第千九十六話 敵の士気
ホロラド軍が撤退を始めたという報告がリノスらの許になされたのは、それから二時間余り経った後のことであった。威風堂々と撤退を行うさまを、リノスらは城壁の上からただ静かに見守った。
彼は追撃せよとも防御を固めよとも言わず、ただ、城壁を降りると元の陣所に帰って自席に座り、机に広げられた地図を眺めていた。マトカル、クノゲン、ホルムの三将も彼に続いた。
陣所は不気味なほどに静かだった。彼ら四人はただじっと地図に視線を向けながら、それぞれがこれからの戦略を立てているかのように見えた。見かねたアーモンドが、部屋を用意していますので、そこでお休みくださいと言ったが、リノスはニコリと笑みを浮かべると、ある程度の目星がつけば、アガルタの船で休みますから、気にしないで下さいと言って笑った。
気にしないで下さいと言われても、アーモンドたちはそうですかと引き下がるわけにはいかなかった。とりわけ幕僚たちは戸惑った。宗主国である王が目の前にいるのだ。このまま放ったらかしにというわけにはいかなかった。
彼らは取り急ぎ、酒や食べ物を用意してリノスらの許に持っていった。だが、リノスは意外だと言わんばかりの表情を浮かべた。彼らの意図を測りかねているように見えた。
大体においてこういう場合には、王やその周囲の者たちをもてなさねばならないというのが、ラマロン軍将兵たちの常識であった。場合によっては、傍に仕える女性を求められる場合もある。むろんそれは、傍にあって給仕をするだけではない。彼らの性欲も満たさねばならない。
エリオの町には、いわゆる娼館も設置されてはいた。彼らはそこから女性を派遣させようとしたが、さすがにそれは、アーモンドが必要ないと断じて制した。我々は、アガルタ側から命令があった場合にのみ動けばよいのだと言って笑みを見せた。その様子も、ラマロン軍将兵を大いに困惑させた。
アーモンドとしても、この王は見れば見るほどに不思議な人物であると考えていた。あまりにも自然な様子であるために、表立って口にする者はいないが、戦場に女性を伴ってやって来ているという点から見ても、この王は大胆不敵であると言えた。もちろん、そうした例はないとはいえない。だがしかし、その女性――マトカルは、彼の妃となってはいるが、妾腹とはいえ、先代陛下のご落胤なのだ。見方によっては、ラマロン皇国に対する侮蔑であると捉えられても仕方のない行為だった。
しかし、この二人からはいわゆる男と女の空気が一切感じられなかった。最初こそ、仲のよい様子を見せていたが、今は完全にそれは消しされられていた。男女の関係にある者同士の、何とも言えぬちょっとした視線の絡ませ方や距離感、というものがこの二人には一切感じられなかった。どちらかというと、アーモンドと幕僚たちに似た雰囲気――幾多の修羅場を潜り抜けてきた同志――を醸し出していた。
マトカルだけではない。クノゲンも、ホルムにも、その雰囲気が横溢していた。まさにこの四人は一心同体。彼らは王が言葉を発する前にその意図を汲み取り、行動に移すことができるだろうと思わせるものがあった。アーモンドはこの四人の中には入ることはできないなと思うと同時に、つい最近幕僚に取り立てられたホルムと言う男に嫉妬に似た興味を持った。
一方のホロラド軍は、およそ半日をかけてウセス山までの撤退を完了した。そのときはすでに、日が傾いていた。
彼らは一睡もすることなく、それから陣屋の建設に取り掛かった。木を切り倒して柵を作り、トリヤロスら幹部が休息する簡易な小屋を建設した。そして、朝を迎える頃になってようやくそれは完了した。
リノスらは軍船で休んでいたが、朝になって再びエリオの町に上陸すると、すぐに敵軍の様子が矢継ぎ早に報告されてきた。アーモンドをはじめ、ラマロン軍の将兵たちは、緊張しながら王の命令を待った。
「……ハリネズミみたいだな」
アガルタ王リノスは、そんな言葉を発した。それが意外だったと見えて、幕僚たちは一様に顔を見合わせた。
確かに敵は強固な防衛線を引いていた。その陣立てからは、蟻一匹王都には寄せ付けないという意思が汲み取れた。伝令兵からの報告をまとめれば、敵は数で勝っているにもかかわらず、いわゆる魚鱗の陣を敷いていた。これでは中央突破を敢行して王都に向かうのは難しい。さりとて、敵軍を包囲して壊滅させるという戦法は、場所が山地であるという点から見ても、それは難しいと考えられた。将兵の一部には、なぜあのときに敵軍を追撃しなかったのか。全軍で追い打ちをかけていれば敵を正面突破して、今頃は王都を攻めていただろうにと不満を感じる者もいた。
そんな彼らの心情を察してか、リノスはさらに言葉を続けた。
「これは……示威行為かな」
つまりは、ホロラド軍のこの陣立ては、戦う意思はないと彼は考えたのである。ラマロン軍将兵の一部がざわついた。
「いや、俺たちが攻撃を仕掛ければ、彼らもまた応戦することでしょう。だが、本音はこの……ウセス山でしたっけ? この山で俺たちの攻撃を食い止めたい。できれば、俺たちの攻撃の意気を削ぎたいということなのかなと思うのですが……。ホルムはどう思う?」
指名されたホルムはハッと返事をすると、大きく頷いた。
「私が敵の立場であり、本気で迎撃をしようとするのであれば、兵を横に展開させます。むろん、王都の防衛は強化せねばなりませんが、数は多いのです。敵を迎撃しつつ包囲し、殲滅を狙います」
「クノゲンはどうだ」
「ホルムの考えとほぼ、変わりません。おそらく地の利は敵の方にありましょう。私だったら、ホルムと同じように部隊を横に展開させておいて、敵が動くと同時に間道を使ってエリオの町に襲撃をかけます」
「マトカルはどうだ」
「クノゲン、ホルムの意見と同じだ。最精鋭の者を集めておいて、中央突破を狙うというのも面白いな」
「それは、マトカルだけしかできない芸当だ。たぶん、成功するだろうけれど」
リノスの言葉に、クノゲンとホルムの顔から笑みがこぼれる。その様子を見ていたリノスは不意に目の前のラマロン軍幕僚たちに向き直ると、静かに口を開いた。
「もし、何かご意見がありましたら、どうぞ」
誰も口を開こうとはしなかった。だが、そんな中ひとり、ブリトーが恐る恐る口を開いた。
「あの……アガルタ王様にあらせられては、敵の士気は低い、したがって、攻撃を加えれば、瓦解するだろうというお考えでしょうか」
「うーん。すぐに瓦解することはないと考えています。我々が攻撃を加えれば敵は死に物狂いで抵抗するでしょう。さすがにそこまで士気が下がっているとは思えないですね」
「さ、左様ですか……」
「アガルタ王様の言われることが事実であるとすれば……」
アーモンドが口を開いた。全員の視線が彼に集まる。
「敵に撤退を期待しているようでは、その段階で戦いに負けている。いま、攻撃を加えれば、確かに敵は死に物狂いで抵抗はするだろうが、どこかで兵の一部が撤退すれば、敵は雪崩を打って崩れることだろう。これは好機であると言わねばならない。我らは乾坤一擲の攻撃を加えて敵を切り崩し、その勢いをかって王都を襲撃するのだ」
幕僚たちの雰囲気が一変した。緊張感が高まると共に、徐々に興奮も高まっているように見えた。そのとき、リノスが口を開いた。
「敵を切り崩す前に、もう少し、敵の士気を下げた方がいいかもしれませんね」
アーモンドは思わず目を見開いた。




