第千五十五話 闇夜の命令
再び禍々しい建物と対峙する。並の魔法使いではこの建物を破壊することはおろか、傷一つすらつけることはできないだろう。果たして、自分の魔力を使ったとしても、どこまで太刀打ちできるのかはわからない。ただ、命を懸ける価値はある、とアーヤ・カマンは考えていた。たとえここで命を失おうとも、この若い魔法使いは、その背中で危機を感じてくれるはずだと確信していた。
数回、ゆっくりと深呼吸をする。気持ちを落ち着けようとするが、心臓の鼓動が聞こえてくるくらいに気分は高まっていて、落ち着く気配はない。彼はそれでも、深呼吸を続ける。
魔力を練っていることが若者たちにもわかった。おそらく総帥は雷撃を生み出そうとしていることは明らかだった。現代における魔法使いの最高スキルを用いての雷撃がどれほどの威力を生み出すのか、若者たちは総帥の傍から離れつつ、固唾を飲んでその様子を見守った。
上空に黒い雲が徐々に生み出されていく。と同時に、アーヤ・カマンは詠唱を始める。それに呼応するかのように、黒い雲は徐々に広がっていく。空には星がきらめいていたが、それらを完全に覆う程の雲の厚さであった。
彼の魔力が空に吸われているのが、若者たちの眼にもはっきりと見えた。彼は一様に体を震わせた。いわゆる、武者震いであった。
どのくらい詠唱をしていただろうか。気がつけば、空のあちこちから雷光が見えている。いよいよ雷撃を放つのだ。
アーヤ・カマンは両手を高々と上げた。そして、絶叫にも似た声を叫ぶ。
一瞬のうちに周囲が真っ白になった。一呼吸おいて、凄まじい轟音が聞こえ、同時に衝撃波が起こった。あまりのことに、若者たちは全員が仰け反るようにして地面に倒れた。
気がつけば、あれほど厚く空を覆っていた黒雲は雲散していて、空には満天の星空が輝いていた。彼らはその空を素直に美しいと思った。
「そ……総帥!」
若者の一人の声で我に返る。見ると、総帥、アーヤ・カマンががっくりと膝をついていた。上半身は起きたままで、まるで膝から崩れ落ちたような態勢だった。視線はあらぬ方向に向けられており、すでに意識はないようにさえも思えた。若者たちは慌てて彼の傍に寄り、介抱しようと彼の体を抱きとめ、後方に移動させた。そのときだった。地面が揺れた。
再び轟音と衝撃波が訪れた。彼らは本能的にその場にうつ伏せに倒れ伏す。中の一人は、総帥の上に覆いかぶさっていた。一瞬の間に静寂が訪れる。
一体何が起こったのかが彼らにはわからなかった。思わず顔を上げたそのとき、若者たちの頭に石のようなものが落ちてきた。痛みを感じて空を見上げた直後、黒い無数の塊が周囲に落ちてきた。彼らは再び海老のように丸くなりながら臥せ、身を固くしてその場をやり過ごそうと努めた。
しばらくしてゆっくりと顔を上げてみる。どうやら空からは何も降ってきてはいないようだ。
「みんな、無事か」
周囲に声をかけてみる。ヨロヨロと起き上がる影が見える。別のところからは、総帥もご無事だと声がする。皆は、その声がしたところに集まっていく。
幸いにして怪我をした者はいなかった。総帥も衰弱は激しいが、目立った外傷はない。ホッと胸を撫で下ろしていると、アーヤ・カマンが呻くように口を開いた。
「あ……あの施設は、建物は」
全員が無言のまま立ち上がって歩き出す。一人は素早く総帥を負ぶって後ろから付いてきた。
「……」
全員が絶句してその場に立ち尽くした。あの巨大で禍々しい建物が瓦礫の山となって消えていたのだ。総帥の乾坤一擲の攻撃が、これほどの威力を持っていたことに、彼らは一様に驚嘆したのだった。
全員が無言のまま顔を見合わせる。別に相談をしたわけではなかったが、めいめいがライトを出して周囲を照らしながら、建物のあった場所に向かって降りていく。先ほど、土魔法で固めた道が役に立っている。最初の頃よりは相当に歩きやすくなっていた。
施設の周りは瓦礫の山となっていたが、それでも、その中に納められていたと思われる機器や備品類などが散見された。中にはめちゃくちゃに壊れてい原形をとどめていないものもある一方で、複雑な形をしたものが壁に埋め込まれているなど、詳しいことはわからないにしても、この施設の中で相当レベルの高い研究が行われていたことが十分に伝わる様子だった。
「ひっ、人が、人がいます!」
若者の叫ぶような声が聞こえた。慌てて皆で声のする場所に向かう。そこには、二人の女性の姿があった。一人は羊獣人と思われる女性で、もう一人は、小柄な、一見すると少女のような趣を湛えた女性だった。
若者たちは最初、この二人は冒険者か商人ではないかと推察した。この入り口のなない施設の中に誰か人がいるなどとは考えもしなかった。オリハルコンという未知の鉱物を研究する以上、相当の危険が付きまとう。アガルタはこの密閉された施設にオリハルコンを保管して、どこかの遠隔地でこの内部の様子を窺っていたのではないかとさえ考えていたのだった。しかし、この二人の格好はどう考えても旅姿ではなく、いわゆる平服の類であった。何より、羊獣人の女性は白衣を着ていた。このことから、この二人は破壊された施設の中で研究に携わっていたと考えよかった。
一体どうやってここに入ったのだ、という疑問が全員の中に湧き上がる。見たところ、地下からの出入り口は見当たらない。まさか、壁をすり抜けたのかと思う者さえあった。
「いっ、息があります。どうやら、気を失っているようです」
女性を調べている男がそんな声を上げた。全員の顔が強張った。あれだけの爆発を受けて、さらには、上空から雨のように降る瓦礫の中で生きていること自体が、彼らにとっては想像もできないことだった。彼らとて、これまで様々な現場を目撃してきた。中には凄惨な現場を経験することもあった。大体爆発に巻き込まれた人間は、その体が激しく損傷するもので、たとえ助かったとしても、元の生活に戻ることはできない程のダメージを負うものだ。しかし、目の前に倒れている女性は原形をとどめている。彼らの常識ではあり得ない光景であると言えた。
また、女性の顔をよく見ると、二人とも美形であった。とりわけ羊獣人の女性は気品があり、相当な良家の女性であるように見えた。若者たちは思わず大きなため息をついた。
「……せ」
若者に負われている総帥の力ない声が聞こえた。思わず後ろを振り返ると、彼は再び小さな声で呟いた。
「……すのだ」
蚊の鳴くような声だ。若者は、恐れ入りますが、何と言われましたかと聞き返すと、今度は怒気を帯びた声が返って来た。
「殺せ、殺すのだ! その女たちを殺せ!」
「え……」
「何をしている、殺せ! 殺すのだ! その女たちを、殺すのだ!」
そう言うとアーヤ・カマンは、ハアハアと苦しそうな息をしながら若者の背の上に項垂れた。彼は苦しい息の中でなおも、殺せ、殺せと呟き続けている。
若者たちは思わず顔を見合わせた。本当に殺すのかといった表情を皆浮かべている。彼らは短剣を所持していた。殺すのは簡単だ。だが、本当のこの二人の命を奪ってよいものかという葛藤が彼らにの中にはあった。何より、二人が帯びている気品が、そうした気持ちを萎えさせていた。
「そ……総帥のご命令だ。殺るしかない」
若者の一人がそう呟いて、短剣を抜いた。それに釣られるようにして、その隣にいた男もまた短剣を抜いた。二人はそれぞれ女性の許に近づき、片膝をついた。
一瞬の間をおいて、二人の短剣が同時に、女性たちの喉元に突き付けられた……。