第千四十話 恐ろしき
「ハテ恐ろしき、執念じゃなぁ……」
思わず『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門のセリフが口をついて出た。それほど、この結末は予想すらしていない出来事だった。
大体、弟を殺すのにここまでするのか、というのが正直な感想だ。メルシ王太子は、サウシ王子を殺すために、徹底的に準備をしていた。まず、病身を偽るために食事を抜き、体を痩せさせた。剣を学んだのは己の健康を誇示するためではなく、弟を殺すためだったというのがまた、恐ろしい。確かに、毎日の絶食と剣の訓練との相乗効果で体躯はみるみる痩せていく。折に触れてめまいを起こしたのは、急激に痩せたことによる副作用だ。察するところ、低血糖の状態なっていたのではないだろうか。
剣を学んだところで付焼刃になるだけだと思うが、至近距離で急所を確実に突くというのであれば、それなりの訓練となる。この王太子はそこまで計算していたのだ。
さらには、侍医であるククマを使って、王子に自身の体調をこまめに報告させ続けていた。情報は正確なので、嘘偽りはない。あの用心深い王子が騙されるのも仕方がないと言えば仕方がないことと言えた。何より、王子を信用させるために、このククマを敢えて万座の前で恥をかかせるという芝居まで演じているのは、執念深さを通り越してもはやこれは狂気と言えるだろう。
それだけではない。王太子は弟を騙すと同時に、家来たちもふるいにかけていた。自分は空腹を抱えてベッドで横になりながら、その裏では誰と誰が裏切るのかをじっと観察し続けていた。
彼は弟を殺すと、家来に命じてサウシ王子の従者も斬った。並行して、王子に寝返ろうとした貴族たちの粛清も実行した。その数は数十家に及び、まさに血の粛清が行われていた。
これもまた、見事なくらいに手際がよかった。王子殺害の情報が流れるや、待機していた国軍が動き出して裏切り者たちの屋敷に向かい、問答無用で主人たちの首を刎ね、女性たちを城内に連行して幽閉した。軍勢はそのままサウシ王子の領地に進み、現在行軍中とのことだ。おそらく王子側は何の準備もできていないことだろう。陥落するのは時間の問題であると言えた。
俺はじっとソレイユとマトカルの報告に耳を傾けていた。話を聞きながらこの二人の優秀さに脱帽をしていた。
まず、ソレイユが俺に報告をしてきたのが、サウシ王子が殺されて十分後のことだった。その上、報告を聞きながら城内の様子が精霊たちからどんどん伝えられてくる。まさに、遠方での出来事を生中継で聞いているという具合だ。
ただ、精霊たちは血が流れる場面を激しく嫌う。王子とその配下の者たちが斬られたという段階で報告は途絶えてしまったが、それでも第一報をこれだけ早く掴めたことは、俺たちにとって大いに有利に働く。
そのすぐ後にマトカルが入室してきて、国軍の動きを報告した。これも、時間的に三十分程度の誤差しかないだろうというくらいの速さだった。王子が帰国する際に諜報員を送り込んだと聞いていたが、それがここまで機能しているとは知らなかった。しかも何故か、フェアリ―ドラゴンたちが次々と報告をもって俺たちの前に現れる。一体いつから彼らを使いこなせるようになったのだろうか。
その疑問はあとで聞くとして、俺はただじっと報告を聞きながら粛清の趨勢を見守っていたが、メルシ王太子の入念に練られた計画は一切の無駄がなく、日が暮れる頃には大方の作戦は完了していた。サウシ王子が殺されたのが昼前であり、六時間後にはほぼすべての作戦が完了していた計算だ。まさに、練りに練った計画と言って差し支えないだろう。
その夜、俺はメイにこの件を伝えた。彼女は驚きはしたが、それだけだった。どちらかと言うと今はオリハルコンの研究に集中しているので、それどころではないのかもしれない。ただ彼女は、王子から預かった留学生たちのことを気にかけていた。その彼女に俺は、国に帰るのか、アガルタ大学に残るのかは、彼らが選択すればいいと伝えた。メイはそうですね、と言って笑みを見せた。その顔は悲しそうでもあり、安心したかのようでもあった。
結局、サウシ王子から派遣された留学生たちは全員、アガルタ大学に残って研究をしたい意向を示した。彼らの学費は王子が全額負担をしていたので、彼らにそれが払えるのかが心配だったが、それは杞憂に終わった。全員が極めて優秀で、特待生の要件を十分に満たしていたので学費は全額免除となった。メイや大上王が手放しで褒める彼らをカトマルズ王国は失うことになるため、国家にとっては大損害だろうなと思っていると、それからしばらくしてメルシ王太子、その頃はすでに王に即位していて、メルシ王となっていた彼から親書が届き、留学生に関しては引き続きカトマルズ王国が負担すると書かれてあったが、俺はその必要はないと返書を認め送り返した。その文末には、彼らは自分たちの未来は自分たちで決めることだろうと書いておいた。
◆ ◆ ◆
サウシ王子が討たれたことをヴィエイユが知ったのは、それから一週間後のことであった。彼女もこの結末は予想しておらず、驚きを隠さなかった。それでも、コトが起こってわずか一週間で情報を入手できた教国の情報網の優秀さに、彼女は大いに満足した。
報告書を読みながらヴィエイユは自らの人物評の誤りを認めていた。メルシ王太子はどちらかと言うと暗愚であるというのが彼女の評価であったが、この緻密な動きはバカでは到底なし得ないことであった。
……まあ、弟憎し、の思いが強すぎた、という点は考慮しなければならないわね。いや、逆にこの思いの強さがこの王の本来の才能を開花させたのかもしれないわね。
彼女はそんなことを考えながら、ヒーデータ帝国のヒートのことを思い出していた。即位する前は臆病で神経質で、人前でオドオドしていたために、到底大国の皇帝としてうまくやっていくことはできないだろうというのが、クリミアーナ教国内での共通した見解であった。しかし、ふたを開けてみればヒーデータはみるみると力をつけ、教国をしのぐ力をつけるに至った。現在では教国の干渉を受け付けない数少ない国の一つに成長している。
まさか、あのメルシ王太子も。そこまで考えて彼女は失笑を漏らした。あの男に限って、ヒーデータのように国を成長させていくことはできない。さすがの自分の眼力はそこまで衰えていないはずだと結論付けた。
ただ、メルシ王太子のように、まるでチェスをするように、ありとあらゆる可能性を考えながら一歩一歩着実に準備をし、相手を確実に仕留めに行くという人物は嫌いではなかった。そういう男には、その想像を凌駕しさえすればよいことを彼女は知っていたからだ。むしろ、相手の戦略を読みながらその対抗策を打ち出していくというのは、彼女の大好物であった。
意外と扱いにくいのは直情径行型の人間だ。どのポイントで導火線に火が付くのかを押さえるまでが大変で、突発的に怒ったり泣いたりする人間はむしろ彼女は苦手というより、嫌いな部類に入るのだった。
そんなことを考えながら彼女は、メルシ王太子の頭の中を覗こうと想像を膨らませる。
……きっとあのお方は、先王の政策を愚直なまでに踏襲していくはずだわ。となると、民衆への人気は高くなるでしょうね。となると、あのお方の肝は、民衆とのつながりということね……。
頭の中に次から次へとアイデアが湧いてくる。彼女は楽しそうな表情を浮かべると、足を組みながら椅子に体を預けて天を仰いだ。傍にいた枢機卿たちは黙ったまま一礼して部屋を出ていく。この体勢は主人が戦略を考えている、つまり最も楽しむ時間であり、それをじゃますると勘気に触れることを誰もが知っていた。
しばらくして、彼女はゆっくりと目を開けた。そして机に向かうとペンを取り、目の前に準備された紙にカリカリと何かを書き込むのだった……。
兄弟相克編、これにて完結です。また、間話をはさみまして、新章に突入する予定です。