第千三十七話 見守るほかなし
それからさらにひと月が経った。メルシ王太子の相貌はさらに峭刻となり、眼光のみ徒に炯々としている状態となっていた。もはや、この男の寿命が尽きるのは時間の問題であるかのように思えた。だが彼はあくまでも自身の体調は健全であるとの主張を曲げなかった。
「ビット村の件はどうなっている」
王太子は重臣会議の席上、突然そんなことを言いだした。ビット村とは、ひと月前にサウシ王子が占領した村だった。軍の総司令官であるスアエラス公爵がゆっくりと立ち上がる。
「特段、何もいたしておりません」
深い山間にある小さな村だ。特産物があるわけでなく、人口も百人にも満たない。どちらかと言えば王子側の領地に近く、王太子側にとっては、あってもなくてもどちらでもよい村であった。だが、王太子はスアエラス総司令官の言葉を聞いて激高した。
「何もしていないとは何事だ! 貴様はそれでも帝国臣民の命を預かる軍の責任者か! 恥を知れ!」
「……お言葉ですが殿下。ビット村に赴くためには高い山を越えねばなりません。わが軍の消耗が激しすぎます。それに、いま、村を攻撃すれば、間違いなくサウシ王子様との戦いになります。それは、避けねばなりません」
「先に兵を出したのはサウシの方ぞ!」
……むしろその方が好都合だろうという言葉を彼は飲み込む。たかだか百人も満たない村のために、多くの費用を割いて軍勢を動かすなど、彼にしてみれば沙汰の限りであった。もともとこの村は、先帝が地図上に線を引いて決めた領地配分で王太子側となったという経緯がある。この兄弟のいがみ合いのためにこの村の人々は、もともとつながりのあった王子側の人々との交流を制限されている。村人のことを思えば、馴染みのある王子側に支配された方が都合がいいに決まっている。それを証拠に、王子側が兵を向けても、村人たちは一人も抵抗していない。むしろ、村人にとって願ったり叶ったりの状況だろうと彼は見ていた。しかし、メルシ王太子はその考えを許さなかった。彼は顔を蒼白にして立ち上がると、
「馬を引け」
と誰に言うともなく命じた。あまりにも予想外の言葉に、会議の出席者はキョトンとした表情を浮かべていた。
「総司令官が動かぬのであれば、余自ら兵を率い、鎮圧に当たらん!」
そこまで言うと王太子はがっくりと椅子に崩れ落ちた。周囲の者たちが慌てて彼のそばに寄り、まずは休息をとるようにと勧めた。
「殿下。さ、私の肩におつかまり下さい」
侍医のククマが素早く駆け寄ってメルシ王太子を支えようとしたが、彼は邪魔だと言わんばかりにその体を振り払った。彼自身は振り払ったつもりなのだろう。だが、力が衰えているためか、その手はただ、ククマの衣装を撫でただけに過ぎなかった。
「殿下。私の心からのお願いでございます。どうか、どうか、後宮にてお休みください」
ククマは王太子に取り縋りながら言葉を絞り出す。
「余が休んでは、政務が滞るわっ! 貴様は黙っておれと申すにっ!」
「殿下、それならば、政務のことが気がかりであらせられるのであれば、どうぞサウシ王子様に政務の代行のご依頼を願い申し上げます。サウシ様であれば、ご舎弟さまであれば、きっと立派に政務を代行なさいますことでしょう」
王太子の動きがピタリと止まった。表情が無表情のそれに変わっている。一見すると怒っているようにも見えるし、ショックを受けているようにも見える。彼の表情からはその心情を読み取るのは難しいと言えた。
だが、ククマの言葉は言ってはいけない言葉だった。下手をすると斬られる可能性すらあった。しかしそれは、一部の者たちの心の声を代弁するものであった。騒ぎを聞きつけて集まってきた人々で騒然とする中、数人の男たちは、ククマの言葉に大きく頷いていた。
「バカ者め。バカ医者め。そなたに何がわかる。老いぼれは、黙っておれと申すに」
「殿下……」
「大体これは父上が悪いのだ。何故、国を四つに割るなどという愚挙に出られたのだ。国力を落とすようなことをなされたのだ。余が、余がこの国のすべてを相続せねば、この国は亡ぶ。この国は亡ぶのだ。何としても、何としても……」
王太子の言葉はここで途切れた。ハアハアと苦しい息をしながら喘いでいる。周囲の者たちが肩を貸して彼を介抱する。
「サウシを……サウシを、殺せ。あの者……何としても、殺さん」
まるで抱えられるようにして部屋を出る際、王太子はそんな言葉を口走った。この日の顛末は残らずサウシ王子に伝えられた。
「哀れだな」
報告書に目を通したサウシ王子は一言そう言って笑みを浮かべた。
「この間は膨大な予算を使ってアガルタから結界石を輸入しようとして、皆に諫められたばかりだというのにな。どうあっても私を殺したいらしい」
王子の許には、ククマから兄の病状が毎日のように送られてきており、城内での兄の行動はかなり正確に掴むことができていた。兄の弟に対しての衰えぬ対抗意識はむしろ尊敬に値するが、周囲の者たちはこぞって彼の命令に反対している。まずは殿下のお体を回復させることが肝要であると言って、ただひたすらに後宮での休息を勧めて、まともに相手にしていない状況であった。
であるにもかかわらず自らの体調も顧みずに健在ぶりをアピールしようとする姿は哀れさを通り越して滑稽そのものであった。総司令官を面罵し馬を引けと言ったのもそのためではないのか、とさえ疑ってしまう。しかし、その命を削ったパフォーマンスは徒労に終わる。すでに彼は家来たちから見放されているからだ。その兆候はここ数日でより顕著に見られるようになっていた。兄に仕えている者たちから、あからさまに寝返りを願う書状が届き始めていた。その中にはご命令があれば、命を賭して殿下のお命を奪って参りますといった、過激な内容を認めてくる者さえあった。
サウシ王子は勝利を確信していた。彼は心の中で侍医のククマに礼を言った。
ククマは、王太子に仕える者たちに、サウシ王子への速やかなる王位の禅譲を勧めていた。その意見に同意する者たちは多く、実際に折に触れてその話を本人に仄めかす者もいた。無論、サウシ憎しで凝り固まっているメルシ王太子が首を縦にふることはなく、仄めかす側も勘気に触れれば首が飛ぶ可能性すらあるために、直接的な行動は起こしていないが、ククマがそうした者たちの心中を代弁するような行動をとったことから考えると、一時的に政務をサウシ王子に委任するか、さもなければ穏便に退位するかの選択を迫る声がでるのも時間の問題であった。しかも、ククマからの書状では、折を見て自分の口から殿下に禅譲をお願いすると付け加えられてあった。
「このままではククマ殿が殺される可能性がありますね」
王子の近くに使えるボロボが、心配そうな表情を浮かべながら呟く。王子は苦笑いを浮かべる。
「我々は見守るほかはありません。ククマ殿の働きに期待するだけです」
同じく近習のカレントがそんなことを言いながら、机の上に送られてきた書簡を整理している。
「カルメ侯爵様、ユラ男爵様、ヒエイエ伯爵様、クダーユ伯爵様、バンナ子爵様、ニンザムラ男爵様……その他にも、サウシ様に従いたいと言ってくる貴族様が多くございます。できるのであれば、王太子殿下にこれらの書簡をお見せしたいですね。これほど殿下は貴族たちに見放されていますよ、と」
「そんなことをすれば、兄上は目を廻すだろう。いや、ショックのあまり天に昇られるかもしれないな。ハハハハ」
サウシ王子はそう言って笑うと、再び元の穏やかな表情に戻って、
「待とうぞ。今は、ククマからの知らせを待とうぞ。兄上がククマを斬ることはない。きっとククマはうまくやるだろう。そのときを、待つのだ」
そのククマからサウシ王子に、メルシ王太子が王位の禅譲に同意したと報告があったのは、それから二週間後のことだった……。