第千五十話 魔力の壁
翌朝、結界から出て来たアーヤ・カマンは、疲れていた。目の下に濃いクマができていた。昨晩は一睡もしていないのは誰が見ても明らかだった。
彼に従う若手魔法使いたちはその姿に戸惑ったが、それでも、朝食を摂りましょうと勧めると、彼は無言のまま頷いた。
この結界村は、元々は井戸と手洗い程度の最低限の設備しかなかったが、ここ最近はリノスが温泉を掘り出したことから、湯も提供されるようになっていた。当初、リノスは土魔法で湯屋を建設して、日本の銭湯と同じようなものを作ろうと意気込んだが、この世界の人々は湯に体を浸けるという習慣がないために、それは普及しないだろうという妻たちのアドバイスに従って、彼は泣く泣く建設を諦めた経緯があった。結果的に、温泉を溜める大きな湯舟を土魔法で作り、その周囲を囲むように建物が建てられていた。ここに泊る人々は靴を履いたままそこに向かい、めいめいが必要な分だけ湯をもらって部屋まで帰るという形で利用していた。リノスはそんなことでは苦情が出るのではないかと思っていたが、彼の予想に反してこの温泉の提供は評判を呼び、人々は文句の一つも言うことなく、嬉々として湯を貰いに往復するのであった。
ちなみに、ここの温泉は炭酸泉であり、リノスは折に触れてここの湯を自宅に運び込み、温泉ライフを楽しんでいた。この温泉の効能はわからなかったが、何となく、この湯に浸かった翌日は調子が良くなるような気がしていたのだった。
この若い魔法使いたちも、昨日は湯で体を拭き清めていた。実を言うと、魔法使いの間では、この湯で体を拭き清めると魔力が上がると言われていて、彼らもそれにあやかろうとしたのだった。むろん根拠などはなかったが、実を言うと、この湯に体を浸すことで血管が拡張され、血流がよくなる。そのために魔力の供給がよくなり、結果的に使える魔力が増えるということが発見されるのは、それから十年後のことである。
結界村には様々な露店が出ていて、さながら一つの町が形成されていた。若い魔法使いは、それらの店から思い思いの料理を購入し、設えらえているフリースペースのテーブルの上に並べた。彼らは一様に楽しそうだ。アーヤ・カマンはそんな彼らを眺めながら大きなため息をつく。
「お前たち、この結界村を見て、どう思うか」
まるで消え入りそうな声で口を開いた彼を、若者たちは不思議そうな目で眺めている。
「見事な施設であると感じました」
その中の一人が口を開く。アーヤ・カマンはうつろな目で彼を眺めながらさらに言葉を続ける。
「それだけか」
「はっ……」
「この結界村は、魔力で作られている。それに関して、何も思わぬのか」
「お言葉ですが総帥」
若者は胸を張った。さも自信がありげという様子だった。
「これらの施設は、結界石で作られたものです」
「……」
自分が一度は考え、信じようとした答えだと思いながら、黙って男の言葉に耳を傾ける。
「アガルタには様々な効果を付与した結界石がございます。これらの施設も、その結界石で作られたものです」
「その石は発見したのか」
「これは総帥としたことが。これだけの施設を作り出す結界石をどうしてわかりやすいところに置きましょうか。おそらくそれは地中に埋められていると考えます」
「何か、魔力のようなものは感じたのか」
「それは……」
「儂は、あの施設全体に魔力を感じ取った。練りに練られた魔力であると感じた。どういう理論であの施設が作られているのかが解読できなかった。一度は貴様の言うように結界石で作られているのではないかと考えてみたが……。儂はあの中で横になりながら強大な魔力を感じていた。魔力探知を発動させるまでもない、凄まじい魔力だ。お前たちはそれを感じなかったのか」
アーヤ・カマンの問いかけに、若者たちは顔を見合わせている。その様子を見て、彼は大きなため息をついた。
無知、というのは幸せなことだな。これほどの魔力を感じ取れぬのであれば、昨夜はさぞよく眠れたことだろう。
彼はそんなことを心の中で呟きながら、ゆっくりと首を左右に振った。今の魔法協会に所属する魔法使いたちは、いかにレベルの高い魔法を習得するかに注力している。いや、しすぎていると言っても過言ではない。そのために、本来自身の身を守るはずの魔力探知などの習得が疎かになっている。彼らを冒険者と共に旅に出せばおそらく、半年もたたぬうちに半数以上が命を落とすだろう。こうした傾向は薄々感じてはいたが、あれだけの魔力を込められた施設の内部に居て、それを感じ取ることのできなかったという事実、つまりは、魔法協会がここまでの堕落と劣化しているという事実は、アーヤ・カマンに衝撃を与えていた。
そんな彼の様子など知ったことではないとばかりに、若者たちは嬉々として食事を楽しんでいた。アーヤ・カマンは到底、食事に手を付ける気分にはならなかった。
魔法協会が、魔法という学問が崩壊する未来が、彼にははっきりと見えていた。ただ一方で、この若者たちを連れてきたのは間違いではなかったという思いもあった。
この若者たちは優秀だ。才能もある。この若者たちが現状を知れば大きなショックを受けることだろう。屈辱を受けることだろう。いま、この施設が作られている魔法は、彼らが想像もつかない程の膨大な魔力が使われている。その差は埋められはしないが、彼らの残された人生はまだ長い。その人生を使って、その差を埋める努力をすればよいのだ。学ぶ、というのはつまるところ、屈辱を感じることと同義であると彼は考えていた。若者のうちに強大な相手に触れるということは、彼らの人生に大きな影響と利益をもたらすはずなのだ。
アーヤ・カマンはゆっくりと立ち上がった。まずは、オリハルコンの研究施設を探し、そこからその施設をどうするのか、ひいてはこの若い魔法使いに何をどう伝えるかを考えればいいのだと自分に言い聞かせた。
「さて、出発するとしよう。まずは、アガルタの都に向かう。そこで情報を収集するとしよう」
総帥の言葉に、若者たちは慌てて残りの料理を口の中に詰め込んだ。
◆ ◆ ◆
結果的に、アーヤ・カマンたちはアガルタの都に入ることができなかった。そこは巨大な結界が張られていたからである。
都を守る城壁が見えた瞬間に、アーヤ・カマンは全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。それは魔力に恐れをなしているのか、感動のための反応であるのか、彼自身にもわからなかった。若者たちは総帥の様子がおかしいことに気づいてはいたが、敢えて何も声をかけなかった。
さらに都に近づくと、若者の一人がピクリと反応した。彼は車窓にしがみつくようにして外を眺めた。続いてもう一人の若者が反応し、しばらくすると、全員が車窓にしがみついている状態となった。
都に到着し、馬車から降りると、全員が城壁を仰ぎ見た。彼らには天を覆う結界が見えていた。邪念のある者、殺意を持つ者などを排除する効果が付与された結界だ。膨大な魔力を隠そうともせず、むしろ、威圧するかのような佇まいだった。これは結界師がよく用いる手法で、強めの魔力を込めて結界の耐久性を誇示し、相手の戦意を喪失させることを目的とするが、この結界も同じものであると彼らは解釈した。だが、それはあまりにも圧力が強すぎた。皆の足がすくみ、そこから一歩も前に進むことができなかった。
「こ……こんなことは、ありえない……」
若者の一人が誰に言うともなく呟く。その声を聞きながら、アーヤ・カマンは少しずつ平静を取り戻していった……。