第千四十一話 新作のお菓子
「ゴン、本当に大丈夫か?」
リノスは不安そうな面持ちを浮かべている。その目の前にはゴンが背中を向けていた。
「大丈夫で、あります」
声が震えている。大丈夫ではないのは明らかだった。
ゴンはフッと小さなため息を吐いた。彼はひとり、帝都の屋敷の裏庭に設えられている祠の前に立っていた。
この日は三年に一度のおひいさまへのご機嫌伺いの日であった。彼は振り返ると、リノスに向かって行ってくるでありますと言って笑顔を見せた。彼としては精いっぱいの笑顔のつもりであった。だが、明らかにそれは引きつっている。リノスはやはり俺も一緒に行くよと言いかけたが、彼はその心を拒否するかのように再び背中を向けた。
心の中で呪文を唱えると、一瞬にして景色が変わる。いつ見ても威圧的な建物であるし、いつ来ても腸が締め付けられる思いがする。
いつもはうしろめたさから、ひたすらにおひいさまに許しを請う、と言うのを繰り返してきた。場合によっては、主人のリノスに付いて来てもらって、何とかとりなしてもらうというのも一度や二度ではなかった。
だが、この日のゴンはいつもとは違った。今回は、ある程度の自信があった。
変態女官の千枝・左枝にまずはご機嫌伺いに向かう。本来であればサンディーユに伺うのが筋だが、正直言ってあのジイさんは役に立たない。何かコトがあったとき、傍でとりなしてくれるのはあの女官たちだ。変態ではあるが、役には立つ。ジジイは後回しでいい。
「……」
二人は明らかに侮蔑の表情を浮かべている。そんな顔をされる覚えはない。明らかにこちらを下に見ているが、身分としてはこちらの方が上なのだ。
そんな彼女らに腹立ちを覚えつつ、彼は持ってきた土産を差し出した。ペーリスに頼み込んで作ってもらったけぇき、という食べ物だ。ゴンも大好きなお菓子で、これまでおひいさまに献上したことのない、新作のものであった。
三宝に乗せ、紫の袱紗をかけている。千枝が怪訝な表情を浮かべながら袱紗の端を少しつまんで中身を見る。
「なぁんじゃ、これは」
明らかに期待外れと言わんばかりの表情だ。ゴンは腹の中で馬鹿めと嘯く。小麦粉を使って作ったもので、茶色いソースがかかっていて、見た目はあまりよくはないが、焼いた砂糖に酒を混ぜ、果実をすりつぶして作られたこのソースは、特にリコレットなどの女性たちに大好評なのだ。今日はリンゴのソースを混ぜたものを持ってきたが、これは果実によって味が大きく変わる。きっと、この変態どもも気に入るに違いない。況やおひいさまをおいてをや。きっと、新しい味のけぇきができたならば、すべての種類を持って来いというに決まっている。そして、サンディーユに食べ過ぎはなりませんぞと怒られるのだ。いや、この女官たちは根が変態であるために、こんな上品な味がわからなのかもしれない。それはそれで楽しみだ、このような不味いものを言っておいて、おひいさまが絶賛したら、手のひらを返して、妾たちも美味しい菓子じゃと思っておりましたと戸惑いながらその場を取り繕うのだ。その光景も見てみたいな、などと心の中で呟きながら、
「新しいお菓子でございます。どうぞ、ご賞味ください」
と恭しく一礼する。二人は顔を見合わせていたが、やがて三方を手前に引き寄せると、クルリとゴンに背中を向けると、二人で何やらこそこそと話を始めた。どうやらけぇきを二人で分けているようだ。
「ほう、これはまた、上品な」
「リンゴ? の味が、これは、何とも……」
二人は顔を見合わせながらペチャペチャと音を立てながら食べている。リノス家でこれをするとすぐにリコレット殿の声が飛んでくる。音を立てて食事をするのは、もっともお行儀の悪いことですわっ! あなただけがお行儀の悪いお方だと思われるだけならよいですが、その両親や乳母、あなたにかかわる方々全員がお行儀の悪い人だと思われるのです。そんなことは、断じてしてはいけませんわっ! ……この女官どもに聞かせたいほどだ。まったく、そのようなことをしてはいけませんわっ!
「ゴン」
「いけませんわっ! ……はっ」
「なにがいけないのじゃ?」
「あの……ええと……まあ、その……何と申しましょうか……。あまり、食しすぎると、食あたりを、起こされては、いけないと思いまして……」
「なんの、我らが食あたりなど起こそうか。いらぬ心配をするでない」
「ははっ」
「うむ。美味なる菓子であった。これはおひいさまには……」
「献上しておりません」
「何と。我らが初めてと申すか。これはこれはおひいさまに大いに申し訳ないことをしたわぇ。そうと知れば、我らは食さぬものを。ただ、もう食してしまったからには仕方がない。おひいさまにはよしなに取り計らうぞえ」
「ははっ。ありがたき幸せ」
計略図に当たるとはこのことだと、ゴンは心の中で呟く。おひいさまではなく、この二人に最初に新作の菓子を食べさせたのは、偏にこのためだった。彼女らが味方に付けば百人力だ。これで今回の報告は万全だと彼はホッと胸を撫で下ろした。
二人に案内されておひいさまの部屋に向かう。いつもは戦々恐々としながら進む廊下が、今日は何故か輝いて見える。よく掃除が行き届いている。安心感というのは、いつもは古臭いと思っていた風景が、百万ドルの景色に変える。彼は初めてこの屋敷に来た時のことを思い出していた。
必死で二百年の時を生き続けて、初めておひいさまの眷属となることを許されたときは、天にも昇る気持ちだった。あの大門は壮観だったし、この廊下も神々しいものに見えた。それがどうだ、年月を重ねるにつれて、もっとも来たくはない場所になってしまった。だが、今回は違う。あのときの新鮮な感情を思い出していた。
いつもの部屋に通されて、おひいさまの到着を待つ。今回は自信がある。遊びはほとんどやっていない。リノス家の子供たちともよく遊んでやった。アリリアには困るが、彼女も成長したのか、以前のようにナイフを持ち出して尻尾を切ろうとはしなくなった。主人・リノスからも盤石の信頼を受けているし、何より、メイ殿と共に、オリハルコンの研究に従事している。これは画期的な技術だ。もし、これが確立されれば、世の中がひっくり返る。それはおひいさまらにとっても影響のある話だ。まず、熱が無限に生み出せるのだ。ということは、火を起こさずに済む。火を起こすために魔法を覚え、威力を増すために厳しい修行を行うこともない。それだけ見ても、オリハルコンという鉱物の持つ可能性の多様性が見て取れる。まだ、その威力をコントロールしきれておらず、コンシディー殿が体が痺れて動けなくなったということはあるが、それもすぐに解決されることだろう。吾輩はこれ程の大事業に参画しているのだ。今回はきっと褒めてくれるはずだ。身分も少しは上がるはずだ。
そんな期待に胸を膨らませていると、千枝・左枝の声で、おひいさまのおなぁーりぃーという声が響き渡る。ゴンはゆっくりと平伏する。
スルスルと御簾が上がっていく音がする。だが、待てど暮らせど、おひいさまの声が聞こえない。不思議に思いながら、恐る恐る顔を上げてみる。いつもは御前に控えている千枝・左枝の姿がない。そして、そのまま顔を上げると、そこには憤怒の表情を浮かべたおひいさまの姿があった。彼女の体の周りに狐火が見える。一つや二つではない。数えて九つもの狐火が現れていた。これは、彼女が最高レベルで怒っていることを表している。
……これは、一体、何で、ありますか?
諸事情により、4/15(火)投稿予定の原稿を前倒しして掲載します。次回投稿は4/22(火)の予定!