第千四十四話 狐の説教
それは突然のことだった。朝、皆で朝食を囲んでいると、リノスが驚いた表情を浮かべながら固まった。その直後、ペーリスとフェリスが同じ表情を浮かべた。一体何事かと家族はポカンとその様子を眺めていると、マトカルが誰に言うともなく敵襲だと言って立ち上がった。
「いや、マト、待て」
リノスはマトカルを止めたが、その額には薄っすらと汗がにじんでいた。
静かに勝手口が開いて、何のためらいもなく一人の少女が入ってきた。その様子を見てゴンが腰を抜かした。
少女はキョロキョロと周囲を見廻していたが、やがて再び歩きだした。その先にはゴンがいた。
「どきゃ」
可愛らしい声だ。だがゴンはアワアワと声にならない声を出しながら震えている。
「ええい、どけと申すに」
少女がクイッと顎をしゃくる。その瞬間、ゴンの姿が消えた。家族の皆に緊張が走る。ただ、リノス、フェリス、ペーリス、マトカルの四人だけは、皆とは違う方向を見ていた。その視線の先には、ゴンがいた。彼は壁に叩きつけられ、気を失っていた。
「ん」
まるでそれが当然であるように少女はゴンが腰かけていた椅子に座る。
「妾の食事を用意してたも」
ヤレヤレといった表情で彼女は命令を下す。そんな彼女にリノスはためらいながら声をかける。
「あの……一体どうされたのです、おひいさま」
「おひいさま?」
リコが驚きの声を上げる。メイ、シディー、ソレイユが一様にギョッとした表情を浮かべる。一方で子供たちは突然の訪問者が珍しいのか、目をキラキラさせている。
「話はあとじゃ。まずは妾の食事を用意してたも」
「お腹がすいているのですか。いや、我が家の朝食は、大皿に盛られた料理をめいめいが好きなだけ皿に取るというスタイルです」
「ほう……。ということは、この料理すべて妾が食しても大事ないかや?」
「まあ、大事ありませんね」
「うふふ」
おひいさまはニコリを笑みを浮かべると、肉と卵を炒めた料理が盛られた皿を手に取ると、それをひょいと持ち上げて自分の目の前に置いた。そしてフォークを手に取ると、ガツガツと食べ始めた。
「お行儀悪い~」
突然アリリアが声を上げる。おひいさまの動きがピタリと止まる。
「音を立てて食べちゃいけないんだよ。それに、お料理は少しずつ切り分けて食べるんだよ。ほら、おねえちゃんみたいに」
アリリアが指さす先にはエリルがいた。彼女の皿は料理がまんべんなく、しかも彩りよく盛り付けられている。おひいさまの目が鋭くなった。
「この家にも、サンディーユがおるの」
「ははは」
リノスは思わず笑い声を上げた。まさにアリリアの言葉は、折に触れて母たちがから言われている言葉だった。一体どの口がそれを言うのかとリノスは内心思っていたのだった。
おひいさまは渋々、アリリアの言葉に従いながら大人しく食事を摂った。
「……で、一体、どうなさったのです?」
リノスの言葉に、おひいさまは毅然とした様子で口を開いた。
「妾はもう、あの屋敷に戻らぬ。しばらくこの屋敷においてたも」
「しばらくって……どこか行くアテはあるのですか」
「あるにはある。妾の別宅じゃ」
「ははぁ」
それならそこに行けばいいじゃないかとリノスは心の中でツッコミを入れる。その様子を感じ取ったのか、おひいさまはまるで吐き捨てるように口を開いた。
「今いけば、サンディーユがおるであろうからの」
「……一体何があったのです?」
聞けばサンディーユは丸一日おひいさまに付いて、彼女のことを監視し続けたらしい。特に食べ物に関しての小言はうるさく、それはいけません、それはそこまでになさいませと言い続けたらしい。お陰で彼女は痩せることができたが、そのあまりにも強い締め付けに、精神的に参ってしまったらしい。
彼女はもう、一分一秒たりともあの屋敷には居たくないと言って涙を浮かべた。まあ、気持ちはわからなくはない。ただ、痩せて健康的になったのは彼のお蔭と言わねばならない。
相変わらず人化した彼女は萌え道の真ん中を突いている。このまま世に出ればそれなりのファンが付くだろうなと思われる程の出来栄えだ。ただ、どうしたことか、今回は尻尾が出ている。確かにかわいらしさに拍車をかけているが、これは、何かの戦略だろうか。その尻尾をアリリアが珍しそうに眺めている。ゆらゆらと左右に揺れる尻尾を追って、彼女の顔が左右に揺れているのが何とも面白い。
「あの……おひいさま」
いつの間にかゴンが側にやって来て、おひいさまに耳打ちしている。彼女は面倒くさそうな表情を浮かべながら彼を睨みつける。
「尻尾が見えているでありますー」
その瞬間、彼女の尻尾が消えた。どうやら人化が甘かったらしい。
「しばらくはここにおって、羽を伸ばすつもりじゃによって、よろしく頼むぞえ」
そう言って彼女はニコリと笑う。まあ、しばらくは匿わねばならないかなと思っていたそのとき、勝手口の扉がノックされた。人の気配はない。一体何だと思っていると、再び扉がノックされた。やはり人の気配はない。同時に、邪念や悪意の類も感じない。
はぁ~いとメイが扉を開ける。外に立っていたのは何と、サンディーユだった。彼は驚くメイの傍をすり抜けるようにして屋敷の中に入ってきた。おひいさまが思わず立ち上がる。彼は全く音をさせずにスルスルと俺の前まで進んでくるとスッと座り込み、深々と頭を下げた。
「この度は、おひいさまの件について、大いに迷惑をかけた。このサンディーユ臥してお詫びを申し上げる」
老狐は額を床にすりつけるようにして平伏している。リノスは慌てて彼の体を引き起こす。
「大丈夫です。そんなに謝ってもらわなくても、大丈夫ですから」
「いや、儂にはわかるのだ。きっと、おひいさまはそなたらに大いに迷惑をかけておるに相違ないのだ」
「大丈夫です。おひいさまもつい先ほどお見えになったばかりですので、特に俺たちには迷惑は掛かっていません」
「だったらよいのだが……」
そう言いながらサンディーユはゴンに視線を向ける。彼もコクコクと頷きながら、なにも迷惑はかかっていないでありますーと言ってフォローを入れている。
「さて、おひいさま」
彼は立ち上がると、まるで瞬間移動のようにおひいさまの前に座った。彼女は彼女で可愛らしい顔が歪んでしまっている。おひいさまの力をもってすれば簡単に逃げられそうなものだが、この老狐も相当の使い手であるために、さすがの彼女もこの距離から逃げ切るのは困難であるように見えた。
「何卒、お屋敷にお帰り下さい。おひいさまがおいでになりませんと、儀式などが執り行われず、様々な障害が出ております。一刻も早くお屋敷にお戻りなさって、おひいさまとしての役割を果たされるようお願いを申し上げますっ!」
「ならば条件がある。そなた、毎日妾の許に出仕するのを止めてたも」
「私とてやりたくてやっているわけではありませぬ。そもそもこれは、おひいさまの暴飲暴食が引き金となっております。それさえやめていただければ、某はご機嫌伺いをするだけでよいのです。何も老骨に鞭うって朝から晩までお側に控えることもないのでございます」
「それはわかったと申しておるではないかっ」
「このやり取りは何度目でありましょう!」
二人の声のボリュームが上がってきた。俺はわからないように二人に結界を張る。すぐに声は聞こえなくなった。ただ、二人の様子を見ていると、サンディーユの言うことが正しいために、おひいさまは徐々に劣勢に立たされているようだった。声は聞こえないが、目の前で行われているパントマイムショーは、子供達には珍しかったのか、皆、並んでその様子を眺めている。
「……長いな」
リノスは思わず声を上げた。もう、話を始めてから三時間は経とうとしている。子供たちは飽きて外に遊びに出ていた。隣に控えていたリコが、ゆっくりと口を開いた。
「お二人とも狐だからかしら」
「狐って話が長いんだっけ?」
「コンコンと説教をすると申しますわ」
「……俺は、嫌いじゃないな」
サンディーユの説教が終わり、おひいさまは疲れ切った様子で屋敷に帰っていったのは、それからさらに二時間後のことであった……。
次話より新章突入します。どうぞご期待ください!