第千三十八話 いよいよ
サウシ王子はその報告を聞いても、特に表情を変えなかった。その傍に仕えているゴロゴも、同じように普段と変わらぬ表情を保っていた。近習のカレント一人が興奮した様子で、めでたいめでたいと祝いの言葉を繰り返していた。
王子は正直に言って拍子抜けをしていた。こうなればいいと思っていたことが次々と現実になっていく。頭の中ではあらゆる事態を想定して準備を進めてきたし、場合によってはコンシディー王妃に取り入るべくシミュレーションをしていたところだった。そうしたものすべてが徒労に終わろうとしていた。だが、悪い状況ではなかった。彼はまるで自分自身が神に愛されている、神に選ばれた者であるかのような感覚に陥ろうとしていた。
一方のゴロゴの心中は王子とは逆で、彼は何とも言えぬ不安感を感じていた。何もかもが上手くいきすぎている。主人が帝位を継ぐことは嬉しいが、こんなに上手くコトが運んでよいものだろうか。あの王太子殿下が主人に帝位を禅譲するなどということはあり得ないことであった。それだけ王太子の王子への憎しみは強かった。それは昨日今日に始まったことではなく、ゴロゴがまだ幼少だった主人に仕え始めた頃からであった。
聡明で愛嬌のある主人と、鷹揚ではあるが不器用でこらえ性がなく、陰険な兄君。どちらが支持されるのかは一目瞭然だった。日ごとに高まるサウシ王子の評判に、兄君は激しく嫉妬し、事あるごとに嫌がらせをしてきたのだ。そんな男が、あれほど帝位に拘っていた男が、最も嫌う弟に帝位を譲ることに納得したというのが、彼にはどうしても信じられなかった。
まるで、こちらが望んでいることを相手が先んじて行動しているのではないかと思う程だ。王太子側とは必ず戦いになると考えていた。それは、将来的なことではあるが、かなり高い確率で発生すると考えていて、そのために、王子がアガルタを訪問した際に、同道した若い者をアガルタ軍本部に派遣して、軍事知識を学ばせているし、聖女・メイリアスの許に選りすぐりの者たちを留学させているのだ。
正直に言ってこのゴロゴは迷っていた。それは王太子側が罠を仕掛けているのではないかという一抹の不安が拭えなかった。ほんの一瞬だが、これは夢で、ふと覚めてみると自分たちは主従もろとも獄に繋がれているのではないか、などと考えさえもした。これは彼の生来の用心深さゆえの不安ではあったが、一方で、主人が帝位を継ぐというのであれば早いに越したことはないとも考えていた。事実、王太子側の貴族からは続々と寝返りの打診が届いている。さすがにこればかりは策略とは思えない。貴族というものは現実主義者で、権力を持つ者にすり寄ってくるものだからだ。彼らは自分の家の存続を第一に考える。家が子々孫々まで続いていくのであれば、たとえ他国の王でも尻尾を振ってすり寄っていくのだ。ましてやそれが王弟ということであれば、昨日のことなど忘れて、平気な顔をして親し気に近づいて来るものなのだ。
喜びと不安が交錯する中、不意に来客があった。長く王太子に仕えてはいるにもかかわらず、こちらに寝返りたいと打診してきたユラ男爵だった。彼はサウシ王子の顔を見るなり、おめでとうございますと言って片膝をついた。
「さて、何のことだか、私にはわかりかねるが」
王子は鷹揚に応対する。
「ご冗談を。ククマ殿の書状が届いているはずです。王太子殿下にあらせられては、サウシ様に帝位を譲るとお約束なされました。まずは取り急ぎ、お祝いを申し述べに参った次第です」
「王太子殿下が本当にそのようなことを言っておいでなのでしょうか」
思わずゴロゴが口を開く。サウシ王子は目で控えろと合図をする。だが、ユラ男爵はさもありなんといった表情で大きく頷く。
「いや、私は直接聞いてはいないのだが、ククマ殿が命を賭して説得なされたのだ」
「兄上の容体はいかがかな」
「予断を許さない状況となっています。前日から寝たきりになられ、ククマ殿が付きっきりで控えておられる。やはり殿下も体が弱ればおのずと心も弱るようだ。帝国の行く末を考えて、ククマ殿の言をお容れになったようです」
ちょうどそのとき、ククマからの使者と名乗る男が訪れたと侍女が報告してきた。王子はこちらに通せと命令する。
ややあって現れた男は、高価な布で包まれた一通の書簡を王子に差し出した。彼はそれを黙って読んだ。
「兄上が、危篤となられたそうだ」
王子の言葉に、そこにいる者たち全員が緊張しながら次の言葉を待つ。
「ククマ殿によれば、兄上は私に話しがあるらしい。直接会って二人で話がしたいと仰せのようだ。私だけではない、明日から主だった者たちが兄上の部屋に呼ばれるようだ」
「ということは……」
「何か、遺言がおありになるのだろう」
ゴロゴとカレントの二人は顔を見合わせている。その様子を見ながら王子はさらに言葉を続ける。
「早急に私に城に赴いて欲しいとのことだ」
「それはようございました」
ユラ男爵が大きく頷く。
「この上は殿下のお命が尽きる前にお目通りするべきでございます。馬を飛ばせば明日には城に着きましょう。私もお供いたします。さ、早く出立の準備を」
男爵に促されるように、サウシ王子は頷いた。
◆ ◆ ◆
王子が城に到着したのは、翌日の昼近くだった。到着してすぐに彼は城に詰めていた貴族たちから歓待を受けた。まるで降るような彼らからのおめでとうございます、の言葉に王子は何とも言えぬ表情を浮かべながら会釈をするだけにとどめた。
彼は城の一室に案内され、そこでようやく落ち着くことができた。しばらくして部屋の扉がノックされ、侍医のククマが入室してきた。
「おお、ククマ殿」
「王子様、お久しゅうございます。この度は……」
ククマはそう言って俯いた。その彼に王子は優しく肩に手をおいた。
「あなたの忠心は頭が下がる思いです。よくやってくれました。よくやってくれました」
「殿下……」
ククマはそう言って涙を流した。そんな彼の体を、王子はやさしく抱きしめた。
「お着き早々で恐縮ではございますが、すぐに王太子殿下のお部屋にお越しを願わしゅう存じます」
ククマは袖で涙を押さえつつ、まるで懇願するかのように口を開いた。その様子を見てサウシ王子は、いよいよ兄の臨終が近いことを悟った。
「わかった。行こう」
「ありがとうございます。ささ、私が案内をいたします。ああ、ご家来の方々はこちらでお待ちください」
ククマはそう言って王子を伴って部屋を後にした。
二人は黙って後宮に続く薄暗い廊下を歩いて行く。途中、チラリと窓の外に視線を向けてみると、雲が重く垂れこめていた。ひと雨ありそうだなと思いつつ、あの陰気な兄上の最後を迎える天気としては最適だな、と心の中で呟く。
ふと、廊下の向こうから一人の男が歩いてくるのが見えた。叔父であるカナルサ公爵だった。王族きっての武人で、剣に優れた人物だった。兄・メルシ王太子の守役であり、つい最近まで剣の修行相手をしていた人物であった。王子は正直言ってこの男が苦手ではあったが、それでも、彼に対して深く頭を下げた。
「お久しぶりでございます叔父上様。ご壮健そうで何よりでございます」
彼としては精いっぱいの心を込めて挨拶をしたつもりであったが、カナルサ公爵は一切表情を変えず、頷いただけであった。
「もしかして、兄上のお部屋にいらしたのですか」
王子の問いかけに公爵は無言を貫く。後ろに控えているククマに視線を向けると、彼は小さく頷いた。
「して、兄上のご容体は。何か、お言葉などはございましたか」
「……それは、伺えば、わかることだ」
公爵はそう言うとゆっくりと歩きだした。サウシ王子はその背中に一礼すると、彼もまた、兄の部屋に向かって歩き出した……。