◆
リノスらアガルタ・ラマロン軍陣営は、ホロラド軍とは対称的に、陣内は落ち着き払っていた。アーモンドは兵士が弛緩するのではないかと心配し、彼自ら前線に赴いて兵士たちを鼓舞したことも、その程よい緊張感を保つ良い薬となっていた。
兵士たちには、敵に来襲に備えて緊張しながら待てと命令してあった。だが、兵士たちは敵が山を下りて攻撃してこないことは十分に知っていた。そのため、彼らには精神的な余裕があった。
リノスは斥候を放って敵の様子を観察していた。むろん敵もこちらに斥候を放っているのは知っていたが、彼はそれに対しては全く意に介さなかった。ただ、敵の様子を知ることだけに集中していた。
誰もこの王がこれから先、何をしようとしているのかはわからなかったが、この王が次に出す命令はおそらく、この戦いを決定づけるものであることは、誰もが承知していた。そして、その命令は自軍を勝利に導くものであることを、全員が信じて疑わなかった。
リノスは敵軍が警戒態勢を解き、休息に入ったと聞いて大きく頷いた。彼は軍議を開くといって幕僚たちを集めた。
そのとき、伝令兵が入ってきて、王に会いたいと言う者がいると告げてきた。それがホロラド王の使いと聞いて、彼はすぐにこちらに通すように命令した。
ゲンゾと名乗る男が現れたのは、幕僚たちが集まったときと同時であった。男は一見して商人風の格好をしていた。だが、眼光は鋭かった。内に秘めたる沸々たる闘志が、目の奥に表れていた。
ゲンゾはリノスたちの前に出ると片膝をつき、首を深く垂れた。
「まずはアガルタ王様にあらせられては、ご機嫌も麗しく何よりとお慶びを申し上げます」
そんな紋切り型の挨拶をした後で男は顔を上げ、じっとリノスの顔を見据えた。
「まずは、アガルタ王様にお詫びをせねばなりません」
お詫び、と聞いてアーモンドが不審な表情を浮かべた。一方でマトカル以下、アガルタの幕僚たちは一切表情を変えなかった。
「私は、ホロラド王様の使い、と申し上げましたが、実際は違います。私は国王様の家来ではございません」
「ほう。では、どういう方ですか」
「元は、私は国王様の傍近くに仕える者でした。しかしながら、現在は勘気を被りまして、勘当の身の上でございます」
「その、勅勘を受けた方が、我々に何の御用でしょう」
リノスの問いかけに、ゲンゾはフッと息を吐いて、気合を入れる様子を見せた。
「勅勘とは、恐れ入ります。そのような者ではございません。ただ、国王様にあらせられては、今回の戦いは、何としても平和に収束させたいと存じておられます」
「それは、同感です」
「しかしながら、国王様にあらせられては現在、後宮に軟禁されている状態であります。勅命を出そうにも、総司令官トリヤロスが命令を聞き入れぬという状態であります」
「では、ホロラド王様は我々に何をご希望でしょうか」
「秘かに後宮を脱出し、こちらの陣所にご動座なさりたいとお考えであります」
「動座……王都を、捨てると言われるのか」
アーモンドが口を開く。その言葉に、ゲンゾはゆっくりと首を振る。
「いいえ。決してそのようなお考えではございません。軍の権威を奪うためでございます」
「軍の権威……」
「左様です。彼らはこれまで、国王様の名のもとに国を動かしてまいりました。国王様が手中になければ、彼らは大義名分を失うことになります」
「……」
アーモンドは黙って腕を組んだ。その様子を見たリノスは、フッと笑みを漏らした。
「ということは、ゲンゾさん、あなたが後宮への手引きをしてくれるということですか」
「その通りです」
「ちなみに、ですが、どのような方法でホロラド王様を脱出させるので?」
「それは……」
ゲンゾは一瞬躊躇したが、リノスの雰囲気に押されたためか、あきらめたような表情を浮かべると、ゆっくりと口を開いた。
「厠を、使います」
「厠」
「左様です。今は使用しておりませんが、後宮には国王専用の厠がございます。その穴を広げ、私が恐れ多いことではございますが、玉体を背負って降り、外に脱出しようと考えております。アガルタ王様におかせられては……」
「あの、小川が流れているところですか?」
「……ツ」
ゲンゾの顔が真っ赤になった。リノスはさらに言葉を続ける。
「いえね、わが手の者が忍び込みまして、そこは見つかったのです。ただし、登っていくと周囲を壁に囲まれた場所に出て、そこから外には出られないという報告があったのです。なるほど、外から開けることができるのですね」
「そ……それでは、アガルタ王様は……」
「ええ。私もホロラド王様を後宮からお連れしようと考えていました。そうなれば、ゲンゾさんが言われた通り、敵は大義名分を失い、士気は大いに下がると見たのです。ただし、その国王様の部屋に忍び込む手段がなかなか見つからずに、難儀していたのです。あなたの訪問は、俺にとって願ったり叶ったりです」
「はっ……ははっ」
「ところでゲンゾさん、一つ聞きたいことがあります」
「ハッ、何なりと」
「先ほど、国王様の家来ではない、勘当を受けたと言っておいででしたが、一体なぜ、勘当されてしまったのですか」
リノスの問いかけに、ゲンゾは再び顔を真っ赤にして俯いた……。




