第千九十七話 敵の動向
ラマロン軍七千とアガルタ軍五千がエリオの町を出て、行軍を開始したのは、それからしばらくしてからのことであった。ホロラド軍に緊張が走った。彼らは敵軍の一挙手一投足をも見逃すまいと、その動きを中止した。
敵軍動く、の報を聞いたトリヤロスは、全軍に戦闘態勢に入るように命じた。
山岳戦には自信があった。敵は攻撃に移るにはどうしても山を登って来なければならない。進軍速度は必ず落ちる。まずはそれを狙って山上から石を雨あられと降らせる。そうしておいて敵を谷に誘い込み、そこで一網打尽とする。それがホロラド軍の基本的な戦略であった。
山中には兵士たちが潜み、敵の動きをつぶさに観察し、報告するように命じていた。この山の頂上に陣を敷いている限り、ホロラド軍が敗北することはないと言えた。
ただ、正直言ってトリヤロスは、アガルタ軍とコトを構えたくはないと考えていた。アガルタの参戦は、彼にとって大いなる誤算であった。
そのラマロン・アガルタ連合軍は、山の麓までやって来ると、ピタリとその動きを止めた。それはホロラド側にとって狙い通りの展開だった。彼らにとって、このまま両軍が睨み合い、膠着状態となることは、まさに注文通りの展開であった。
ただ、彼らには一抹の不安があった。アガルタ軍の動きだ。
彼らから見て、アガルタ軍はちょうど正面に陣取っていた。その右側に、エリオを防衛していた軍勢二千が、左側にアーモンド率いるラマロン軍本隊五千が陣取っていた。彼らはそれを見て、二つの感想を持った。一つが、アガルタ軍が本気でこの戦いに挑もうとしていると捉えた者、もう一つが、このホロラド軍に対する示威行動あると捉えた者にわかれた。それは幕僚たちも同様であり、総司令官たるトリヤロスの許には、臨戦態勢をとるべしという意見と、警戒態勢をとるだけでよいとする意見が寄せられていた。
正直、彼もまた迷っていた。宗主国とはいえ、このエリオの戦いは、アガルタにとって些末な小競り合い程度ではないか。アガルタが前面に立って戦いをするほどのことでもないと考える一方で、マトカル、クノゲン、ホルムと言った歴戦の将を引き連れての参戦は、本気でホロラドを滅ぼそうとしているようにも見えた。
しかし、ラマロン・アガルタ連合軍は麓に陣を張ったまま、その動きをピタリと止めた。
やはり、示威行為かと思ったそのとき、敵に動きがあった。左翼に陣を張っていたアーモンドの軍勢と、正面のアガルタの軍勢が突如として入れ替わった。ホロラド軍はその真意を測りかねた。
敵の動きは見事だった。互いが等間隔に拡がり、一糸乱れぬ動きで交差しながら陣を移動したのである。その練度の高さに、ホロラド軍の将兵は思わず見とれた。
動きがあると言えばそれだけで、それ以降、敵に動きは見られず、そのまま夜を迎えた。
煌々と篝火が焚かれるなかでトリヤロス以下、ホロラド軍の幕僚たちは喧々諤々と意見を交わし合った。どちらかというと、軍議と言えば、総司令官の命令を唯々諾々と受け入れるというのが一般的であり、このように幕僚たちが意見を交わし合うというのは珍しい光景と言えた。それだけホロラド軍内部では迷いが生じていたのである。
トリヤロスは幕僚たちの意見をじっと聞いていた。彼以下、幕僚たちが最も気になっていたのは、敵が陣を動かしたことであった。何の意味もなくそのようなことをすることは考えられなかった。これにはきっと何か裏がある。彼らはそう考えていたのであった。
まず彼らが疑ったのは、夜襲であった。むろん、それに備えて、山中の警備を厳重にしていた。敵に少しでも変な動きがあればすぐに報告がなされるようになっていた。今のところ、敵に目立った動きはなく、時折、伝令と思われる騎馬がエリオの町を往復している程度であった。
トリヤロスは幕僚たちの意見を聞きながら、別のことを考えていた。彼からしてみれば、アガルタ軍の動きが不気味であった。陣を変えることの理由が見つからなかったからだ。
幕僚たちの意見は、おそらくアーモンド率いるラマロン軍が攻撃を仕掛けて来るという点で集約されつつあった。アーモンドが我が軍の正面に陣を敷いたということは、乾坤一擲の突撃攻撃を行うためであり、アガルタは攻撃には参加することはない。エリオの町を警備する後詰に徹するのだというものであった。
だが、トリヤロスの考えは違った。それならば最初からそういう陣立てを行えばよいだけの話であり、わざわざ敵軍を目の前にして陣立てを変える必要はなかった。彼らが陣立てを変えたのは、何かの理由があることは間違いなかった。
トリヤロスの頭の中では、アーモンドがアガルタ王に、何としてもホロラド軍の攻撃を担わせて欲しいと懇願している場面が想像されていた。辟易とした表情を浮かべるアガルタ王とその幕僚たち。彼らはアーモンドの熱意に討たれて渋々陣立ての変更を決断した……。
そこまで考えて彼はその想像を否定する。大体において人生とは、思い描いた通りにはいかないもので、そんな想像通りになることはほぼないことは、彼自身人生経験の一つとして心得ていた。
では、その理由は何だろうか。この山を回り込んで王都に急襲をかけるという策も考えられなくはないが、そこは急峻な山が連なっている。そこに軍勢を向けるのは自殺行為である。山を熟知した者であれば踏破することは可能ではあるが、集団では何としてもそれは無理だ。もし仮に成功して、王都が先に落ちるようなことになれば、それは最悪の状況となるが、その可能性は極めて低い。となると、考えられる可能性は、アガルタによる側面攻撃ということになる。つまりは、アーモンドたちラマロン軍は囮であり、やはり攻撃の主体はアガルタ軍である。西側の尾根を上るのは骨が折れるだろうが、やってできないことではない。もしそれが成功して、側面から攻撃を仕掛けることができれば、我が軍は痛打を被ることになる。トリヤロスの頭の中で、バラバラになっていたピースが一つになる感覚を覚えていた。
「アガルタ軍の狙いは、我が軍の側面攻撃だ」
幕僚たちの議論を断ち切るように、トリヤロスは口を開いた。全員の視線が、彼に集まる。
「左翼隊は、西側の尾根への警戒を怠るな。おそらく、今夜もしくは明日に奇襲攻撃があるだろう。アガルタ軍に動きから目を離すな。動きがあれば即座に逆落としをするのだ」
幕僚たちはキョトンとした表情を浮かべていたが、やがて、平静に戻ると、総司令官に向かって頭を下げた。
しかし、敵軍は一切攻撃の様子を見せなかった。一日、二日経っても、敵軍の陣地は不気味なほどに静まり返っていた。そして三日目。この日も敵の動きはなかった。さすがにトリヤロスはここに至って焦り始めた。
兵士たちは昼夜をわかずに警戒を続けており、全軍で臨戦態勢を敷いていた。それなりに疲労も蓄積し始めていた。ここは警戒を解いて兵士たちを休ませるべきか、このままこの態勢を維持し続けるべきかの悩みが生じ始めていた。
幕僚たちも疲労の色が濃かった。今のところ休息をしましょうと言ってくる者はいなかったが、一様に目の下にはクマが現れており、誰もが限界を迎えているのは明らかだった。
相変わらず敵軍には動きはない。特に柵などを作ることなく、兵士たちは思い思いに野営をしているように見え、到底攻撃を仕掛けてくるようには見えなかった。
何となく、こちらだけが緊張しているのがバカバカしくなってきていた。トリヤロスは、一旦兵士たちに休憩を命じることにした……。




