第千三十五話 やせ我慢?
メルシ王太子の風貌に変化が見られるようになったのは、それからひと月後のことだった。どちらかと言えば恰幅のよかった体躯が明らかに痩せており顔も少しこけているように見えた。
王太子自身は普段通りに振舞い、むしろ痩せたことで健康的な一面をアピールするようになっていたが、秘かに医師を探していることが公然の秘密となっている城の中では、彼の振る舞いはいよいよ重い病が進んでいるかのような印象を与えた。
それからほとんど間を置かずに、王太子が痩せた理由は食事の量が減退したためであるという噂が流れた。事実彼は、これまでの朝昼晩の三食から、夕食だけを摂る一日一食の生活となっていた。だが、王太子はその噂を否定するかのように、これまであまり親しく接していなかった剣の訓練を行うようになった。周囲の者たちは体に障りますと言って諫める者も多かったが、彼は頑としてそれを受け入れずに、それに取り組み続けた。
しかし、そうした努力の甲斐なく、彼の体は日に日に痩せていった。事件が起こったのは、そんな中だった。
それは、戴冠式を半年後に控え、その打ち合わせの席でのことだった。王太子は明らかに体調が悪そうであったが、何とか持ちこたえていた。だが、いよいよ限界を迎えたのか、彼は机の上に突っ伏してしまった。
騒然とする中、彼は力のない声で大丈夫だ、話しを続けよと繰り返したが、相変わらず顔を上げる気配はない。打ち合わせとはいえ、部屋には数多くの人々が集まっている。そんな中で王太子ともあろう者が机に臥すなどとはあり得ないことであった。近習の一人が、侍医のククマ殿を呼べと叫んだ。
ククマは長年に渡って皇帝およびその家族を専門に診てきた医師であり、王太子も王子も、子供の頃からこの医師に診察を受けてきた。腕は確かであり、父である先帝が病を患いながらも長寿を保てていたのは偏に彼の働きのお蔭であると言ってよかった。言わば彼は、最も皇帝一家の健康状態を知る男であった。
その彼が到着したのは、それからに三十分も経ってからであった。その頃になると体調も幾分か回復してきたのか、王太子は椅子にもたれかかるようにして座り直し、周囲の者たちに話を続けるように促していた。
「何をしに来たっ!」
ククマの顔を見ると王太子はそう言って一喝した。普段はどちらかと言うと厭味ったらしい物言いをする彼が声を荒げるのは珍しい光景であった。場の空気がシンとして張りつめていく。
「火急のお呼び出しでございましたため、準備に手間取りました。誠に申し訳ございません」
ククマはそう言って深々と頭を下げた。すでに頭は総白髪であり、老境に達した名医が頭を下げているのは、痛々しくさえあった。そんな視線の中、ククマは王太子に近づくと、失礼しますと言って手を取り、脈を診た。
「……少し脈が速くなっていますが、問題ございません」
「問題ございませんというのは、どういう意味だ」
「いえ、脈が速いのはお怒りになられたのが原因かと愚考します。それは、殿下の心が落ち着かれれば自ずと回復するものでございます」
「脈が速くなったのはそなたの顔を見たからだ。余は至って健全である」
そうは言ってみたものの、彼は苦しそうに大きなため息をついた。
「息苦しさを感じておいででございますか? どれ」
そう言ってククマは王太子の首に手を伸ばしてそこに触れ、さらに胸や腹を丁寧に触診した。
「お疲れがたまっておるようです。薬を調合してお届けしましょう」
「そなたはいつもそれだ。疲れが出たのだと言って薬を飲ませようとする。いくらうぬの薬を飲んだとて、何も効果はない。そのはずだ。余は病ではないからだ」
「畏まりました。が……」
「が?」
「医師たる私が疲れがたまっている、体調がお悪いと言っているのでございます。薬は飲んでいただかねば効くものも効きませぬ。ここは某をお信じいただいて、できるだけ栄養のある食事を摂られ、決められた時間に薬を飲んでいただき、しばらくは激しい運動をお控えになって、体をお休めいただくことが肝要と心得ます」
「そなたの用意する食事は不味すぎる! 薬も苦すぎる! あれでは食べたくとも食べられぬ。飲みたくとも飲めぬ。それに何だ。妃との同衾は二週間に一回程度とせよとな。馬鹿め! 余計に病気になるわっ! 余は至って健全である。それを証拠に毎日剣を振るっておるではないか、このボンクラ医師めっ!」
ククマはただ偏に、王とその家族のために尽くしてきた男であり、その忠誠心の高さは誰もが知るところであった。その彼が罵倒されている姿は正視に耐えないものであった。ククマは黙って王太子の言葉を聞いていたが、その肩はかすかに震えていた。そんな彼を見ながら王太子は、このような男に自分の体を、命を預けるわけにはいかない。早く別の医師を探してくるのだと言い、ククマに下がれと命令した。彼は何も言い返さず、その場を後にした。
「ククマ殿」
部屋を出るなり、王太子の許に仕えるフレゼと言う男が近づいてきた。
「ああは申されたが、殿下は体が思い通りにならぬことが歯がゆくて仕方がないのです。そのイライラが募っているだけなのです。あまり気になされぬように」
フレゼはそう言って頷いたが、ククマはカッと目を見開くと、
「医師の指示を聞いていただかねば、治るものも治りませぬ。私は殿下を幼少の頃から診てまいりました。誰よりも殿下のお身体を熟知している自負がございます。その私の指示を聞いていただけないのならば、殿下のお命は長く持ちますまいっ!」
「くっ、ククマ殿」
フレゼは慌ててククマを遮ると共に、思わず周囲を見廻した。それはこの城の中で言ってはいけない一言であった。何より、この扉一枚隔てた中にはまだ、王太子殿下とその側近たちがいるのだ。もし、耳に入って勘気に触れたならば、下手をするとククマの首が飛ぶ可能性は十分にあった。
幸いなことに部屋の中からは誰も出て来ず、殿下の怒号が響き渡ることもなかった。フレゼはホッと胸を撫で下ろしたが、ククマはぶ然とした表情のまま、ツカツカと廊下を歩いてその場を後にした。
このことは当然ながらサウシ王子の耳にも届いていた。
王子は兄の病気がいよいよ重篤になっていると確信したが、ただ、その確証がなかった。それを調べるために、敢えて兄の領地と隣接する小さな村に軍勢を差し向けて駐屯させてみたが、王太子側からは目立った抵抗もなく、村は難なく王子の手に落ちた。いわゆる無血開城であったために、大きな被害はなかったが、普段の兄であればすぐさま軍勢を差し向けて奪われた土地を奪還するところだが、一週間待っても軍勢は現れなかった。
そんなとき、王子の許に一通の書簡が届いた。差出人はククマからであった。そこには、王太子殿下のなされ様にはほとほと愛想が尽きた。どうやら新しい医師も決まりそうなので、自分はできればサウシ王子様の許で働きたいと書かれてあった。
さもありなん、と王子は手紙を読みながら頷く。確かに、ここ最近の兄は人が変わったようになった。幼い頃から体が弱かった兄は、体調が悪くなるとククマが調合する薬で回復させてきた。ククマには感謝こそすれ、面罵することなどはあり得ないことであった。
「これは、我々にとって大きな好機となりなすね」
書簡を読んだカレントが誰に言うともなく呟く。
「ククマ様が我々の許においでになるのであれば、王太子殿下の病状を知ることができます。うまくすれば、殿下のお命の終わりも……」
「カレント、不敬だぞ」
「失礼しました」
恭しく一礼するカレントの姿を見るサウシ王子の眼に、一筋の光が宿っていた……。




