第千五十二話 禍々しい建物
その建物は確かに、アガルタの都の北方にあった。宿屋の窓――彼らは二階に部屋をとった――から、それらしき建物が見えていたのだ。
異様な光景だった。高い城壁の上に、黒い煙突のようなものが飛び出していた。宿屋の主人の話からすると、あそこでオリハルコンの研究が行われていると見て、間違いはなかった。
アーヤ・カマンはしばらくの間、じっとその光景を眺めていたが、やがて、すぐにあそこに向かうと言い、馬車を用意するように命じた。若い魔法使いたちは、荷解きもまだ終わっていない状況で、また出発するのかと思ったが、それを口に出すことはできなかった。
宿屋の主人は呆れた表情を浮かべた。すぐに出発するのであれば、どうして先ほどの馬車を待たせておかなかったのだと言ったが、若い魔法使いはただ、苦笑いを浮かべる他はなかった。
馬車は呼んだが、なかなかそれは来なかった。総帥は、まるで蝋人形のように窓に視線を向けたまま動かず、従者たちは手持無沙汰となった。馬車がいつ来るかもわからないために、荷解きをしたり、食事を摂ったりすることができなかった。彼らは一様にイライラしながら、なかなか来ない馬車を待ち続けた。その一方で、アーヤ・カマンはただじっと、窓の外に視線を向け続けた。
陽が傾く頃になって、ようやく馬車が用意できたが、それは先ほど乗ってきたものよりも一回り小さいもので、四人がやっとの大きさだった。若者たちは顔を見合わせた。つまり、五人のうち、誰がここに残るのかを目配せで相談を始めた。
正直言って彼らは休みたかった。すでに馬車を呼んでから三時間は経過している。それだけの時間があれば、荷解きをして、部屋で寛ぐこともできていたのだ。彼らの不満は爆発寸前だった。これだけの待ち時間を食わされても、アーヤ・カマンは馬車の到着を待ちわびたように、今から出発すると言って、いそいそと準備を始めている。彼らには総帥のその様子も、ストレスの元になっていた。中には、施設など動きはしないのだから、見に行くのは明日でもいいじゃないかと小さな声で呟く者さえいた。
いくら若いと言っても、彼らにはこの旅の意味がいまいち理解できないでいた。確かに、旅自体はむしろ楽しいものだった。総帥の旅とあって、食事は豪華なものだったし、旅自体も基本的に乗り物に乗っての移動で、ほとんど歩くことはなかった。この老人がいなければ、旅は常に徒歩での移動であったろうし、食事も粗末な、下手をすると一日一食も食べられるかどうかの状態になることだろう。そうしたことがなく、これまで経験したことのないレベルで旅ができたことは嬉しいことであったが、目的のない旅は、彼らを精神的に疲労させていた。
総帥は、オリハルコンの研究を見なければならないと言う。それでは、その研究施設を、研究を確認したらば、そのまま国へ帰るのかと聞かれれば、おそらく答えは否だろう。その後の総帥の行動が彼らには読めなかった。下手をすると研究の成果が出るまでここで待つ、などと言うことすら言い出しかねない状況だった。彼らとしても、未来が見えない状況に、少しずつ不安が募っていたのだった。
できれば荷解きをして少し休みたい。ベッドで横になって昼寝をしたい、というのが彼らの偽らざる本音だった。だが、総帥の命令は絶対だった。彼らはほんのひと時の目配せの間に、その犠牲をなる者たちを選んだ。選ばれたのは、五人の中で最も若い者三名だった。
「……やっと休めますね」
馬車を見送ると、従者の一人であるウイルドが、吐き出すようにして口を開いた。彼はヤレヤレといった表情を浮かべながら、隣に控えている同僚に視線を向ける。
「メラル、さっさと荷解きをしてしまいましょう」
「いや、その前に、食事を摂らないか」
「そうだな。皆には悪いが……」
「総帥がすぐに帰ってくるとは思えない。食事を摂って荷解きをして、部屋で休んでいれば自然と腹も減ってくる。問題はないだろう」
その言葉にウイルドは大きく頷いた。
◆ ◆ ◆
四人が乗り込んだ馬車は、再び大手門を出て大きく右に曲がり、北に向かって走り出した。ちょうど、夕日が沈む時間帯で、西日が車内を赤く染めた。まぶしそうに手で光を遮りながら車窓を見ると、地平線に吸い込まれるようにして赤く焼けた太陽が沈んでいる光景が目に入った。若者たちはその光景を素直に雄大で美しいと感じたが、アーヤ・カマンは、これから先の魔法協会、ひいては魔法使いたちの未来を表しているような気がして、思わず目を逸らせた。
程なくして馬車はそこに到着した。全員がその建物を見て絶句し、その場に立ち尽くした。それほど、オリハルコンの研究施設は異様な佇まいだった。漆黒の建物は異彩を放っており、禍々しさを感じさせた。とりわけ、天に伸びた巨大な建物は、まるで神の心臓を突こうとしているような様子で、皆は一様に息をのんだ。
初めて見る光景に戸惑う若者たちをよそに、アーヤ・カマンは、馬車を操る馭者にご苦労だったと言うと、その建物に向かってまるで吸い寄せられるようにして歩き始めた。その様子を見て、従者たちはギョッとした表情を浮かべた。確かになだらかな坂道が続いているように見えるが、それは建物に近づくにつれて急峻になっている。すでに老境に達している総帥がそこに足を踏み入れると、転がり落ちる可能性すらあった。彼らは慌てて総帥の後を追いかける。
陽が落ちて周囲が暗くなってきているためか、その建物までの距離はすぐ近くにあるように見えたが、実際に歩いてみると、そこまではかなりの距離があるように思えた。総帥は相変わらず無言のまま、何かに憑りつかれたかのように歩いている。
「お危のうございます」
坂の傾斜が強くなってきたところで、従者の一人が素早く総帥の前に回り込み、その手を握る。彼は若者に手を取られながら歩く速さを緩めながら、ゆっくりと坂を下っていく。
どのくらい歩いただろうか。実際は一分程度であったが、彼らにはその時間が十分にも十五分にも思えていた。後ろを振り返ると、これまで降りてきた坂がまるで巨大な壁のように見えた。その上がりきったところが、ほのかに赤く染まっている。夕陽が照らしているのは理解できていたが、彼らにはそれが何だか尊いようなものに思えてならなかった。
その光はやがて消えた。その直後、辺りは真っ暗な闇に包まれた。
すぐ傍にいるはずなのに、誰がどこにいるのかさえ判別できなかった。若者たちはたじろいだが、すぐに総帥が、ライトを出せと言った。その声に押されるようにして、一番若い魔法使いがライトを出した。
「……足りぬ」
総帥は言葉を続けた。確かに、周囲は明るくなったが、肝心の目の前にある施設が見えなかった。残りの四人がすぐさまライトを出すと周囲が明るくなった。この闇の中でこれだけライトを出して明るくすると、魔物たちに襲われるのではないかと考えたが、アーヤ・カマンはそんなことはお構いなしに、壁の前に座り込むと、ゆっくりと右手を当てた。
「……土魔法。錬成されている。……一体、どんな論理でこれを? ……魔力が……まさか、一気にこれを作ったというのか」
陽も落ちて周囲が肌寒くなりつつある中で、アーヤ・カマンは額にうっすらとねばい汗を浮かべていた。従者たちはその異様な光景を目の前にして、ただ、見守る他はなかった。
その頃、施設の中ではメイとシディーが研究を行っていた。
「じゃあ、これだけ仕掛けて、帰りましょう」
「そうね。今回は限界まで出力して大丈夫だと思う」
「では、お願いします。前回の出力値を超えたら、教えてください、シディーちゃん」
「わかった」
二人は、未だ、外の様子を知らずにいた……。




