第千六十五話 ありえないこと
「くっ……ううっ」
美しい顔が歪んでいる。ヴィエイユはなおも片手で大槌を持ち上げようとするが、それはびくともしない。シディーが無表情のままそれを再び片手で持ち、ゆっくりと持ち上げる。
「……」
ヴィエイユの表情が唖然としたものにかわる。シディーは持っていた大槌を静かに自分の傍に置いた。
「ちょっと、ごめんくださいませ」
ヴィエイユは立ち上がると、無言のままシディーの腕をペタペタと触り始めた。途端にシディーの表情が歪む。だが、彼女はそうした様子には一切怯まず、右腕、左腕と触っていく。
ようやく彼女の体が離れた。シディーは思わず両手で自身の両腕をさすった。
「お見かけしたところ、そんなに太い腕ではなさそうですのに……どうして、あのような重い大槌を片手で持ち上げられるのかしら。ドワーフ族は皆、力が強いのでしょうか」
ヴィエイユが誰に言うともなく呟く。シディーはそれに対して何も答えず、ただ、まるで汚いものを見るかのような目でヴィエイユを睨みつけていた。
「失礼ですが、この大槌は、メイリアス様もお使いになるのですか? ……お使いにならないようですね」
ヴィエイユは納得の表情を浮かべる。彼女はそれからあらぬ方向に視線を泳がせていたが、やがて大きく息を吐き出すと、再びシディーに視線を向けた。
「つまるところ、アガルタで開発されているオリハルコンの研究は、コンシディー様の技術なくしては成り立たたないのでございますね。てっきり、メイリアス王妃が主体になって進めておいでと思っておりましたが……」
ヴィエイユは一度、シディーから視線を外すと、まるで呟くようにして口を開いた。
「やはり、オリハルコンの研究は我が教国では不可能ということね。それがわかっただけでも、成果だわ」
彼女は立ち上がると、お忙しいところ失礼しましたと言って部屋を出ていった。
ヴィエイユの姿が見えなくなると、シディーは再び彼女に触られた部分に手を当てると、クリーンの魔法をかけた。
ようやく応接室を出て、自分の工房に戻ろうとしていると、奥の工房からイデアとピアの声が聞こえてきた。何となく嫌な予感がしたので外から覗いていると、そこにはヴィエイユの両手を引っ張るイデアとピアの姿があり、その様子をポリスやリンショックらが笑みを湛えながら見守っていた。
「何をしているの」
思わずそう言って扉を開けると、二人の子供は、かあたーんといってシディーに近づいてきた。聞けば二人はヴィエイユに屋敷に寄っていくように言ったが、彼女はこのまま帰るのだと言う。
「お姉ちゃんは忙しいのだから、邪魔しちゃダメじゃない」
一気にイデアとピアのテンションが落ちたのがわかる。二人とも本当に落ち込んでいるようだ。
「まあまあそう言わずに、屋敷に招いてやりなされ、大姫様」
口を開いたのはリンショックだ。うるせぇよ、黙っていろよと言う言葉が口をついて出そうになるが、必死にこらえる。何故だかわからないが、リンショックたちは満足そうに頷いている。
「いえいえ、お邪魔になりますから~。そのお気持ちだけで十分です~」
ヴィエイユはそう言って笑顔を見せるが、それは完全に作り笑いであることは、シディーには手にとるようにわかった。この女も早く帰ればいいのにと思いつつ、子供たちに先に屋敷に帰りなさいと言おうとしたそのとき、イデアとピアが目に涙を浮かべていることに気がついた。
……メンドクセェな。
彼女は心の中でそう呟くと、キュッと目を閉じ、念話で夫に子供たちの要望を伝えた。リノスもさすがに決断することができず、少し待ってくれと返答してきたが、やがて、リコがいいと言っているので、ヴィエイユを屋敷に連れてこいという声が聞こえてきた。
◆ ◆ ◆
「本日はお招きにあずかりまして、光栄でございます」
帝都の屋敷に着くとヴィエイユは悪びれることもなく、リコら妻たちの前でそんな挨拶をした。自分でもわかっていたが、俺は何とも言えぬ表情を浮かべていたし、シディーも同じような表情を浮かべていた。リコはさすがで、彼女自身も、この小娘の突然の訪問は面白いはずはなかっただろうが、そんなことはおくびにも出さずに、笑顔でヴィエイユを迎え入れた。
彼女は俺たちへの挨拶もそこそこに、早速子供たちに囲まれて、外に連れ出されていった。聞いてみると、花壇で花の首飾りなどを作っているようだった。俺は少し心配したが、リコは問題ありませんわと言って落ち着き払っていた。そして、ペーリスの許に行くと、夕食の献立を相談し始めた。
その夕食は、いわゆるおにぎりパーティーだった。リコ、メイ、ソレイユらがおにぎりをつくり、ペーリスが肉、野菜などの料理をあっと言う間に拵えた。これは子供たちが一番好きなメニューで、その理由は、各々が食べたいものを食べたいだけ食べられるからだ。
ヴィエイユは初めて見る料理に少し戸惑っていたが、すぐにその状況を理解して料理を楽しみ始めた。意外にこの娘はよく食べる。おにぎりをパカパカッと二つ三つ口の中に放り込んだかと思えば、肉や野菜、そして油ものなども食べていく。この日は、生魚、いわゆる刺身も出た。俺は手巻き寿司よろしく、具の入っていないおにぎりを真ん中で割り、その中に刺身を入れて食べていたが、ヴィエイユはそれも美味しそうですねと言って、それをまた、三つほど口の中に放り込んでいた。
そんな中、イデアが不意にヴィエイユに話しかけた。
「おねえちゃんのお婿さんは、どんな人なの?」
一瞬、オイオイ、デリケートなことを聞くんじゃないよと思ったが、特に何も言わずにいた。だが、ヴィエイユの答えに俺は驚愕してしまった。
「お婿さんはまだいないのよ。イデア君が大きくなったら、お嫁さんにしてくれるかしら?」
「うん、いいよー」
……まさかの婚約が成立してしまった。しかも、ヴィエイユの逆プロポーズでだ。これはいけない。アガルタとクリミアーナが親戚同士になる。これは世界を揺るがすことになる。というより、一体何歳年が離れているのだ。彼が大人になったら、ヴィエイユは……。いや、それはあり得ないだろう。うちの息子に限って、そんなことはあるまい。いや、だが、待てよ? その昔、友人の母親と結婚したプロ野球選手がいたな……。まさか彼もそのパターン? そんなわけはあるまい。
その会話を聞いて以降俺は、食事が喉を通らなかった。
食事を食べるだけ食べたヴィエイユは、大満足で迎賓館に帰っていった。子供たちは名残惜しそうだったが、彼女はまた遊びに来ますねと言って、笑顔で転移結界に乗った。その顔は本当に楽しそうだった。
子供たちを風呂に入れ、寝室に入ると、どっと疲れが押し寄せてきて、俺は早々にベッドに入る。しばらくするとリコが入ってきて、俺の隣に体を横たえる。
「まったく……突然ヴィエイユがやって来るとはな。疲れちゃったよ」
「まあ、楽しんでいただけたようで、よかったですわ」
「それにしてもイデアとピアには困ったよ。まさかヴィエイユを屋敷に呼ぶとは」
「あのお方は、本当にウチの子供たちのことを好きでいらっしゃるようですわ。特に政治的な考えなどはないと思います。心配いりませんわ」
「それは、ソレイユが言っていたのかな?」
「いいえ、見ていればわかりますわ」
「そうか……。でも、アイツとんでもないことを口にしていたな。まさかイデアにお嫁さんにしてくれなんてな。イデアもいいよーなんて言って……本当に困ったよ。本当になったらどうするんだよ」
俺の言葉を聞いた瞬間、リコの雰囲気が一変した。
「それは、絶対に、あり得ませんわ。ゼッタイに、ありえま、せん」
……そうだよね。




